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モノクロームに愛された者たちへ  作者: ヤナギ ショーキ
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幼少期

 精神的に高負荷のかかる描写がありますので、読む際にはご注意ください。


 ─────────────────────


 右も左も、前も後ろも、すべてが悲しみに包まれた薄暗い世界。


 私だけが迷い込んでしまった、薄暗い世界。


 喜怒哀楽の感情すら読み取れなければ、この世界を『美しい』と錯覚することすらできない。


 そんなひどくよどんでしまった世界の中で、私は死んだのです。


 ─────────────────────


 今から少しだけ、私の過去についてお話ししたいと思います。


 それは、私がまだ幼稚園児だった頃に起きた出来事。


『死』の出来事です。


 分厚い灰色の雲が灰色の空を覆い隠した、ある日のこと。


 つい数週間前に五歳になったばかりの私は、その日も普段通り、お父さんが運転する乗用車に乗って家に帰ってきました。


 チャイルドロックがかかった後席のドアをお父さんに開けてもらい、シートベルトをなんとか自力で外した私は、ピョンとジャンプをして車から降りました。


 コンクリートで固められた地面に着地した瞬間、私は玄関のドアへ駆け出しました。


 小さく、柔らかな両手でドアを開けた私は、腹底から「ただいまー!」と声を張り上げました。


 ハイヒールやサンダル、革靴などが横一列でキレイに並んでいる中、私は、それまで履いていた土で薄汚れたスニーカーを乱雑に脱ぎ捨てました。


 かぶっていた灰色の帽子を廊下の隅に投げ捨て、私は勢いそのままに、お母さんがいるリビングへ駆けました。


 私は、「ママー!」と叫びながらリビングに入りました。


 部屋に入ってすぐ私の目に飛び込んできたのは、コーヒーカップを片手に添え、深々とリビングチェアに座っているお母さんの後ろ姿でした。


 お母さんはチェアをゆっくり半周させると、私の顔を見ながら笑顔で「おかえり、サラ」とあいさつをしました。


 私はもう一度、お母さんの顔を見上げながらとびっきりの笑顔で「ただいまー!」とあいさつをしました。


 私のあいさつからほんの少しして、ガチャリ、とドアの開く音が聞こえてきました。


 カツカツ、コツコツ、と靴底から響く硬い音が鳴り止んだかと思えば、お父さんが遅れてリビングに入ってきました。


 顔を上げると、お母さんは変わらず笑顔で「あなた、おかえりなさい」と言いました。


 その姿をマネしたいと思った私は、クルリと後ろを向き、お母さんに負けないくらいの声量で「おかえりー!!」と叫びました。


「……うん、ただいま…………」


 ですが、お父さんから返ってきたのは、活力をまったく感じさせないほどに沈んだ声でした。


 不思議に思った私は、お父さんの顔を下からのぞき込んでみました。


 なぜかお父さんは、とても暗い表情をしていました。


 幼い私は、さっぱり分からなかったのです。


 つい数分前、お父さんと私は車内で楽しくおしゃべりをしていました。


 その時、ルームミラー越しに見えた、お父さんの優しい表情。


 その時に聞いた、お父さんの明るい声。


 違っていました。


 すべてが違っていたのです。


 ですが、今思い返してみれば、それはある一種の。


 お父さんなりの優しさだったのかもしれないな、と思うのです。


 手に持っていたコーヒーカップを木製コースターの上に置くと、お母さんは「あら、どうかしたの? そんなに暗い顔をしちゃって。今日は何かよくないことでもあったの?」と言いました。


 しかしお父さんは、お母さんと顔を合わせることなく、低い声で「まぁ……ちょっと、この子のことでね……」と言いました。


『この子』


 つまり、私のことです。


 普段とは異なる様子に何かの異変を感じ取ったのか、お母さんは冷静に、そして、すべての不安を打ち払うかのような温かみのある声で「大丈夫、大丈夫だから。ゆっくりでいいから。ね?」と言いました。


 私は、頭上で行われている二人のやり取りを下から眺めながら、チェアに座ったまま優しい表情を浮かべているお母さんのもとへ近づきました。


 私が「ねぇねぇ、ママー」と呼ぶと、お母さんは体勢を低くし、目線を合わせながら「んー? どうしたのー?」と言いました。


 そうして私は、お父さんが覚悟して語るよりも先に、言い放ってしまったのです。


「あのね、きょうね、みんなでえをかいたの!」


 変わらず優しい表情で「あら! そうなの!」とお母さんは言いました。


「うん! でもね? みんながわたしのえを、へんだーっていうの」


 私はそう言い、肩にかけていたカバンの中からクレヨンで描いた一枚の絵を取り出し、お母さんに手渡しました。


 私が描いた絵を見た瞬間、お母さんのから優しさが消し飛んでしまったのです。


「…………これは?」とお母さんは言うと、絵から目を離し、不規則にまばたきをしながら私の瞳をのぞきました。


「それとね? あとでせんせーが、ママにでんわをするっていってたの。なんでだろ?」


 首をかしげながら、私はまた言い放ってしまったのです。


 ひたすら真っすぐ。


 お母さんの瞳の、さらに奥をのぞきながら。


 すると突然、私の背後でお父さんが言いました。


「…………ごめん」


「ごめん、マリ……」と。


 すると今度は、お母さんが口を開きました。


「……なんで?」


「なんで、あなたが謝るの……?」


「ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……」


「ごめん……ごめん……」


 お父さんは、声を震わせながら何度も、何度も、何度も、何度も、お母さんに対して謝り続けました。


 しばらくの間、この広い空間を『無』が支配していると、止まっていた時の流れを打ち破るかのように、お母さんが急に立ち上がりました。


「マ、マ……?」


 私の瞳を再度のぞくと、お母さんは唇を小刻みに震わせながらゆっくりと語り出しました。


「サラ……えっとね、先生は、みんなはね……」


 下唇を強くかんで苦しそうな表情を浮かべると、お母さんはぐるりと後ろを向きました。


「みんなは……心配で……」


「……いや、ちょっと違うかな……」


「きっとそれは……成長するための試練……」


「そう……」


「試練なのかもしれない……ね……」


 まるで、私の目には見えない誰かがすぐそこに存在しているかのように、お母さんは虚空に向かって訴えました。


 その後ろ姿を見ていた私は、恐怖。


 あるいは、もっと恐ろしい『何か』


 得体の知れない力によって、私の口は強く締めつけられたのです。


 圧倒的な力を前にして言葉を発せられないでいると、お母さんが振り返り、もう一度私の瞳をのぞきました。


 お母さんは、無言のまま前かがみの姿勢になると、私に両手を差し伸べました。


 私は、無心で両手を差し出しました。


 お互いの指先が軽く触れ合うと、お母さんは、私の両手を優しく握りしめてくれました。


 氷のように冷えきってしまった左手と、炎のように燃えさかる右手────。


「……どうして?」


「どうして、しれん? をくれたの?」


 私は両手を握ったまま、お母さんの顔を見上げて尋ねました。


 私の右耳に口を近づけると、お母さんは言いました。


「それはね……? サラが強くて、立派な人間になるためなの。だから……」


 そう言うと、お母さんは力いっぱい、小さな私を抱きしめました。


 幼い私にとってその力はあまりに強く、お母さんの胸の中で呼吸が止まってしまいそうになったことを今でも鮮明に覚えています。


 数秒ほどすると、お母さんは腕に入っていた力を徐々に緩めました。


 私は一歩後ろへ距離を取り、お母さんの顔を見ました。


「お願い……」


 今にも押しつぶされてしまいそうなほどのか細い声でそう言うと、お母さんの頬に一滴の涙が伝いました。


 お母さんは洋服の裾で涙を拭うと、自身に降りかかった悲しみをごまかすように、何度も、何度も、何度も、私の頭をなで続けてくれました。


 しかし、その手から『ぬくもり』などという要素を感じ取ることはできませんでした。


 代わりに感じ取れたのは、電話機から無限に鳴り響く、乾いたベル音だけでした。


 ─────────────────────


 次の日、私は急きょ幼稚園を休み、お母さんと一緒に眼科へ行くことになりました。


 何時間もかけて、私はさまざまな検査を受けました。


 幼い私にとって、その長すぎる検査時間は、まるで永遠のようにも感じました。


 すべての検査が終わり、ロビーで時間をつぶしていると、私たちは看護師に呼ばれ、医師がいる部屋へ案内されました。


 そして私は、医師からこう告げられたのです。


「サラさんは、色が見えません」


「残念ですが、この先も色が見えるようになることはありません」と。


 丸椅子に座ったまま、私はキョトンとしました。


 目の前にいる人が何を言っているのか、私にはさっぱり分からなかったのです。


 その頃の私は、『この目で見ている景色こそ、この世界の色なんだ』と思っていました。


 しかし、それは違った。


 その日、私はようやく初めて、『私だけが色のない世界で生きている』ということを知ったのです。


 さらに私は、生まれつき。


 先天的に色が見えない病気であった、ということも後の検査で判明しました。


 なので、もし誰かから「これは赤で、そっちが青で、こっちが緑」と言われても、私には分からないのです。


 私の目からすれば、すべてが黒、灰、白色にしか映らないのです。


 それ以前に、この世界には『色』という概念が存在していることすらも、私には理解できなかったのです。


 そして最後に、医師はお母さんに対してこう伝えたのです。


「早期に発見することができてよかったです」と。


 ──────違います。


 それは、違います。


 逆です。


 逆なのです。


 逆に、発見が早すぎたのです。


 なので私は、幼くして悟ってしまったのです。


『私は一生、この悲しい世界からは逃げられないんだ』と。


『私はこの先も、色が見えることはないんだ』と。


 五歳の私にとって、その真実はあまりに大きく、一人だけでは到底背負いきれないような重りだったのです。


 私はその日から毎日、自分のことについて考えるようになりました。


 そして、『現実』という名の高すぎる壁にぶつかったのです。


 その頃には、もう何も、何もかも。


 人生におけるすべてを見失っていたのです。


『私はこの先、どうやって生きていけばいいんだろう……?』


『もう諦めた方がいいのかな……?』


 ごくごく普通の生活を送れている人であれば、とても到達することができないような極限の場所に、私はたどり着いてしまっていたのです。


 絶望の淵に追いやられた私は、何かにすがるような気持ちで一度フッ、と深呼吸をしました。


 すると、私の体を内側から食い破るように、真っ黒い感情がジワリジワリと奥底から込み上げてきたのです。


 そうして私は、自ら絶望の穴に落ちて死んだのです。


『もう、どうだっていいか……』


 他でもない『自分』という存在を見失っていた時期、私は、自身の存在を否定することばかり考えていました。


 しかしその思考は、私自身が生み出してしまった悪魔的な妄想であり、大きな間違いであったと、歳を重ね、受け入れることの大切さに気がついた今だからこそ、ハッキリと言い切ることができるのです。


 今、みなさんにお話ししたいと思います。


 私のすべてを。


 ─────────────────────


『真実は、人を簡単に死へ追いやるほどの力を持っている』ということを、みなさんには知ってもらいたいのです。

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