背中
日付は変わり、月曜日。
不慣れな私がキャンバスを持って電車に乗るのは危ないんじゃないかということで、今日はお母さんの乗用車に乗って校門をくぐりました。
「大丈夫? ここから持って行ける? 車、もっと近づけようか?」
お母さんはそう言うと、心配そうな表情で私の顔を見ました。
お母さんに余計な心配をかけたくはないので、私はキャンバスの重さに耐えつつ笑顔で答えました。
「いいよいいよ。お母さんってば、心配しすぎ」
「そう? だったらいいんだけどね」
お母さんはそう言うと、私の頬を優しくなでてくれました。
手の温かさが心地よく、その愛情深い行為が私に力を与えてくれるようでした。
一瞬の触れ合いではあるのですが、私の心に確かな幸せをもたらしてくれるのです。
「じゃ、今日もがんばっていってらっしゃい」
「うん。行ってくる!」
キャンバスの入ったカバンを肩にさげ、私は車のドアを閉めました。
昇降口でサンダルを履き、階段を上ってこの姿を消すまで、お母さんはずっと車内で手を振り続けてくれたのです。
……もっとしっかりしなくちゃ。
すべては、私の背中を押してくれる人たちのために。
私は必ず、最後までやり遂げなくちゃいけないんだ。
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ゆっくりと階段を上るたびに、カバンの重みがますます私の肩を圧迫し、息が荒くなりました。
お父さんの作品は存在感に満ちており、それはこの作品も例外ではありません。
定期的にカバンを床に置き、私は深呼吸を繰り返しました。
私の非力な体では、この重さに抗いきれないのです。
何度も休息を取りながら、最終的にはナツが待っている美術室にたどり着くことができました。
扉を開けると、美術室特有の絵の具、油の香りや、乾いた床の独特な香りが鼻に押し寄せてきました。
窓から差し込む光が部室後方にあるナツの絵画を照らし、神秘的で恐ろしい雰囲気を醸し出していました。
「おはよう!」
ナツのあいさつとともに、部室が一気ににぎやかしくなりました。
「イーゼルはこちらにございます、お客様」
ナツはそう言いながら、手際よく私を部室の後方に案内してくれました。
カバンを長机に乗せ、私はようやく一息つくことができました。
「ありがとう」
私は案内先でカバンを開け、ナツが事前に用意してくれていたイーゼルにキャンバスをセットしました。
「写真では見てたんだけどさ、こうして生で見ると、なんだろう? やっぱり不思議っていうか……」
「吸い込まれるような感じ……」
ナツはキャンバスに近づくと、点や線を一つ一つを真剣に見入っていました。
彼女の感受性は、お父さんの作品に対し、私よりもずっと敏感に反応しているようでした。
私は深呼吸をしながらナツの隣に立ち、改めて作品に対する思いを巡らせました。
ランダムに伸びる点と線が、私たちに正解のない何かを訴えているようでした。
お父さんの意図やメッセージはまだつかめていませんが、「分からない」ということがこの作品の魅力なのかもしれません。
また少し、ナツの精神、もとい芸術の世界を知ることができた気がします。
「未完成のままなのにすごいと思う。一応タイトルは『答え探し』って決まっているんだけどね」
「そうなんだ?」
「包み紙の表面にそう書いてあったからさ」
「そっか。答え探し、ねぇ……」
キャンバスを見つめながら、ナツは言いました。
「……それでね? 私、この休みの間に考えてきたんだ」
「私、この子を完成させてあげたい」
「いつまでも未完成のままだと、やっぱりかわいそうだしさ」
「……なるほど」
ナツは納得げにうなずくと、キャンバスから視線を外し、私に問いかけました。
「じゃあ、この絵の続きを描くとしたら、サラだったらどういう風に描きたいの?」
……その答えは、もう出している。
答えを出すのは、私自身。
「私は……」
「……」
「……お父さんみたいに、油絵の具で描きたいなって思ってる」
「でも私って、色の濃い、薄いしか判断できないし、鉛筆以外で絵を描いたことがないから、正直どうなるかは分からない」
「でも、それでも私は、油絵の具で描いてみたいの」
そう告白すると、今度はナツがいきなり「……あの、実はさ」と切り出しました。
「実は私も、休みの間にずっと考えてたんだよね」
「どうやったら、宝石みたいにピカッと光るものを作れるのかなって」
「どうやったら、誰もマネできないようなものを作れるのかなって」
「それでね? サラの話を聞いて、たった今!どうするべきなのかがようやく分かったんですよ!」
「その結果ですね……」
ナツは細い声を出すと、なぜか私の両手を握りしめながら言いました。
「私たちは、一つにならないといけないんですよ」
そう言って私と目を合わせた途端、ナツはギュッと口を結びました。
「え? どうかした?」
「いや、なんだろ? 自分で言っておいてアレなんだけどさ」
「なんかちょっと、ヘンな感じがする」
ナツが言いたいことをなんとなく察した私は、「ふふふっ」と小さな声で笑いました。
「それもいいかね。なんかロマンチックっぽくてさ?」
ナツは軽くせき払いをすると、「えー! ごほん! どうやら私の言葉選びが悪かったみたいですね!」と言って雑に感情を払いました。
「えーっと、では、ストレートに言わせていただきます!」
笑顔を消し去ると、ナツは真剣な表情で「サラさよければ、私と一緒にその絵を完成させてあげない?」と言いました。
「え? でもナツはナツで描きたいものがあるんじゃないの?」
「んー、確かに描きたいものはあるんだけどさ? 一人で作るよりも、二人で作ったものの方が輝けるんじゃないかって思ったんだよ」
「それにね? 私の直感も言ってるのよ。『二人で作ったら、きっとすごいものが生まれるぞー!』ってね!」
「……って、思いつきだけでカッコつけちゃったんだけど、どんなものができるかだなんて、全然わかんないんだけどね。にゃはは……」
ナツは後頭部をかいて体の後ろに手を回すと、「そんなわけなんですけど、どうですかね?」と言いました。
私は、心の中で何度も『ありがとう』と唱えました。
その感謝は、私の心からあふれる、純粋な喜びと感謝の念でした。
「……うん」
「私、決めた。ナツの話を聞いて、今決めたの」
「だから私も、はっきり言うね?」
下に落ちていたナツの手を取りながら、私は応えました。
「私は、一緒に作りたい」
「私はナツと一緒に、この絵に命を吹き込みたい」
「だから私に、力を貸してもらえますか?」
ナツは口元を手で覆い隠すと、「お、おぉ! そうか! そうなのか! じゃあ私たちはこれから運命共同体だな! うん!」と言い、恥ずかしそうに顔を横にそらしました。
「あはは! ナツってば、口調が変わってるよ?」
「えへへ……」
ナツは人差し指で頬をこすると、はにかむような笑顔を見せました。
「もしかしてナツ、なんて言おうかずっと考えてくれてたの?」
ピョコっとジャンプをして後ろを向くと、ナツは顔をこちらに向けながら、「さぁー? どうでしょうねっ!」と言い、ニコリと笑いました。
「じゃ! そうと決まれば実際に描いてみるところからスタートですよ! ちょっと準備するので、しばらくお待ちくださーい」
ナツはそう言うと、部室の右前方にある美術準備室へ向かいました。
そしてそれは、扉を引いて準備室に入る瞬間のことでした。
つい先ほどまでの雰囲気とは一変し、ほんの一瞬だけ、深く考え込んでいる。
深く考え過ぎているように見えました。
「本当に、これでよかったんだよな」
私の地獄耳は、間違いなくその言葉をつかみました。
意気込みとは別に、ある要素がナツを悩ませていたのです。
……。
またそうやって、自分で自分を隠すのだろうか──。
またそうやって、無理やり押し潰すのだろうか──。
闇を封じ込めるためだけの器……。
……。
ごめんなさい、話が逸れてしまいましたね。
続けます。
きっと、新しいキャンバスを用意しているのでしょう。
準備室から、絶えずガコンッ、ガコンッ、ガコンッ、と硬い板に何かを打ちつけているような音が響いてきました。
しばらくして、お父さんの物よりも一回りほど小さなキャンバスを持ったナツが、準備室から出てきました。
「よーいしょっと!」
元気な声を響かせ、ナツは真っ白でツルツルとしたキャンバスをイーゼルに立てかけました。
「サラさーん、手ぶらでいいからこちらにいらっしゃーい」
ナツはそう言いながら、ナイフのような形状の道具や液体の入った瓶、太さや長さの異なる筆、小皿などを適当に長机の上へ並べると、キャンバスの正面に角椅子を置きました。
「コチラへお座りくださいな!」
私は「ありがと」と言って、そのまま角椅子に座りました。
「んで、今度はコレをお持ちください!」
ナツから手渡されたのは、チョークのような形をしていて、しかしチョークよりもはるかにやわらかい、真っ黒な塊でした。
「それ、木炭ってやつね。鉛筆の代わりだと思って描いてみて。最初はちょっとやわらかすぎて慣れないかもだけどさ」
ナツはそう言いながら、並べていた道具を一箇所にまとめました。
すべての道具をまとめ終えると、ナツは私の右隣に角椅子を用意して座りました。
イーゼルに立てている『答え合わせ』を見ると、ナツは「ふんふん……まずはこっちからかなぁ……」と言いました。
私の顔を見ると、ナツは「じゃあ、この人の右顔は、サラさんに描いてもらいましょうかね」と言いました。
「……うまくいかなかったら、ほんとゴメンね」
私が弱々しくそう伝えると、ナツは大切なことを見落としていたのか、すぐに言葉をつけたしました。
「あ、大丈夫大丈夫! 心配しなくていいよ! 失敗しても、このガーゼでキレイに拭き取るさからさ!」
ナツはそう言うと、手のひらに乗せた正方形のガーゼを私に見せました。
「では! 私は今からサラさんのアドバイス役になりますね!」
「まずは、こんな風に構えてみてくれる?」
そう言うと、ナツは姿勢を正し、キャンバスに向かって腕をまっすぐ伸ばしました。
ナツの姿勢をまねしながら、私は「こんな感じ?」と聞きました。
「うん! いい感じよ!」
「そのままの姿勢を保って、普段スケッチブックをなぞっている時みたいな感覚で描いてみましょ!」
「了解」
私は木炭を右手に添え、ナツが言った通り、スケッチブックに黒い命を吹き込んでいる時と同じような感覚で線を描いてみました。
抵抗もなく、真っ白い世界に淡い線が刻まれていく。
(私、本当に描いてるんだ……)
(スケッチブックかじゃなくて、キャンバスに……)
(やっと、ここに来たんだ……)
ナツは、キャンバスに命を刻む私の姿を横から見ながら「どう? 初めてキャンバスに触れてみて」と問いかけました。
「……嬉しいよ。すごく」
「ひさしぶりに、背中を見た気がするんだよね……」
過去に忘却していた『克服する意欲』を、私は思い出したのです。
それは、新しい世界への扉が開かれると同時に、私の中に眠っていた無限の可能性が目覚めるかのようでした。
キャンバスに描く喜びを感じながら、私は笑顔になりました。
「……そっか」
「この世界ではね、楽しいとか、嬉しいとかの『感情』がすごく大切なの」
「……だからサラは、忘れないであげてね」
「忘れないよ。こうやって私が息をして、キャンバスに向かっている限り、間違いなくね」
私がそう告げたタイミングで、部室にミサちゃん先生が入ってきました。
「二人とも、おはよう」
「おはよーございまーす!」
私は一度手を止め、ミサちゃん先生に「おはようございます」とあいさつをしました。
木炭を握っている私の姿を見ると、ミサちゃん先生は「お、さっそく取りかかっているんだね?」と言いました。
「はい! やってみないことには始まらないので!」
私が言葉を返すよりも先に、ナツが笑顔で答えました。
ミサちゃん先生はうなずくと、「うん、うん。いいことだね」と言いました。
ナツから私へ視線を移動させると、ミサちゃん先生は「サラさん、実際にやってみてどう?」と言いました。
描きたての絵を見ながら、私は「まだ描いたばかりなんですけど、とても、とても、楽しいです」と答えました。
「ありがとう、サラさん」
視線を私からナツへ戻すと、ミサちゃん先生は「やっぱり受け入れて正解だったね、ナツさん」と言いました。
「えぇ! 本当に!」とナツは言うと、私の肩に手を回しながら「サラには無限のやる気がありますからね! それに私たち、今日から運命共同体なので!」と言いました。
「ふふっ! そうだね! 私たちは一つ、だからね!」
ミサちゃん先生の顔を見て、ナツはニコリと笑いました。
「お? 私がいない間になんだか面白そうなことになってるね? 本当はもう少しだけここにいたいところなんだけど、まだやることが大量に残ってるから職員室に戻ってるね」
「はーい!」
「分かりました」
ミサちゃん先生は「何かあったら、いつでも呼びに来てくれていいからね」というと、小走りで部室を出て行きました。
階段を下っていく音が聞こえなくなったところで、ナツが「それじゃあ再開しましょうか」と言いました。
「えぇ、お願いします」
そう返した私は、再び木炭を構え、キャンバスに黒い命を吹き込みました。
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それから二時間ほど、私はじっくりとキャンバスに黒線を重ねていきました。
右顔の輪郭を描く際は、光と影の微妙な変化に敏感になりつつ、さらなる深みを加えていきました。
黒線は次第に形をなしていき、女性の右目には確かな輝きが生まれました。
まゆも角度や繊細な感情を込めて、丁寧に描き込みました。
口元には笑みが宿り、髪の毛が風になびく様子を表現するべく、毛の一本一本すべてを慎重に描いていきました。
「初めてでこれだけ描ければ上出来だよー!」
未熟な描線にもかかわらず、ナツは励ましの言葉で優しさを運んでくれたのです。
「そう……なのかな……? まだまだ直すべきところはたくさんあると思うんだけど……」
「最初はこんな感じでいいのよ! 時間をかけて、ゆっくり少しずつ調整していけばいいからさ!」
経験豊富なナツのアドバイスに耳を傾けながら、私は「うん」とうなずきました。
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その日、電車の中は静かでした。
ほとんどの人はスマートフォンや本に夢中で、そこには話し声もなく、各々が自分の世界に没頭していました。
私はゆったりとした端の席に座り、外の景色をぼんやりと眺めました。
窓の外に広がる風景は、心の喧威からかけ離れたとても穏やかなもので、揺れる電車の音とともに、私の心は軽やかになるのでした。
すると、突如として車内の静けさが一変し、私の隣に座っていたナツが「……ねぇ、サラ」と声をかけてきたのです。
その瞬間、私の周りの静寂が一瞬で打ち破られ、不意に生活のリアリティが戻ってくるような感じがしました。
私は灰色の風景から視線を戻し、「うん?」と返しました。
しばらくして、ナツはついに口から言葉を発しました。
「サラはさ、絵を通して何を見ようとしてる?」
私は驚きました。
内面に隠された感情や動機を問われることなど、これまでほとんどなかったので、私は思いがけない深みに引き込まれていく感覚を覚えました。
「そうだねー……」
「大げさかもしれないけどさ」
「……希望」
「未来への希望……かな?」
心の中で紡がれる情景と、窓外の風景を重ね合わせながら、私は答えました。
瞬間、電車の中に冷たい静寂が広がり、私たちの間に緊張が生まれたのです。
ナツは笑顔で「おけ、ありがとう」と口にしたのですが、微かに『迷い』が混じっているように感じました。
笑みとともに緊張が解けることはなく、電車はそのまま次の駅に到着しました。
「んじゃ、バイバイ」
「……じゃあね」
ナツが電車から降りる際、彼女の背中は妙に小さく、その小さな背中に暗い影がへばりついているかのような──。
いえ、むしろ、彼女の方から影に寄り添っているかのような感じがしました。
電車は再び走り始め、ナツがいなくなったこの空間には、ただ余韻のみが残されていました。




