真実
切り札を使えば、監禁されていようと、投獄されていようと、関係ない。確実にカイルを逃がすことができる。
(でも ─── 、それしかできない)
ユリアは顔を歪めた。
今までカイルがどれほど国のために尽くしてきたか、ユリアはよく知っている。
逃げてしまえば、カイルの濡れ衣を晴らす機会は、永遠に失われてしまう。追っ手もかかるだろう。カイルならば、その逆境すら乗り越えて、一時は身をひそめても、味方を増やし、王位を取り戻せる日が来るかもしれない。けれどそれは、弑逆の汚名を自ら被るのと同じことだ。
疑いは真実だったのだと、誰もが思うだろう。
(まだ、使えないわ。……まだ、判決は出ていないのですもの)
ここまできては、無罪となる可能性は限りなく低い。
それはわかっていたけれど、第二王妃から聞いたところによれば、カイルはまだあきらめていないという話だった。カイルはいまだ変わらずに、濡れ衣を訴え、その強い眼差しを失っていないのだという。
なら、自分が勝手に屈してしまうわけにはいかない。
それに、第二王妃という最大の味方もいるのだ。
ユリアが監禁の身となってからも、第二王妃だけはユリアを気にかけて、以前と同じようにお茶会へ招待してくれている。
叔父も、第二王妃の意向を無視することは難しいのだろう。そのときだけは、ユリアは外出を許されていた。
(……それでも、もしものときのために、備えだけはしておきましょう。もし、最も恐ろしい判決が出ることがあれば、そのときは……)
自分のすべてを費やして、カイルを牢獄から解放しよう。
※
カイルが捕まってから、五か月が過ぎた。
情勢は日に日に悪化していき、今ではまるでカイルなど存在しなかったかのように、第二王子が正式に王太子位に任命される式典の準備が進んでいる。当初は沈黙という中立を守り、周囲を伺っていた貴族たちも、カイルの投獄が長引くにつれ、先を競うように第二王子支持を打ち出した。
今や、第一王子派といえる人間は、半死人のようなユリアだけ ─── ……。
それは、侍女たちの噂話から得た情報だった。
シンシアが解雇された後、侍女たちは、ユリアが熱を出して寝込んでいると、看病という名目で、ユリアの部屋を息抜き場所に使うようになった。厳しい侍女頭の眼がないユリアの部屋は、お喋りにはもってこいの場所なのだろう。彼女たちにとって、寝台のユリアなど、耳があるとは思わない。人の形をした置物のようなものだ。
ユリアは、たびたび、寝込んでいるふりをして、侍女たちの噂話に耳を澄ませていた。熱を出して寝込む芝居だけは、迫真の演技だったろう。何せ、幼少の頃から身体に沁みついている動きだ。ユリアは内心で自嘲しながらも、噂話にじっと耳をそばだてた。
監禁された身で、第二王妃のお茶会以外では、外へ出ることもできず、会話をする相手もいない。侍女たちのお喋りは、貴重な情報源だった。
そして ─── ……、ある日ついに、最も恐れていた言葉が出た。
「ねえ、聞いた? 例の王子の処刑の日が決まったそうよ」
「らしいわね。でも、処刑場は使わないんでしょう?」
「さすがに元王太子に、公衆の面前でギロチンはできないでしょうよ。あの塔の中で死なせるんじゃないの? 名誉のための服毒死とか、あり得そうじゃない」
「偉い人は得よねえ。大罪人になっても、気遣って貰えるんだもの」
ユリアは、思わず悲鳴を上げそうになるのを、口を手で押さえて必死に耐えた。
(第二王妃殿下は、そんなことおっしゃらなかったわ ─── !)
先日も、お茶会に招かれたばかりだ。
けれど、判決が出たという話すらなかった。
むしろ、陛下のお加減が悪いのだと聞いていた。身体が弱っているせいもあり、カイルへの処遇を後悔している言葉も出ているのだと。もしかしたら、第二王子が正式に王太子となった暁には、恩赦が出るかもしれないと励ましてくれた。
カイルが望んでいるのは、恩赦ではなく、汚名返上だろうとわかっていたけれど、それでもユリアは黙って深々と頭を下げた。
恩赦での放免ならば、少なくとも追っ手がかかることはない。
今はもう、それだけでも十分な気がしていた。
─── なのに、死刑だなんて。
侍女たちの噂話が正しいのかどうか、ユリアに判断はつかない。
けれど、聞き捨てることはできなかった。
……第二王妃という希望にすがりながらも、カイルがいつそうなってもおかしくない立場なのだと、ユリアも理解していた。
死刑が真実なら、第二王妃が知らなかったとは思えない。
けれど、第二王妃は、優しく慈悲深い人柄だ。ユリアの心をおもんばかって、真実を伏せたのかもしれない。先の長くない娘に、絶望を与えることはないと、気遣ったのかもしれない。
ユリアは、侍女たちに悟られないよう、静かに息を吸い込んだ。
侍女たちの噂によれば、死刑は三日後なのだという。
もう、猶予はない。切り札を使うのは今夜だ。
(……どうか、もう少しだけ、お待ちくださいませ、殿下)
ユリアはそう、胸の内で囁いた。
※
月が銀色に輝く夜だった。
ユリアは、荒い息を吐きながら、罪人の塔の階段をのぼっていた。
屋敷の者たちはみな、眠りに落ちている頃合いだ。自分の姿がないことを、気づかれる心配はない。
右手にランプを掲げ、左手には小さな鞄を持ちながら、壁を押し伝っていく。
小さな鞄には、手元に残ったわずかな装飾品と、母の形見の短剣が入っている。
装飾品は、売れば路銀になるだろう。短剣は、武器としては頼りないが、ほかに持ち出せる物がなかった。何もないよりはいいと考えるしかない。いくらカイルが、牢の中でも貴人として遇されているといっても、武器だけは与えられないだろうから。
階段をのぼっていく。絶え間なく襲ってくる眩暈と、今にも壊れそうな心臓に耐えながら。
( ─── まだよ。この夜が明けるまでは、死ぬわけにはいかないの)
ユリアのたった一つの切り札は“魔法”だ。
もはや誰も触れることのできなくなった領域。言霊も契約も必要としない古の魔術。かつて、このヴィレール王国の祖である大魔法使いが得意とした神秘の御業。 ─── もっとも、ユリアには、そこまでの力はない。初代国王のように、聖なるものも魔なるものも従えることなどできない。ユリアに使えるのは、片手の指で足りる程度の魔法だ。分厚い古文書の中の数ページ、いくつかのささやかなものに過ぎない。
それでも“魔法”はユリアの身体を蝕んだ。
ユリアの身体が弱いのは、膨大な魔力に身体が耐えきれないからだ。
ヴィレール王国の一の魔術師と謳われた母と、王家の血縁である公爵家当主の父を持つユリアは、奇跡のような魔力を授かって生まれてきた。しかし、身体はそれに適応できなかった。まるで、何代にも及ぶ、魔力重視の婚姻の歪みを受けたかのように、“力だけ”が強い子供だった。
ユリアの両親は、娘を守るために、あらゆる手を尽くしてその膨大な魔力を封じた。
しかし、それが完璧でないことは、両親もユリア自身もわかっていた。氾濫する河の前に、土嚢を積もうと、いずれは決壊するだろう。長くは生きられない。
それでも、少しでも娘の寿命を延ばすために、両親はユリアに固く約束させた。
『決して力を使ってはいけないよ。お前がそれを望んでしまえば、封印はたちまち解けてしまう。言霊も契約もなくとも、世界はお前の望みに応えるだろう。だけど、ユリア。お前の身体は ─── 』
持たない。
わかっている。
(いいのです。この夜が明けたなら、そのときはすべてを天へお返ししましょう。けれど、今はまだ、そちらへ行くわけにはまいりません。カイル様をお助けするまでは、わたくしはどこへも行きません)
ここへ来るまでに、すでに“解呪”と“透過”、それに“飛翔”まで使った。魔法を使えば使うほど、魔力はあふれ出て荒れ狂う。身体はすでに限界を訴えていた。
死神が、すぐそばまで来て、大鎌を振り上げている気配がする。
それでもユリアは歯を食いしばり、前を見据えた。階段を一段一段、ゆっくりと登っていく。
(この時間なら、殿下の侍従たちも下がっている)
塔に人の気配はない。不吉なほどに。
(牢の扉は、わたくしの“解呪”で開く。枷も解けるはず……)
罪人となった者は、みな一様に、魔封じの枷をはめられる。魔術による脱走を防ぐためだ。
これは非常に特殊な魔術が込められた枷で、最高位の魔術師でも、術を解くことは難しい。
強力な魔術で壊すことはできるだろうが、その場合、枷をはめられた人間の身体も吹き飛ぶ。
牢の管理を担う、ごく一部の魔術師だけが、罪人に傷を与えずに枷を外すことができた。
しかし、ユリアが扱うのは“魔法”だ。
偉大な初代国王の足元にも及ばない魔法であっても、“魔術”を紐解くのは難しくない。
そして、魔封じの枷さえ外せれば、カイルは自力で逃げることができるだろう。
本来、彼は、玉座にふさわしい強い魔術師なのだ。抵抗せずに捕まったのは、無実を証明するためであり、そして、おそらくは……、ミカの裏切りに動揺しきっていたからだろう。
階段をのぼりながら、ユリアは不意に顔をしかめた。
何か、わからないけれど、嫌な匂いがする。
古い塔特有のかび臭さとはまた違う、今までに嗅いだことのない匂いだ。
吐き気がこみあがってくるのを、必死に抑える。
原因を探して、目を凝らしたとき、階段の先に、ようやく扉が見えた。
( ─── カイル様!)
初めて、足が軽くなった気がした。
駆けあがるというには、あまりにも足取りは遅かっただろう。それでも、胸を弾ませて階段を上がり切る。異臭はますます濃くなっていたけれど、もう、気にならなかった。
カイルに会える。ようやく、彼に会えるのだ。
たった五ヶ月程度だと、豪胆なカイルなら笑うかもしれない。
けれど、彼が投獄されてからの日々は、永遠にも感じられるほどに長かった。
牢の鍵は、自分が望むだけで解けていく。
分厚い扉を押し、中へ入り、そして ─── ただ、瞬いた。
自分が眼にしているものがなんなのか、理解できなかった。
部屋の中は、さらに牢があった。何十本もの細い鉄柱が、部屋を二つに区切るように並んでいた。そして、その奥に、カイルが……。
いや、ちがう。あれがカイルのはずがない。こんなことが、現実であるはずがない。
それでも、唇は、勝手に言葉を紡いだ。
「カイル、さま…………?」
部屋の隅にうずくまっていた影が、びくりと震える。
それから、爛々と燃え滾る瞳が、一つ、こちらを見た。
一つだ。
どうして、と、思ってから、答えを知る。
右眼は潰されていた。
右眼があったはずの場所に、生乾きの肉と、膿と混ざり合った血が滲んでいる。痩せこけた頬には濃いあざが浮かび、唇はいびつに腫れている。シャツはぼろきれのように汚れ、肋骨が浮き出ていた。身体中に火傷の跡があった。火を押し付けられたようなそれは、左足の先へ進むほどひどくなった。もはや歩くことはできないだろう。嫌な匂いがすると思った。なんの匂いかわからなかった。あれはきっと、ひとのからだの焼けるにおいだ。
ユリアは、はくはくと、唇を震わせる。
もはや悲鳴すら出なかった。
声なき叫びを上げたとき、影が、嗤った。
「……ユリアか」
ひどくしわがれた声だった。カイルのものだとは信じがたいほどに。
「ハッ……、ハハッ! ついにお前が来たか! お前も裏切ったか! これで全員だな、ハハハハハッ!! 全員寝返ったかッ! 笑えるぞッ! ハハハハハッ!!」
男が、狂ったように哄笑する。
そして、どろりと濁った瞳に、それでも凄まじい意志を宿して告げた。
「あの女に伝えろ。誰が来ようと無駄なことだ。お前であろうとな、ユリア! 俺は決して屈せぬ。ありもしない罪を認めることなどするものか! この身をどれほど痛めつけようとも、貴様の思い通りにはならぬと知るがいい……ッ!」
その声で、その言葉で、足が動いた。
最後の牢を開いて、カイルのもとへ駆け込む。
カイルは、怯んだ顔をした。ユリアが近づいてくると思わなかったのだろう。
カイルが、ランプの明かりを嫌がるように、身をよじる。今の自分の姿を、見られることを厭うように。
気づいていたけれど、それでも、カイルの傍に膝をつき、その手にそっと触れた。
火傷の跡に触れないように、奇妙な方向に曲がった指に触れないように、カイルに痛みを与えないように、そっと。
「遅くなって申し訳ございません、殿下」
触れた指先から、力を流し込む。
カイルにかけられたすべての封印を解き、すべての枷を外す。空気が揺れる。風が巻き起こる。今の自分には、言霊も契約も必要ない。こうしてカイルに触れることさえできれば、魔術などガラス細工よりも脆い。
カチャリと、どこか奥底で、何かが割れる音がした。
そしてすべての鎖を解き放ったとき、カイルは、呆然としていた。
信じられないというようにこちらを見つめる瞳に、精一杯微笑みかける。
「枷は解きました。カイル様、どうか、御身に治癒の魔術を。わたくしには、その力はないのです」
「…………ユリア」
「はい」
「……俺を助けるのか?」
「はい」
「なぜ?」
これほど哀しい問いかけがあるだろうか。
今では、ユリアにもわかっていた。
誰がカイルを陥れたのか。誰が裏で糸を引いているのか。
カイルは『あの女』と呼んだ。
第二王妃は、自分に、カイルは以前と変わらずに過ごしていると話した。
そう、以前と変わらずに、貴人として遇されているといったのだ!
自由はなくとも、侍従がつき、身の回りの世話はされていると。それを信じた。だから今日まで、この方法をためらってきた。逃がすことはできても、それしかできないのでは意味がないと思った。自分は本当に馬鹿だった。度し難く愚かだった。何も知らない、世間知らずな小娘だった。まんまと騙された。
カイルはこの五か月間、ずっと拷問を受けてきたのだろう。
それを、自分は、何も知らずに、第二王妃の言葉をうのみにして、のうのうと暮らしていたのだ。
燃えるような怒りが、胸を焼く。
それでも、懸命に、笑顔を作った。
怒りのためでも、嘆きのためでも、涙の一粒も零したくなかった。
これほど傷つけられたカイルの前で、どうして自分が泣くことなど許せるだろう。
「カイルさま」
一つ残った左眼に、微笑みかける。
「わたくしは、ずっと、カイルさまの傍におります。わたくしの身に何があろうとも、カイルさまの身に何があろうとも、それが変わることはございません。わたくしの魂はずっと傍におります」
「……ユリ……ア……?」
カイルが、怪訝そうに、こちらを見る。
それから、濁った瞳に、すうっと、一筋の理性の光が差し込んだ。
「おまえ……、お前、どうやってここへ来た……? その、力は……、まさか……ッ!?」
蒼色の瞳に、今までとは別種の恐怖が宿る。
ユリアは、それには答えずに、重ねて願った。
「カイル様、まずは治癒の魔術をお使いくださいませ」
カイルは、ぐっと押し黙ってから、苛立たしげに、早口でいくつもの詠唱を行う。
星屑のような光が牢獄に集い、踊り子のような風が闇を吹き払う。
精霊の加護がカイルの身体へ戻り、そして安らぎを静けさで満たしていく。
溜まっていた魔力のおかげでもあるのだろうけれど、カイルの治癒魔術は、さすがに強力だった。やせ細った身体こそもとには戻せないものの、右眼は修復され、身体中の皮膚が再生した。折れた骨も、元の形を取り戻す。
光がカイルの全身を包み込み、そして消え去った後には、傷一つ残っていなかった。
思わず、口から、深い安堵の息が出る。
カイルは、壊れ物に触れるように、おずおずとユリアを抱きしめていった。
「……お前は、“魔法”を使ったんだな」
「ええ」
「俺のために、命を捨てたのか」
カイルの声は、涙に濡れていた。
ユリアは、カイルの背中へ手を回して、微笑んだ。
「カイル様が生きていてくださることが、わたくしの幸せなのです。ほかにはなにも、いりません」
カイルに抱きかかえられて、塔を抜け出す。
もう立ち上がる力も残っていなかった。
足手まといになるだけだから、置いていってほしいと、何度も頼んだけれど、カイルは聞く耳を持たなかった。
人目を避けて、深い森の中を進む。
やがて、月影が薄くなり、空の色が移り変わっていく。
木々の隙間から、遠い空を見つめて、ただ祈った。
(どうか、カイル様が、幸せを取り戻せますように)
かすむ瞳で、カイルを見上げる。
美しく、愛おしかった。最後に見るものがカイルで幸せだと思った。
同時に、酷く悲しかった。今、この状況で、カイルを一人にしてしまうことがつらかった。傍にいたかった。
( ─── それでも、わたくしの魂だけは、永遠にお傍に……)
そう思ったのが、最後だった。
瞼が、力を失って、落ちた。
遠くで、カイルの声が聞こえた気がした。