魔王誕生
ユリアは、大樹の傍で、その枝に咲く薄紅を見上げていた。
あの脱獄の夜から、一年が経っている。
いまや、後宮の庭は、王がユリアのために整えさせた広大な花園となっていた。
午後の日差しが、まぶしく降り注ぐ中、色とりどりの花弁が、柔らかな風に揺れている。
見渡す限り、一面の花畑だ。美しく、輝かしく、どこか幻想的ですらあった。視界を遮るものは何もなく、風に舞うひとひらの花びらと、鳥のさえずりだけが、ゆったりと流れていく。
花園に、自分以外の人影はない。
なぜならここは、王が、ユリアのためにあつらえた場所だからだ。ただ一人の妃のための花園だ。ユリア以外で立ち入ることができるのは、王に命じられた庭師たちだけだ。彼らがいなければ、ユリアはこのどこまでも続く庭の中で、途方もなく一人だった。
かすかに、ため息をつく。
このような広い庭は必要ないといったのだ。
後宮にほかに妃はいない。カイルに入れるつもりもない。なら、自分一人の庭園だ。公爵家の離れで暮らしていた頃のように、小さな花壇でもあれば十分だ。あまり大きくても、持て余してしまう。
……確かに、カイルにそう伝えた。けれどカイルは、聞き入れなかった。
王宮で働く者たちに間では、王妃の言葉なら、王は聞き入れると噂されているそうだけれど、それは半分当たっていて、半分外れている。
ほかの者たちのように、諫言一つで文字通り首が落ちるということはないけれど、王が聞き入れるとは限らない。聞き流されることも多い。この庭のように。
カイルは自分に、多くのものを与えたがる。
それはまるで、罪滅ぼしのようであり、自分を引き留めるためのようであり、そして、恐れているかのようでもあった。
─── 罪人の塔へ向かったあの夜に、本当なら、自分は死んでいるはずだった。
けれど、誰も知らないことが、一つだけあった。
カイルも自分も知らない、事の首謀者であった第二王妃すら知らなかった真実だ。
※
始まりは、カイルの母である、正妃の妊娠にまでさかのぼる。
第二王妃は、そのときすでに、その地位に収まっていたが、まだ子供はできていなかった。
彼女は、表向きは、あの慎み深い笑みを浮かべて、正妃の妊娠を心から祝福して見せていたけれど、裏では暗殺計画を進めていた。
第二王妃の実家は、さして有力な家柄ではない。古く、血筋がよいだけの家だ。だからこそ、彼女は、第二王妃に選ばれた。争いの種にならず、同時に、正妃が隣国出身であることに不満を抱く者たちをなだめるための人選だった。
まさか、誰も、夢にも思わなかったのだろう。
控えめな人柄と評判の彼女が、強い野心を胸に抱き、権力を握るためならば手段を選ばない冷酷さを隠し持っているとは。
第二王妃は、密かに培った裏での人脈と、旧家である実家から持ち出した禁書でもって、正妃を呪った。
誰にも気づかれずに、正妃とその腹の子供に死を与えるために、第二王妃とその配下の魔術師たちは、両手の指では足りないほどの数の生贄を捧げたという。
生贄に選ばれたのは、親を失い、路上をさまよう子供たちだった。攫われて、ある日突然姿を消しても、誰にも探されない子供たちだ。第二王妃に従う裏の魔術師たちは、子供たちの命を捧げて、対価として膨大な力を得た。
本来、正妃には幾重にも守りの魔術がかけられており、危害を加える気配がしただけでも、感知されるはずだった。……逆にいえば、その万全の守りがあったからこそ、正妃の死に疑いを持つ者は、今までいなかったのだ。
しかし、第二王妃たちにも、思わぬ誤算があった。
正妃は狙い通り“産褥で”命を落とした。
だが、赤子は無事に生まれ、生き延びたのだ。
母子ともども暗殺する計画は、その瞬間に、失敗に終わった。
第二王妃は、途端に警戒を強め、自分たちの守りを固めた。生き延びた王子へ手出しはしなかった。彼女たちは罠を疑っていた。下手な真似をして、自分たちの身が危うくなることを案じた。
第二王妃は、誤解していたのだ。
王子が生き延びたのは、正妃の友人であり、ヴィレール王国一と謳われた魔術師 ─── つまりユリアの母が、何らかの手段を講じたからだと解釈していた。
サルヴァ公爵夫人は、暗殺計画に、勘付いていたのかもしれない。今もなお、こちらに疑いの目を向けているのかもしれない。その不安が、第二王妃一派の動きを抑えた。
だから、第二王妃たちはまず、王子より先に、サルヴァ公爵夫人を排除することに決めた。
偉大な魔術師である彼女の目をかいくぐるために、魔術は一切用いずに、遅効性の薬を使って、ゆっくりと、ゆっくりと、ユリアの母を殺した。病死に見せかけて。
次に、ユリアの父であるサルヴァ公爵家当主も殺した。
公爵家夫妻は仲睦まじいことで有名であり、夫人から何か聞いている可能性が高かったからだ。夫人と違って、魔術師としては平凡だった当主を事故に見せかけて殺すのは、難しくなかったそうだ。
一人娘のユリアが殺されなかったのは、ひとえに、その必要もないと判断されたからだ。
今まで何度も生死の境をさまよっている、病弱な子供だ。
わざわざ殺さなくても、その内死ぬ。
それに、王太子の婚約者は、無力な娘のほうが都合がいい。ユリアが死んでしまえば、王太子は新しい婚約者を選ぶだろう。そこで有力な貴族と繋がられては厄介だ。
いずれカイルを破滅させる日のために、第二王妃たちは、ユリアを見逃した。始末せずに、飼い殺しにすることに決めた。
─── それが、自分たちの破滅の幕開けになるとも知らずに。
第二王妃は誤解していた。
カイルが生き延びたのは、ユリアの母が守ったからではない。
カイル自身の膨大な力が、カイルを守ったのだ。
“それ”はまだ未熟であり、未発達であり、無防備だった。
襲い掛かる悪意を前にして、正しく対抗できるほどの知恵は持たなかった。
ただ獣のように暴れて、いくつかの鎖を引きちぎり、いくつかの鎖に閉じ込められた。
それは赤子の本能的な自己防衛であり、カイル自身の記憶にはなかった戦いだ。
だからカイルは、ずっと、自覚していなかった。
彼には十分に強力な魔力があったから、周囲の人間も疑いもしなかった。
カイルが、封じられた状態であることなど、誰も知らなかったのだ。
あの罪人の塔で、ユリアは、カイルを助けるために、“魔法”を使った。
ユリアのたった一つの切り札だ。
たとえどれほど強い魔術であっても、“魔法”に抗いきれるものはない。
ユリアがカイルに使った“解呪”は、カイルにかけられたすべての枷を解いた。
そう ─── 、かつて、生まれる前にかけられた呪いを含めた、すべてを。
ユリアが永遠に瞼を落とそうとしたあの瞬間、カイルは絶叫した。
……助けられると思っていたわけではないのだろう。カイルはユリアの事情を知っている。“魔法”を使ってしまった今、ユリアを救う手立ては何もない。それでも、カイルは、悲鳴のように詠唱した。し続けた。耐えられなかった。戻ってきてくれと叫んだ。腕の中で失われていく命を、繋ぎとめるためならば、何だってしただろう。
そして、世界は、カイルの望みに応えた。
カイルは、そのとき、初めて知ったのだ。
自分の身に秘められた膨大な魔力を。生まれ落ちたときから抱いていた、真の宿命を。眼差し一つで世界を従わせる王の資質を。
カイルは、正真正銘の“魔法使い”だった。
魔力だけが強く、身体が適応できずに死にかけていたユリアとは違う。
カイルの溢れ出す力は、カイルの身体によくなじんだ。
カイルには、言霊も契約も、もはや必要なかった。望むだけで、力は形となった。魔なるものたちはどこからともなく集まり、カイルにこうべを垂れた。
それは、魔王が生まれた瞬間だった。