失墜
カイルが反逆罪で捕らえられたと聞いたとき、ユリアは何かの間違いだと思った。
これがまだ、反乱軍の手に落ちたといわれたなら、受け止めることが苦しくとも、理解はしただろう。
けれど、反逆罪とは、あまりにもカイルから遠い言葉だ。
まるで聴き慣れない異国の言語でも耳にしたかのように、困惑顔で首を傾げるユリアに、侍女のシンシアは重ねていった。
「王都中がこの噂でもちきりなのです。誤報とは思えません。お嬢様、どうか気を確かにお持ちになってくださいまし。王太子殿下が捕らえられたとあれば、お嬢様にまで累が及ぶやもしれません」
長年の侍女が、青ざめた顔でそう告げる。
ユリアはぎこちない笑みを浮かべて、首を横に振った。
「何かの間違いよ。殿下が陛下を弑たてまつろうと企まれたなんて、誰が信じるというの。殿下を知る者なら誰もが、あり得ないというでしょう」
「……殿下は隣国に唆されたのだと、噂されております。隣国の力を借りて、弑逆を成功させるおつもりだったのだと。……殿下は、この国を売ろうとした、売国奴であると……」
ユリアは、笑い飛ばそうとした。
けれど、唇は震え、頬は引きつり、かすれた声しか出なかった。
隣国との間には、長年火種がくすぶっていた。
先王の代には領土をめぐってたびたび戦争も起きた。カイルの母が嫁いできたのは、和平を結ぶためだったが、それも彼女が亡くなったことでうやむやに終わった。
この国の民には、隣国への嫌悪と憎悪が深く根付いている。
そんな中で、ただでさえ隣国の血をひくカイルが、そのような噂を立てられたら、どうなることか。いくらカイルが優秀と評判高く、人気の高い王太子といえども、無事ではいられないだろう。
信頼は、築くには時間を要しても、失うのは一瞬だ。
失墜には一瞬で事足りるのだ。
ユリアは悟っていた。
シンシアの話が本当だというのなら ─── 、カイルは、誰かに陥れられたのだ。
心が悲鳴を上げたが、ユリアは歯を食いしばった。
誰が裏で糸を引いているのかはわからないが、今のカイルは敵の手に落ちたも同然の身だ。
カイルを助け出すためには、泣き伏せている時間すら惜しかった。
自分が無力な小娘であることは百も承知のうえで、それでもじっと待っていることはできないと思った。叶うものなら、今すぐ屋敷を飛び出して、カイルのもとへ向かいたい。この病がちな身体で、そんな真似をしても、誰にとっても迷惑にしかならないとわかっているけれども。
ユリアは震える息を吐き出して、長年の侍女に尋ねた。
「殿下が陥れられたのなら、ミカも共に捕らえられたの? 殿下の側近の方で、どなたか連絡の取れる方はいらっしゃるかしら」
「それが……」
シンシアは、ひどく言いにくそうに、言葉を濁した。
自分の頬から血の気が引くのがわかる。最悪の想像が浮かんだ。
「まさか……、ミカは、もう、命を……?」
「いいえ! ミカ様はご無事です。ご無事ですが……」
しばらく言いよどんだ末に、シンシアは、隠しきれないと思ったのだろう。
酷く痛ましいものを見る眼をして、諦めたように告げた。
「ミカ様が、殿下の罪を、告発されたそうです。ほかでもない、殿下の腹心であるミカ様が、おっしゃられるからには、真実であろうと……、みなそういっております」
嘘よと呟いた声は、信じられないほど遠かった。
証拠もすべてそろっているそうです、と話すシンシアの声が、ユリアの部屋に、空虚に響き渡った。
※
カイルは大罪人として、厳重に警備された馬車で王都へと連行された。
王太子の身である。本来ならば、自室に軟禁され、裁判を待つものだ。
しかし王は、目をかけていた王子の大逆に激怒し、罪人の塔への投獄を命じた。
罪人の塔とは、王家の血に連なる人間が、よほどの罪を犯し投獄されるときにのみ、使われる牢獄だ。今は、カイル以外の囚人はいない。
ユリアは何度も面会を懇願したが、許可は下りなかった。
王の怒りを買ったカイルに会えるのは、今や、王の寵愛を受ける第二王妃だけだった。
第二王妃だけは、カイルの無実を信じてくれた。王太子が弑逆を企むはずがないと、王へ伝えてもくれたそうだ。しかし王の怒りは深く、第二王妃の言葉に耳を貸すどころか、なぜカイルへ肩入れするのかと、あらぬ疑いをかけられそうになったらしい。
「これ以上は陛下を説得できないわ」と憂い顔でいわれて、ユリアは黙って頭を下げた。
本当は、殿下を助けてくださいといいたい。
けれど、そのために第二王妃にその身を危うくしてほしいとは、とてもいえない。
それに、第二王妃まで王の怒りを買えば、カイルに会える者が誰もいなくなってしまう。
今となっては、第二王妃だけが、カイルの現状について教えてくれる存在だった。
カイルは、罪人の塔へ投獄されはしたが、以前と変わりなく過ごしているという。身の回りの世話をする侍従が数人付き、可能な限り不自由ない暮らしができるよう取り計らわれているそうだ。
面会のたびに、腹立たしげに無実を訴える一方で、ユリアの身をひどく案じていると、そう第二王妃から伝えられるたびに、ユリアは涙を懸命に耐えた。
※
ミカに会うこともできなかった。
何度もミカの家に使いを出し、手紙も書いたが、慇懃に断られ、やがて代筆の返事すらなくなった。
たまりかねて、渋るシンシアを説得し、馬車でミカを待ち伏せしたこともあったが、それも失敗に終わった。
ミカがなぜ、主君であり親友でもあるカイルに濡れ衣を着せたのかはわからない。
どれほど考えも、ユリアに答えは見つからなかった。
ミカがカイルを告発しただなんて、今でさえ悪い夢だとしか思えない。ミカは常にカイルを支えてきた。腹心として、友として、カイルの背を守ってきたのだ。
(……ミカが望んで殿下を裏切るはずがないわ)
もしかしたら、誰か……この一件の黒幕に、脅されているのかもしれない。誰かが、ミカの家族や、大切な人を人質に取っているのかもしれない。
(……だとしても、ミカなら真っ先に殿下に相談しそうなものだけど……)
でも、ほかに理由は浮かばない。
けれど、もしそうなのだとしたら、自分にミカを説得することは難しいだろう。
それはユリアにもよくわかっていた。
未だに黒幕の姿は見えないが、ミカが屈するほどの力を持つ相手であることは間違いない。
カイルに濡れ衣を着せて投獄させた手口といい、恐ろしく用意周到で狡猾な人物だろう。
……カイルを裏切ることは、ミカにとって苦悩の末の決断だったはずだ。
それを、公爵家令嬢とは名ばかりのユリアが、助けになるといったところで、ミカが心を変えるはずがない。ユリアが役に立たないことは、ミカもユリア自身も、よく知っているのだ。
※
ユリアは無力だった。
己の無力さを、これほど悔やんだことはなかった。
両親を失ってから、ひっそりと生きてきた。
社交の場に出ることもなく、人脈作りに励むこともなかった。学園には通っていたが、体調を崩して休みがちな自分には、友人と呼べる存在はいなかった。
それで構わないと思っていた。どうせ長くは生きられないのだからという諦めが、常に心の隅にあった。
カイルがいてくれたなら、それだけでよかった。
カイルとの愛だけが、この心の灯りだった。
─── けれど、今やそれらがすべて、裏目に出ていた。
無力な婚約者は、窮地の王子に対して何の助けにもならない。
従姉妹に婚約者を代わっておくべきだったのだ。ユリアは何度も何度も悔やんだ。
愛し合っていることなど、この状況において、何の役に立つだろう。サルヴァ公爵家が真実後ろ盾としてあったならば、カイルを牢から出すこともできたかもしれないのに。
悔やみながらも、じっとしていることはできず、せめてとの思いで手紙を書いた。
カイルが親しくしていた将軍や、カイルを支持していたはずの有力な貴族たち。
カイルの教師だった著名な魔術師や、カイルと交友のあった国境沿いの領主たち。
ユリア自身はほとんど面識がなく、カイルから話を聞いていただけの人々だ。
この状況で、突然手紙を出す非礼さを承知していたが、それでもカイルの助けになってほしいと、懇願せずにはいられなかった。
返事はほとんど来なかった。
来たとしても、遠回しな拒絶を突きつけられるだけだった。
手紙を出した相手の中には、かつてカイルに命を助けられた者たちもいた。
カイルを素晴らしい王太子だと慕っていた者たちもいた。
しかし、今となっては、大罪人となった王子に関わりたくないと思っているのは、火を見るよりも明らかだった。
ユリアは激しい憤りを覚えたが、その一方で、彼らが保身に走る理由がわからないとも、いえなかった。
王太子のカイルですら、一瞬でその地位を奪われたのだ。
下手な真似をして、王の眼に止まれば、自分や家族がどんな目に合わされるかわからない。
彼らのその恐怖を、ユリアは理解せざるを得なかった。
一度は殿下に助けてもらっておきながら、見捨てるのですか! と、そう叫びたくなるのを、懸命に喉の奥へと押し込めながらも。
……そして、誰かが公爵に忠告したのだろう。
ユリアの礼を失した振る舞い ─── 何よりも、公爵家が大罪人に肩入れしていると取られかねない真似に、叔父の公爵は、恥をかかされたと怒り狂った。
ユリアは手酷く打ち据えられ、そのまま意識を失った。
目を覚ましたときには、自分自身が、囚人に等しい扱いとなっていた。
手紙はもとより、部屋から出ることも許されず、唯一の味方だったシンシアは解雇された。
新しくつけられた侍女たちは、ユリアを厄介な荷物だと考えていた。早く死んでくれたらいいのにと、これ見よがしにいわれることもあった。
ユリアは、自室に一人座り、じっと考えた。
( ─── それでも、わたくしの切り札は、まだ残っているわ)
ユリアのたった一つの切り札。
このことについて知っているのは、両親とカイルだけだ。
両親を亡くした今では、カイルしか知らない秘密だ。