あまねあまねくあまざらし
僕は相合傘が憎い。
話が通じない人とか、公衆の面前でギャハハと品のない笑い声を上げる女子とか、固定観念で凝り固まった大人も憎いが、相合傘のことはそれ以上に憎く思っているかもしれない。
相合傘の何が憎いかって?
そんな指摘をする人はきっと、普段から相合傘と密接な距離感を持つ羨ましい…… もとい、愚かな色ぼけアンポンタンだろう。
そんな人たちに僕の考えを分かってもらえるなんて思ってもいないが、一応説明しよう。
傘__そのものに関しての説明はもはや不要だろう。
雨が降る日に、戦に臨む武士が刀を構えるがごとく手に持ち、ワンタッチのトリガー(と呼ぶかは不明だが)を押す。開いた傘を頭上に携え『雨に濡れない、良かったね!』と笑顔になれる代物である。僕も雨に濡れなければ、笑顔により吊り上がった口角が顔面を引き裂いてしまうレベルで笑顔になれる。 ……ごめん、それはちょっと盛った。
とまあ、傘そのものに関して言えばみんなが知る通り役に立つ物であるし、嫌いになることはまずない。
なるはずがない。
だから問題なのは__別部分。
手に持つタイプの一般的な傘をイメージしてほしい。傘を傘として機能させる『柄』の部分は一本だけである。同様に、餅つきに用いる杵の『柄』も一本である。
なぜ一本なのか?
それはあくまで、『個人で』使用する物であるからだ。
持つ所が一つなら、使う人も一人。
先ほどの杵の例で言えば、重いという理由で、二人で持つ場合もあるだろう。子供が持っている場合、大人が支えた方が劇的に事故のリスクは減る。
しかし、傘はどうだろう?
傘をさした時に「うわ、この傘重いなあ。誰かに持ってもらわなければ、傘を傘として使用することが出来ないよ」と思うことはまずないはずだ。
『傘という商品をあえて重くすることで、筋肉をモリモリ鍛えようぜ!』というコンセプトのもと開発された傘であれば話は違ってくるかもしれないが、筋肉を鍛えたいのならなおさら一人でその傘を持つべきだし、さらに言えばジムに行けばいいし、もっと言えば自宅で腕立て伏せをしていた方がお財布にも優しい。エコで健康、万々歳だ。
……話が少し逸れたけど、まあ。
僕が言いたいことは、要約するとこんな感じ。
身勝手な青春の演出として!
傘を使用するのは!
お控えください!
僕の心の中の同志たち(要するに妄想上のたくさんの僕)が「ウオオ」と歓声を上げる錯覚を覚え、弁舌をふるう側の僕の口調はさらに熱を帯びた。「使用方法に書いてあっただろうか?いいや、書いてないはずだ」と、身振り手振りを駆使して、さらに主張を続けるはずだ。
『この傘という商品は、恋仲・またはそれ未満の関係であるお二人で使用していただくことで、あなたの人生に花を添えます。ぜひ、気になるあの子と素敵な青春をエンジョイしちゃってください!』と、若干馴れ馴れしい口調で注意書きを記されてはいないはずだ。
傘は一人用。それは覆らぬ事実だ。
……ただ惜しくらむは、相合傘は別に犯罪行為ではない。
用途にない使い道をしたところで、糾弾出来る類いの行為ではない。
仮に相合傘と言う行為が犯罪であれば、僕みたいに気が弱い人間でも匿名でおまわりさんに通報して、牢屋にぶち込むことも可能であろう。
「あの人たち、あそこで青春エンジョイしちゃってますよ」
「なにい、それは大事件だ!」
そうなること間違いなし。寂しい僕の心を癒す慰謝料をふんだくってやるところだ。
だが残念なことに__それが犯罪ではないというのは周知の事実である。
犯罪ではない以上、僕のように気が弱い奴が「もしもし、そこの御仁?目に毒なので相合傘をやめていただけませんか」とは言えない。言ってしまえば、変な奴に絡まれたと通報されて僕が牢屋にぶち込まれてしまうだろう。
いくら相合傘が不愉快とは言え、それはごめんだ。僕が支払う慰謝料がリア充の交際費になるなどあってはならない。
だがしかし、だがしかしだ。
相合傘を憎むこの気持ちを丸め込み、抑え込むことも、僕の精神衛生上良くない。我慢の気持ちに蝕まれてしまえば、僕という存在がどんどん衰弱してしまう。
相合傘で己の青春をより瑞々しい青色に染め上げる人たちに一石を投じつつ、それが非難されないやり方__どうしたものかと考えているうちに、僕は一つの答えを得た。
それこそが、今の僕の姿だ。
「……完璧だな」
僕は右利きだ。
ズバ抜けた才能を持ち、理知的で天才的な者が多いと言われるあの右利きだ。
そんな右利きの僕は、普段傘を右手に持つ。
今だって変わらない。
だが今日、僕の装備は一味違う。
なんと、右手だけではなく__左手にも傘を持っているのだ!
右に出る者がいない才覚を持ち、利発的で圧倒的な者が多いとされる左利きでないにも関わらず。今日の僕は両手に傘を持つ。
二刀流。
これをどうするか?
もちろん__傘の使い方は、一つだ!
僕が左右の傘のストッパーとなるボタンを外すと、細く収納された傘が弛緩し、円錐のような形になる。
僕は今いる昇降口から、雨足の強い空の下に飛び出し、二つの傘を頭上に携えた。そして左右両方の傘の手元にあるトリガー部分(そう呼んでしまおう。かっこいいし)を同時に押した。
「これが僕の、真の姿__」
二つの傘が僕の頭上に開く。満開になったそれを掲げ、黒い雲が埋め尽くされた空を仰いだ。二つともビニール傘だから空の色がよく見える。同時に雷鳴が轟いた。それはまるで、僕の素晴らしい発想力を祝福してくれているかのようだった。
「……」
しかしそれで__どうということはなかった。
空を仰いだ僕の顔を、滝のような雨が洗顔する。左右の傘の間から割り込んできたものだ。その勢いはまさに、自己中なおばさんが降りる人にお構いなしで電車に乗り込もうとするかのようだった。
考えてみれば当然のことだ。
先ほども述べた通り傘は一人用なのだから、相合傘はもちろん、一人で二つの傘を持つことも用途外なのである。むしろ傘としては、二人で一つを持つ相合傘より、今の僕のように一人で二つを使っていることの方が贅沢かもしれなかった。
「……なんだろうな、この気持ちは」
分かっていた、分かっていたとも。
この方法が画期的ではないことなんて。
分かっていたからこそ、他の生徒が下校するまで待ってから実行したのだ。おかげで下校時間ギリギリだ。
関係ないけど、さっき出た『青春』というワードをふと思い出した。青い春。地味な学生の僕の春は青くはなさそうだし、何と言えばいいのかな。『灰春』?頭文字に濁点が付いたらやばそうな言葉だ。
「……寒い」
雨に打たれながら心底どうでもいいことを考えていた僕はとりあえず、屋根のある昇降口に戻ることにした。二つの傘の間を鋭く縫う雨に晒され続けるのはマズい。体調的に。
僕は雨足の強い空と現実から目を背けるように昇降口に方向転換をし、足を踏み出す。
踏み出したところで、見る。
「それ、楽しい? 笠原」
長くてツヤのある黒髪と変わらない表情が印象的なクラスメイトを。
「……少なくとも、楽しくはないかな。 天音さん」
「ふうん」
天音梔恩が、普段のイメージ通りの興味なさげな口調で鼻を鳴らす。愚かな僕の愚かな姿を目撃されないよう下校時刻時間ギリギリまで待っていたというのに、ここで誰かに声をかけられるなんて想定外だった。
「雨が弱まるまで図書室で粘ってて、でも一向に弱まらないから仕方なくこの中を走って帰ろうとしたところ、ちょうど余分に傘を持つ笠原がいた」
都合良く心理描写をしてくれた天音さんには感謝だ。
「楽しんでるところ悪いけど、余ってるなら一本傘貸してよ」
◯
交互に踏み出される僕の早足が水溜りを踏み、飛沫が周辺に飛び散った。靴底からじわりと染み込む感触に嫌気が刺す。雨足が強い中で傘をさしていると、強風で飛ばされそうになるが、それをぐっと堪え、僕はなおも足早に歩き続けた。
早く家に帰りたいのもあるが、もう一つ。
追跡者を振り切るために。
「笠原、歩くの早いね」
「……何で着いてくるのさ」
愚かな姿を見られた気まずさで、僕は天音さんに傘を一本渡し、すぐさま撤退した。水溜りやぬかるみも気にせず、なるべく最短ルートでその場から離れようとした。
その人から離れようとした。
天音梔恩。
女子と話すこと自体慣れていないというのに、その上美人と名高い天音さんが着いてくるとなっては、心臓が暴れ回ってしまう。好きとか嫌いとか、決してそういうのではなくて、単なる緊張。無様な姿を晒したくない僕の戦略的撤退。
それで終わりのはずだった。
だから今のように、渡した傘を頭上に構え、僕の後を着いてくるのは意外だった。
「私も家、こっちだし」
「あ、そう」
「嘘だけど。 本当は真逆」
「……どういう部類の嘘なの?」
飄々とした天音さんは表情を変えない。普段教室で見ている通りだ。
「家は真逆だけど、聞きたいことがあったから。笠原、何か急いでたみたいだし。それなら歩きながら話そうと思って」
「……聞きたいこと?」
「傘を二つ広げてた理由」
やはりと言うべきか、普段接点のない彼女が僕に着いてきたのは、好奇心だった。軽い気持ちでテレビをザッピングしていたら、見たことのない変な虫が変な行動をしていたから気になって、そのままテレビを観続けてしまった、的なことだろう。
「お墓に持っていく規模で言いたくない秘密なら追求はしないけど、そうじゃないならぜひ教えてほしい。気になって夜も眠れなさそう」
天音さんからは、僕を馬鹿にするとか、そういう嘲笑めいた雰囲気は感じられない。普段からあまり表情を変えない天音さんだし、今も特別感情が発露しているわけではなさそうだけど、単純に『分からないから教えてくれ』って感じだ。
変な虫に興味津々な天音さんを撒く自信がないので、僕は観念して早歩きから普通のペースに歩くスピードを落とした。
「……相合傘が憎いんだよ」
「は?」
そこで天音さんが間の抜けた声を出した。普段ほとんど顔色を変えず、ほぼずっとローテンションな天音さんだ。はしゃいだ姿も見たことがなかったし、そして今のようなポカンとした顔も見たことがなかった。
そもそも、同じクラスになって数ヶ月経つが、まともに話したこともない。知らなくて当然ではあった。
僕は己の心理描写を、出来るだけ丁寧に語った。分かってもらえると思ってはいなかったが、それならそれで最善を尽くすべきだろう。
「……というわけなんだ」
説明を聞き終えた天音さんが一言。
「ふうん。笠原、そういうこと考えてる人なんだ」
やはり天音さんの言葉からは、嘲笑を混在させている様子を感じられず、単純にぽろっと出た感想を述べただけという印象だった。
「そういうことばかりで頭が埋め尽くされてる人なんだ」
「そういうことばかりで埋め尽くされてるわけではない」
かと言って、必要以上の脚色はしないでほしいものだ。決して相合傘を憎む気持ちだけで僕が出来上がっているわけではない。
「それで、二人で一つの傘を持つ相合傘に対抗して、一人で二つの傘を持っていたわけね」
「蒸し返さないでよ……」
ふうん、そっかそっか、と淡白に口に出す天音さん。
穴があったら入りたい。家があったら帰りたい。帰ってる最中だけど。
「まあそのおかげで、私はずぶ濡れで帰るはめにならずに済んだし。ありがとう」
そんなどうでもいいことを考えていたら、天音さんの口から自然に出た『ありがとう』の言葉を、一瞬聞き流しそうになる。
僕のようにつまらない人間に、当然のようにそう言えるなんて、天音さんは意外と良い人かもしれなかった。美人は怖い、という漠然な偏見を少し恥じる。
「おまけに面白い話も聞けたし。それに関しても、ありがとう」
「……そんなに面白い?」
「一人で二つの傘をさして天を仰ぐ姿、相当面白かったよ」
真意は読めないけれど、嘘を言っている様子は感じられなかった。感情が表に出ないだけで、意外と感受性は豊かなのかもしれない。
「あと、これ」
天音さんは肩から提げたスクールバッグからスマートフォンを取り出し、画面をこちらに見えるように提示した。
「しばらく待ち受けにする」
「……面白いと思ってくれるなら、目撃した時も笑ってほしかったな。それなら幾分か、気が楽だった」
「じわじわ来たから」
もしくは、意地悪なのかもしれない。
◯
天音さんは目的(僕が愚かな姿をしていた理由を知ること)を達成した後も、僕に着いてきた。本人曰く「暇だから」とのことだった。気まずさで必要以上に僕のことを話し過ぎたような気もするけど、そのおかげで沈黙に襲われずに済んだ。
そして喋り疲れたところで、僕の家まで辿り着く。
到着したことに安堵し、僕は解放された気持ちで足を早める。「じゃあ、ここだから」と天音さんから離れようとした、その時だった。
「笠原。明日も傘、貸してよ」
それは天音さんからの、予期せぬ一言だった。
「……僕は、傘貸し屋さんじゃないけど」
「知ってる」
「ていうかそもそも、明日その貸した傘をさして登校すればいいんじゃないの?」
「明日返しに来たところで、また帰りの時間には雨が降るって話だよ。明日返しても結局また借りることになるし、それならまた明日、二本持ってきてよ。借りた傘はまとめて返すから」
「……自分の傘を持ってくるって選択肢は?」
「荷物になるし」
「折り畳み傘でも鞄に入れておきなよ」
「折り畳み傘って何か、邪道だし」
折り畳み傘が邪道なんて、それこそ初めて聞く話だった。いや、僕に有無を言わせず傘を持って来させるためのテキトーな言い分なのかもしれない。単に、面倒臭がりなのかも。
「それに傘二本持って歩いてたら、笠原みたいじゃん」
「馬鹿にしてるよね?」
「馬鹿にはしてない。面白くはあった」
雨によって艶やかさを増した髪と、肌に張り付く制服姿を晒す天音さん。どきりとした僕は思わず目を逸らす。
「それに私、収集癖があるから。家に帰ったら、収集しちゃうかも」
「堂々とした借りパク宣言は止めてくれるかな?」
ビニール傘愛好家でもあるまいに。
「まあもちろん、この傘はいずれ返すけど」
今『いずれ』って言った?
つまりしばらくは帰ってこないわけ?
「本音を言えば、笠原ともう少し喋ってみたいって感じかな。今のところ、傘の貸し借りぐらいしか笠原との接点がないからさ、笠原。明日も傘貸してよ」
何の感情も見せずそんなことを言ってしまう天音さんに、僕は激しく動揺する。冴えない僕は、ついこんなことを思ってしまう。
それって、もしや、好意という物では__と。
「相合傘に対抗するって考え、新鮮だった。何度も言うけど、かなり面白かったから」
しかしと言うかやはりと言うか、単純にツボに入っただけのようだった。何度も言われるように、本当に面白がられているだけのようだ。
危ない危ない、自分に都合良く解釈してしまうところだったよ。僕は変な虫、変な虫。
「笠原が何と言おうと、明日は傘を持たずに登校するからね」
それは一大事だ。傘がなくては、天音さんが雨に濡れてしまう。その可憐な姿がどこぞの野次馬に盗撮され、『水も滴る女神様!』と下世話なコメントを添えSNS上に投稿されてしまえば、すぐさま拡散されてしまうだろう。
天音さんが雨晒しによって遍く知れ渡ってしまうだろう。
それは断じて避けたい。そんな良い物、僕以外の人に見てほしくない。じゃなくて。僕は何を言っているのだ。あああ。
「……まあ、別に無茶を言われてるわけでもないし、いいけどさ」
裏返りそうになる声を必死に取り繕って虚勢を張る。
今日初めて喋った天音さんに、惹かれているとでもいうわけか?僕よ。
「面倒だったら、笠原の分だけでいいよ」
そう言って天音さんは、今来た道を戻るために身を翻す。何の感情も見せず顔だけを肩越しにこちらに向けたと思ったら、天音さんは言った。
「その中に私も入るから」
え、と間抜けな声を出した僕に畳み掛けるように、彼女は続けた。
「相合傘、やってみたら意外と楽しいかもよ。私もしたことないし」
天音さんもしたことがないというのは、朗報のようでもあった。それをする間柄の恋人がいないと言っているようで、そんな彼女の初相合傘の役を僕が担えるというのか。いや、単に恋人と相合傘をするタイミングがなかっただけという可能性もある。ううむ。じゃなくて、僕は何を都合の良い妄想しているのだ。
「まあ、笠原にお任せする。じゃあね」
そう言って天音さんは来た道を引き返した。
小さくなる彼女の背を見届け、我に帰った僕は風邪を引かぬよう急いで玄関の戸を開ける。その最中、僕は考える。
明日持って行くべき傘は、二本か、一本か。
あと数時間は考え込みそうな事案だ。
だけど__僕のことは僕が一番良く分かる。
数時間後に僕自身が出す答えの正体にだって、もう薄々は勘付いている。
僕は女子に不慣れで、さっきまでの天音さんとの距離感でさえ、全く落ち着くことは出来なかったのだ。
「……明日も、二刀流かな」
気になるあの子と素敵な青春をエンジョイしちゃうには、僕には耐性が無さ過ぎるんだよなあ。