まだ太陽が輝いていたころ
サルヴァ公爵家の庭に、明るい声が響き渡る。
初夏の爽やかな日差しの下で、真白いテーブルを囲むのは、三人の少年少女だ。
王太子カイルと、その側近であり右腕といえるミカ、それにカイルの婚約者であるユリアである。
三人とも幼い頃から親交があり、気心の知れた仲だ。
今も、ミカが、優しげな面立ちに、からかいをたっぷりと浮かべていう。
「それでね、ようやく王都に戻れるとなったときですよ。胸をなでおろしている僕に対して、殿下ときたら、しかめっ面で、なんておっしゃったと思います?」
「おい、いい加減黙れ、ミカ」
「いいじゃありませんか、殿下。麗しの婚約者殿も、続きを聞きたいとお望みですよ?」
じろり、と、少しばかりふてくされた顔の殿下に見つめられて、ユリアは小さく笑いをこぼした。
前サルヴァ公爵の一人娘であるユリアが、王太子カイルと婚約したのは、まだお互いが赤ん坊のころだった。
早すぎる婚約には、いくつかの理由があった。
カイルの母である正妃が、出産の際に亡くなってしまったこと。正妃とユリアの母が親しかったこと。隣国から嫁いできた身で、国内に有力な権力基盤を持たない正妃が、ユリアの母を何かと頼りにし、これから生まれてくる子供の助けになってほしいと折につけ伝えていたこと。
そして、ユリアの母が、ヴィレール王国一と謳われる魔術師だったことだ。
ヴィレール王国では、魔力の強さはことのほか重要視される。
建国の父と称えられる人物が、神に愛された大魔法使いであったという言い伝えによるものだ。彼は聖なるものも魔なるものも従え、紡ぐ言霊も必要とせずに“魔法”を用いたといわれている。
しかし今では“魔法”は失われて久しく、言霊と契約を必要とする魔術が人々の暮らしを支えている。
魔力の強さは、ごく少数の例外を除いて、血によって受け継がれるため、貴族階級の中では、より魔力の強い者を結婚相手に求める傾向が強い。
正妃が、ユリアの母に助力を求めたのも、ヴィレール王国のそういった気風があってのことだった。
……けれど、誰にとっても不運なことに、ユリアは身体が弱かった。
幼い頃から病がちだった。何かあるとすぐに熱を出した。
両親は一人娘を助けるために手を尽くしたが、ついには七歳のとき、医者に、二十歳までは生きられないだろうと宣告された。
ユリアの両親である公爵夫妻は、そこで一度、婚約の解消を申し出た。娘が世継ぎを産めないだろうことは、明らかだったからだ。
だが、ほかでもないカイル本人が、それに猛反発した。
彼は、幼い頃から親交があり、幼馴染といってもいい存在であるユリアを、とても大切にしていた。病弱なユリアをいつも気遣い、熱を出して寝込めば必ず見舞いに来た。
それは、恋というよりは、家族へ向ける感情に近かったのかもしれない。身体の弱い妹を守ろうとする、兄のような心境だったのかもしれない。
ユリアはそれでもかまわなかった。カイルといられるのなら、それだけで幸せだった。
結局、婚約解消の話は立ち消えになった。
王太子の意志を尊重したというよりは、どのみちユリアは長くは生きないと、大人たちの誰もが考えたからだろう。
王太子もまだ子供だ。急がなくとも、いつかは自然と婚約は終わるのだ。ユリアの死によって。
そう思われていることは、子供のユリアにもわかっていた。実をいえば、誰よりもそう考えているのは、ユリア自身だったからだ。
( ─── いまだけ、ですから。いつかは必ず、カイルさまを自由にしますから。……おねがいです。もう少しだけ、そばにいさせてください……)
わがままだとわかっていたけれど、失いたくなかった。
ユリアにとって、カイルはまぶしく輝く太陽だった。
……それは、ユリアの両親が立て続けに亡くなった後も、変わることはなかった。
ユリアが12歳のときだった。
病で母が亡くなり、まるで後を追うかのように、その二か月後に父が事故で亡くなった。
ユリアが熱を出して寝込んでいる間に、葬儀や諸般の手続きは、すべて叔父が取り仕切ってくれた。
そして、気づいたときには、叔父がサルヴァ公爵となっていた。
名目上は、ユリアが成人するまでの後見人という立場だったが、それが建前でしかないことは、誰の目にも明らかだったろう。
叔父一家は屋敷に移り住み、使用人の顔ぶれも一新された。ユリアの両親の代から仕えていた者たちは、ほぼいなくなっていた。ユリアの侍女のシンシアだけは、ユリアの面倒を見るために残されていた。それはユリアにとって、十分に幸運なことだったといえる。
ユリアの部屋は、屋敷から、屋敷の近くに建つ離れへと引っ越すことになった。ユリアの安静のためという名目だったが、実質的には追い出されたのだとわかっていた。
カイルは激怒し、叔父と直接話すといってくれたが、ほかでもないユリア自身がそれを止めた。
誰かが公爵家を継がなくてはならないのだし、ユリアの身体では不可能だ。
それに、サルヴァ公爵家はカイルの大きな後ろ盾だ。自分のことなどで揉めてほしくなかった。
叔父にも娘がいる。ユリアにとっては従姉妹だ。数回会ったことしかないが、ユリアとは違い、健康で、溌溂とした少女だという。
ユリアは、不吉なほどに静かな離れの中で、寝台から、上半身だけを起こして、カイルに告げた。
「どうか、わたくしとの婚約は、なかったことにしてくださいませ」
両親が亡くなってしまった今、ユリアに王太子が婚約する価値はなかった。
サルヴァ公爵家の支持を得るためならば、従姉妹と婚約すべきだ。
おそらく、叔父もそれを待ち望んでいるだろう。あえていい出さないのは、外聞が悪いからだ。立て続けに両親を亡くした少女から、婚約者まで取り上げたと非難されることを避けたいのだろう。
まだ子供のユリアにも、それはわかっていた。
カイルにも当然わかっていただろう。
けれど、カイルは、あっさりといった。
「俺はおまえがいい」
「……わたくしは、もう、殿下のお力にはなれません」
「かまわないさ。妻の家の力がなければ、玉座につけないのであれば、俺もそこまでの人間だろう」
「殿下……。わたくしは、これ以上、殿下の足をひっぱるものにはなりたくないのです」
「なら、長生きしろ」
カイルは、じっとユリアを見つめ、ユリアの手を握りしめて告げた。
「俺はおまえまで失いたくない。……そばにいてくれ、ユリア」
生まれたときに母を亡くし、慕っていた公爵夫妻も亡くした王子の、それは心からの言葉だった。
ユリアは泣いた。声を上げて、身も世もなく泣いた。
泣き崩れるユリアを、カイルはずっと抱きしめていてくれた。
愛する両親を失い、生まれ育った屋敷にも戻れない。
それでも、カイルだけは、傍にいてくれる。自分を必要だといってくれる。温かい身体で、抱きしめてくれる。生きていてくれる。
このときのユリアを生に繋ぎとめたのは、カイルの存在ただ一つだった。
─── けれど、あとにして思う。
何度も何度も、繰り返し繰り返し考える。
あのとき、カイルの優しさに甘えなければ。
カイルの言葉を受け入れず、頑として突っぱねて、婚約を解消していたら。
そして、従姉妹がカイルの婚約者になっていたならば。
その後の惨劇は、防げたのではないかと、何度も、何度も、ユリアは考えてしまう。
……もはやすべてが、手遅れだと知っていても。