上
天の邪鬼、という言葉がある。
人に反抗した行動をする、ひねくれ者を表す言葉だ。
天の邪鬼。これは彼の悪態を的確に突いている。
常に人を嫌い、輪の中に入れない。
今だってそうである。
一緒に食べよう、連絡先を交換しよう。
そんな言葉、何度かけられたことか。
だが、彼はそのことごとくを断ってきた。
なぜか、それは、彼と周りの人間の世界が異なるからである。
先に、天の邪鬼は彼の悪態を的確に突いている、と書いた。
だが、彼は自分から天の邪鬼になったわけではない。
彼はあくまで本心から人に逆らっているのだ。それ故、彼を理解するものなどいない。
「…つまらんな」
彼は教室にできた三つほどの集まりを見渡して、そう呟いた。
今日も一人飯である。
裏門の階段に付けられた古びたベンチに座り、妹特製の弁当を平らげる。
その後、若草の香りを乗せて吹く風を楽しみながら、一人空を見上げる。
彼はこの時間が好きだ。
ただ一人、大きな空と一対一。
この時間だけは、狭っ苦しい人の理から解放される気がする。
彼はその後も静かに授業を受け、また一人で静かに帰る。
青い屋根の家が彼の家だ。
古びた玄関の扉を開けば、その音に妹の奈緒が反応する。
「あ、ゆーにぃおかえりー」
ゆーにぃというのは、彼…三島 優のゆうをとって付けられたあだ名だ。
昔からこの名で呼ばれている。今更違和感なんてないが、高校生にもなると少し恥ずかしかったりする。
我が家でも基本的に僕は言葉を発さない。
ただ、妹の話に相槌を打つだけだ。
隣の家に女の子が越してきただの、特になんの面白みもない話だが、暇つぶしにはなる。
その日も何事もなく、ただ波のない時間が流れるだけだった。
その日の深夜。
彼は夢を見た。
腕の中で少女の顔。
滲む視界。
その世界の全てを怨んでしまいそうな憎悪。
音は…ない。
やがてかすかに動いた唇は、なにかを伝えようとしていたが、彼には分からなかった。
翌日、いつもあるはずの妹の正拳がなく、寝坊した優は、バナナを片手に家を出た。
間に合いそうもない、と考えた彼は、乗ったことのない一つ遅れた電車に乗ることにした。
この電車は初めてだな…。
千葉行き、7時20分発の電車。
満員で、おしくらまんじゅうなんて比ではない。
その中で、彼は昨日の夢のことを考えていた。
あれはなんだったんだろうか。
あの少女は着物を着ていた。昔見た時代劇の夢だろうか?
外傷はなかったし、病気で命を落としたのだろうか?
寝坊した自分を恨みながらも、なんとか千葉駅まで持ちこたえた。
「いや、ぜんぜん辛くなかったな…」
一人着崩れた制服を直しながら、僕は階段を降りていった。
いつもの変わらない世界。モノクロで、白と黒しか見えない。
ただ、今日のその一点だけを除けば。
それは、絶対的美だった。
長く伸びた銀髪をツーサイドアップにまとめ、顔立ち、鼻筋など、ありとあらゆる地点において完璧な美少女だった。
この時間に駅から出てくるのは、先ほどの電車に乗っていた人だけだ。
あんな満員電車から出てきて、なぜあんなに余裕なんだろう、と彼は思った。
「ま、関係ないか…」
彼は、もう関わることのないであろう美少女を横目に、またもや変わらぬ日常へ戻っていった。
彼女の制服が、彼の高校と同じものだということに気付かずに…。
その日の昼休み。
いつもの彼ならば、妹が作ってくれた弁当を持って、ベストプレイスに行くはずなのだが。
「クソ、買うしかねえか」
生憎、奈緒は寝坊していた。
彼が朝起きた時には、未だ奈緒は布団の中。
弁当はもちろん用意されておらず、今日は買ってくれ、と頼まれたのであった。
購買まで行ってパンとコーヒー牛乳を買った彼は、足早にいつもの古びたベンチへ向かう。
ただ、そのベンチはいつものベンチではなかった。
青錆が付き、ペンキが剥げた鉄臭いベンチに佇むのは、見覚えのある銀髪の少女。
しばらく呆気にとられていると、向こうから話しかけてきた。
「あ、ごめんなさい。貴方の場所だった?」
あぁ、そうだ早くどけ、と彼は思ったが、彼女の容姿に少し躊躇い、こう言った。
「別に。僕の場所ってわけでもない」
「あらそう?じゃ、一緒に座る?」
別の場所に行ってやるという彼なりの言い方だったというのに、帰ってきた言葉は予想外のものだった。
「ふむ、悪くない提案だ」
そう言ってベンチに座った時、彼は自分の行動に違和感を感じた。
…誘いに乗った…!?
この僕が?奈緒以外の誘いにか!?
おかしい、おかしいぞ…。
「ねぇ、なにぶつぶつ言ってんの?」
隣に座る少女の声で、彼は正気を戻した。
まぁ、ただ機嫌がいいとか、この場所を意地でも取られたくないとかそんなとこだろう。
そう結論づけると、彼は黙ってパンを取り出した。
二人は、黙って咀嚼した。
彼は、夢のことを思い出す。
やっぱり、似てる…よな。
気付かれないよう、横目に少女を見ていると、やがて彼女と目が合った。
「ねぇ」
「ん?」
たが、呼びかけの本意は伝えられず、ただ彼女は彼を見つめる。
「え、なに?」
「…ふふ、なんでもないわ」
クスッと笑うと、彼女はそのまま元の姿勢に戻る。
なんだったんだ、と彼は少し機嫌が悪くなった。
それに対し、彼女は機嫌が良さそうだ。
弁当に敷き詰められた芋煮を頬張っている。
今時芋煮…?趣味が古いな。
そう感じた時、彼の胸にチクっと何かが刺さった。
ギュルギュル、と脳の音がする。
見たことのない景色。
古い家と、ボロボロな茶碗。
「…!」
偏頭痛のような刺激に、少し頭を抑える。
隣に座る彼女が不思議そうに見つめてくる。
夢に似ているな、と彼は思った。
ま、小さい頃見た映画とかだな。
どうせロクな記憶じゃない。彼は、いつもと同じ若草の匂いに揺られながら、デザートに買った芋餅を頬張った。
その日の放課後。
帰ろうとしていた彼の所に、とある女子生徒がやってきた。
「三島君、呼んでるよ?」
「…あぁ」
いつも通り無愛想に返すと、彼は声をかけてくれた生徒の指す方向を見る。
そこにいたのは、昼の銀髪。
「何」
「いや、一緒に帰ろっかなーって」
「なんで」
「別に、少し話したいなって」
断る理由もないし、今日くらいはいいだろう、と彼は考え、来いよ、と呟いて廊下を歩き始めた。
帰る、というのは、彼の中では家への直行だった。
だが、彼が今いるのは家とは反対の方向。
町周辺で一番大きいデパードだ。
さっきから服やらなんやらを永遠と見続けている。
「なぁ、そろそろ帰っていいか?」
「えー、なんでよー」
「僕だって疲れてるんだ、銀髪の予定に付き合うほど仲も良くないだろ」
「………」
銀髪が黙る。
しまった、言い過ぎたか、と彼が思った瞬間。
「ま、今回はそうだよね…」
「今回…?」
今回とはなんのことだろうか、不明な発言をした彼女は、やがて声色を変えてこう言った。
「それと、私銀髪じゃなくて、海山 桜ね。覚えといて」
「ん、おう?」
彼…表記は優としよう。優は、桜の突然の自己紹介に少し驚く。
「時間も少ないし、とりあえずもう一個くらいお店行こっかっ!」
「えぇ…」
奈緒以外に振り回されるのは、あまり好きじゃないな、と優は思った。
やがてゲームセンターの前を通った瞬間、桜の足はピタッと止まった。
視線の先にあったのは、赤い腕輪。
「記憶の腕輪…?」
胡散臭い張り紙と、二本セットの赤い腕輪の箱。
桜は、それを一心に見つめていた。
『忘れ物をしなくなる、大事なことは来世まで覚えていられる魔法の腕輪っ!』
そう書かれていた。
「いや、あんなの絶対…」
優は、そう言いかけて気付いた。
桜の顔が暗いことに。
少し俯いて、なにも話さない。
優には何がどうしたのか全く分からなかったが、溜息をして腕輪のUFOキャッチャーに100円を入れた。
「三島君…?」
「……」
優は、慣れた手つきでキャッチャーを操作し、落とした腕輪を桜に渡してやった。
「ほれ、欲しかったんだろ」
「………っ!!」
桜は、その腕輪の箱を力一杯抱きしめて、やがて黙り込んでしまった。
すると、突然顔を上げ、桜は僅かな涙をためてこう言った。
「大事に…大事にする…!」
「………おう」
素直な彼女の反応に、優は少し照れた。
女子のように顎まで伸びた髪で、顔を隠す。
やがて興奮が収まったのか、桜はにこやかに言った。
「帰ろっか」
不思議と、優は「やっと帰れる」とは思わなかった。
寧ろ、もう少しだけこのままでもいいとさえ…。
帰りの電車では、まるで奈緒のような中身のない話で花を咲かせた。
桜と優は家が近いらしく、優の家の近くまでやってきたところで、優が言った。
「じゃ、僕この家だから」
「えっ」
すると、桜は少し驚いた声を出した。
「わたし、この家の隣。昨日越してきたの」
なんと、昨日奈緒が話していたお隣の女の子とは、桜のことだったのだ。
引っ越してきた、といえどきっとほんの少しの距離なんだろう。
高校では転校生なんて話はなかった。
きっと、学区内での引っ越しなのだろう、と優は考えた。
「ま、おやすみ」
「うん、おやすみ」
すっかり暮れた日を背に、二人は互いに十メートルも離れない家の玄関に入っていった。
それから一週間。
二人は共に過ごす時間が多くなっていた。
登校、昼食、下校共に同じ場所。当然といえば当然だった。
優と桜が出会って丁度一週間と一日。
優は、担任から少し声を掛けられた。
「三島、少しいいか?」
「あぁ、はい」
「お前、海山と仲良いのか…?」
良いはずないだろ、と優は少し答えたくなる。まったく、悪態というのはどこでも付いてしまうものなのだ。
だが、隠す理由も反抗する理由も、ましてや反抗する意思もない。
優は、素直に答えた。
「まぁ、悪くはないかと」
「そうか、よかった…」
担任の加持は、安堵した表情で溜息をついた。
「いや、あいつ不登校気味でさ。赤い腕輪つけるようになってから、急に学校にもきてくれるようになっててさ」
聞いてねぇ、と優は思った。
基本、優に他人の事など関係ないのだ。
自分に声を掛けた者が友達が欲しいだけの人間だろうと、たった一人友達が欲しくて勇気を出した人間だろうと、優は同じように扱う。
「そしたら、海山とお前が仲がいいなんて話を聞くもんだから、少しお礼を言いたくてな」
「別に、家が隣なだけですよ。お礼を言われるようなことなんて」
「それでも、教師としては嬉しいもんなんだよ…悪かったな、戻っていいぞ」
「はぁ、わかりました」
授業中、優は桜と担任について考えていた。
あの教師はなぜ担任していない桜を気にかけるのだろう、と。
あの二人、そう、桜と加持を男女として考えると、優の胸にはむず痒いなにかが走る。
簡単に言うと、イライラする。
そしてほんの少し、微々たる思いだが、早く昼休みが来ないかと思う。
脳裏に海山の顔が浮かぶと、胸がドクンと高鳴りをあげる。
そうか、と優は自分に起きた事を理解した。
そして、確認するように、小さな声で呟いた。
「不整脈か…」