魔王の唯一
むせ返るような血の匂いだった。
ユリアは吐き気をこらえて進んだ。
王を諫めなくてはならなかった。
それができるのはユリアだけだった。ほかの者が諫言すれば、文字通り首が飛ぶ。王に逆らって命があるのは、王妃であるユリアただ一人だ。それは、王宮内ではすでに知られた事実だった。
( ─── そんなものが、ほしかったわけではないのに)
磨き抜かれた床の上に、おびただしい量の真紅が広がっている。悲鳴と、恐怖と、泣き叫ぶ声も。許しを請う叫びに、王の笑い声が重なる。
その場に居合わせた臣下たちは、誰も口を開かない。眼をそむけている宰相も、無表情の将軍も、真っ青な顔をしている衛兵も。誰もが沈黙して、ただこの惨劇が終わるのを待っている。
ユリアは、それらを無視して口を開いた。
「陛下、その者たちには、もはや陛下を害することはできません」
王は、そこで初めて、ユリアの存在に気づいて顔をしかめた。
「……誰がお前を呼んだ?」
「誰にも呼ばれておりません。わたくしはただ、騒ぎを耳にして参りました。それゆえ、何があったかは存じませんが、その者たちにこれ以上抵抗の意志がないことは、無知なわたくしの目にも明らかです」
抵抗どころか、もはや動くこともできないだろう。血の中に浮かぶいくつもの肉片に、ユリアは胃液が込み上げてくるのを、懸命に喉の奥に押し留めた。
王は、ふんと鼻を鳴らしていった。
「これは暗殺者だ。俺の命を狙った。だからもてなしてやったのさ」
「……そうでしたか。陛下がご無事でよかった……」
本心からそういってしまう自分は、誰よりも罪深いのだろう。
王の眼差しが、かすかに緩む。王もまた、ユリアの言葉が心からのものであることを知っている。
ユリアは、奥歯を噛みしめて告げた。
「陛下、どうか、ご慈悲を。陛下を狙った大罪人であっても、これ以上、むやみに苦しみを与えることに、意味があるとは思えません」
救えるとは思っていない。暗殺者を救いたいわけでもない。しかし、手をもぎ足をもいでいく殺戮劇を、これ以上、王に続けさせるわけにはいかなかった。
すでに王が、魔王と呼ばれ、恐れられていることを知っていても。
王は忌々しそうな顔をしたが、軽く手を払った次の瞬間には、すべてが灰に変わっていた。
血も肉も、一かけらも残っていない。何もかもを焼き尽くした後のような、白みがかった灰が、床の上にうっすらと積もっている。
王はその灰を踏み潰してユリアの傍まで来ると、低い声でいった。
「顔色が悪い。部屋に戻って休んでいろ」
それはユリアを厭って遠ざける響きでなく、真摯に体調を案じる声だった。
だからユリアはただ、黙ってうなずいた。
どうしてこうなってしまったのだろうと、何度も何度も考える。
王がまだ王太子であった頃、彼はユリアの世界を照らす太陽だった。
明るく、寛大で、聡明で、彼が笑えば、それだけで世界が輝くような存在だった。