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7時より10分前に着いた。
10分じゃ何もできないけど、姿が映る物の前を通るたびに自分を確認しつつ、待ち合わせ場所に急ぐ。何度確認しようとも、おばさんはおばさんだ。服はダサいスーツ。考えるのが面倒で、大概スーツなのだ。まるで制服のように、毎日同じような服を着て出勤する。
しかし今日はその中でも間が悪いことに、グレーのスーツだった。顔色が悪くなるじゃない。白ならよかったのに。なんて言うんだろう、写真のときに使うやつ。ラフ板? ああいうのと同じで、白い服が顔の下にあると何となく明るく見えるような気がする。
あくまでも、気のせいだけど。
待ち合わせの場所が見えてきた。人混みをかき分けて近づくと、あきらくんが先に来て立っていた。私は素早く周囲を見渡した。あきらくんを笑いながら見ている集団がいないか、探した。
そういうのは見当たらず、とりあえず、ほっと息をつく。急ぎ足を普通に戻して、落ち着いた大人を演出しつつ歩いていく。近づく私に気づいて、あきらくんが表情を緩めたような気がした。
どうもどうもとお辞儀をして歩き出す。隣に立つのも何となく悪くて、半歩遅れてついていく。人が増えた駅の構内で、半歩のはずが一歩、二歩と遅れ出す。私ははぐれないように、あきらくんの背中を見ていた。
背が高いなあと思う。周囲から頭1つ分出てるから、見つけやすい。何センチだろう。そんなことを考えていたらあきらくんがふと立ち止まり、振り返った。
私を見て、すっと手を差し出す。え? と思う間もなく、手を握られた。人が多いですから、そう言って何でもないことのようにまた歩き出す。
人肌なんていつ以来だろう。誰かと手を繋ぐなんて、思い出せないくらい昔だ。もしかしたら、この子が生まれる前かも。
どきどき走り出した鼓動を抱えて、手を繋ぐ。緊張で汗が出てきたら嫌だわと思いながら、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせた。
周囲にどう見えているだろう。私たち、どう見えているのだろう。
そんなことを考えていたら、ショーウィンドウに私たちが映った。介護者と老人。いやいや、さすがにそこまでは見えないけど、でも、お母さんの手を引く孝行息子のようだった。
何がいいですかと聞かれ、何でもいいと答える。答えて内心、まずったと思った。何でもいいは、返事じゃない。何かを言うべきかと焦ったが、何も思い浮かばないのだ。
若い子だし、焼き肉がいいのかしら。でも私が、焼き肉がいいわと言うのも変でしょ。おばさんが焼き肉指定って、おじさん化しているみたいだもの。
じゃあ、おしゃれにフランス料理? て、それこそないわ。前回同様、割り勘だったら申し訳ない。
あきらくんのお財布に負担をかけない程度で、おばさんが選ばないようなもの。
ああ、何も思いつかない。電車の中で調べてくればよかったわ。
悶々と悩む私に気づかず、あきらくんはちょっと考えて、ああ、と笑った。
イタリアン、大丈夫ですか? そう聞かれて、頷く。あきらくんはほっとしたように笑って、また歩き出した。
雑踏の駅構内から、肌寒くなった外に出る。季節は秋に片足を入れたくらいで、冬ももうすぐ。ビルから漏れる灯りと、外灯に照らされた歩道を二人で歩く。
駅に向かう人は多くて、駅に背を向けて歩く人は少ない。駅を離れたら離れるほど、人は少なくなっていく。整備された歩道をゆっくりと歩きながら、私は半歩先を行くあきらくんを盗み見た。
あきらくんを見て、繋がれたままの大きくて温かな手に視線を落とす。もうはぐれる心配もないのに、あきらくんは私の手を握ったままだった。
高くもないけど安すぎない。OLが二人連れで食事に行くような、そういう店に入った。集団で騒ぐ人たちも、子供連れもいない。どの席も、二人か四人。適度に離れていて、観葉植物や壁で、客同士の視線も遮られる。落ち着く店だった。
メニューを渡されて悩む。結構、品数が多い。女性客が多そうだから、こういうのがウケるのかもしれないが、今の私は悩むだけだ。頭が一向に冷静さを取り戻さず、考えが纏まらないのだ。
メニューをめくりながら目をうろうろさせていると、あきらくんがオススメを教えてくれた。私は助け船に飛び乗って、メニューを店員に返した。
メニューを返して料理を待っている間が一番困る。何もすることがない。水ばっかり飲んでいるのも変だし、何かを言わなきゃと焦りばかりが先走る。
あきらくんも所在なげに、視線を泳がせていた。私もあきらくんを直視できず、視線が彷徨う。楽しそうな店内で、この席だけが変な雰囲気だった。
一言も口を利かずに座って、2人揃って水ばかりを飲んでいる。あっという間にコップが空になった。テーブルに置かれたピッチャーから水を注ごうとしたが、先にあきらくんに取られてしまう。
「どうぞ」
そう言って、まずは私のコップを満たしてくれた。
この子やっぱりモテると思うし、結婚もできるだろう。見た目もいいし、背は高いし、気遣いもある。声だって、心地よいテノール。メールも変じゃなかったし、ちゃんとした日本語だった。
こんないい子がどうして私みたいなおばさんとご飯を食べようと思ったのだろう。いったい、どれほどの弱みを握られているのか。そもそもどうして、あの場に来たのだろう。どういう経緯があったのか、友人に確かめなきゃいけないわ。
メイン料理の前に、サラダがきた。あきらくんオススメの、シーザーサラダ。魚介類がたっぷり載っていて、おいしそう。
取り皿に分けなきゃと思う前に、またもやあきらくんに先を越された。彩りも考えたのかしらと思うほどきれいにあきらくんはよそって、私の前にお皿を置いた。手早く自分の取り皿にもよそって、あきらくんは幸せそうに食べ始めた。
私も食べながら、こそこそとあきらくんを見る。
前回も思ったけど、いい食べっぷりだわ。私は沢山食べる人が好きだ。食べることを楽しむ、そういう人がいい。ついでに言えば、食べ方のきれいな人。あきらくんは食べ方もきれいだった。
2人とも無言だから、あっという間に食べ終わる。
何か言わなきゃ何か言わなきゃ、焦って考える。災いを持つほどの口なのに、今日は何故か開かない。うんうん悩んでいたら、またもやあきらくんに先を越された。
「山田さんとは、長いんですか?」
突如言われて、は? と固まる。
山田さんというのは、あきらくんを紹介してくれた友人のことだろう。
「ええ、そう、10年くらい」
出会いパーティーで知り合ったのだとは言わずにおいた。めぼしい男性がいなくて、隣に座っていた彼女を誘って自棄飲みに行ったのだ。それからの付き合い。
コンパの人数合わせとか女子会とか、そういうことでしか会わないけど。
「あの、山田さんとはどういう……?」
そこまで言っただけで、あきらくんは察したようだ。なかなかに、勘も良い。見目がよくて勘も良くて、それに多分、マメだろう。こういう人は絶対に売れる。
「バイト先の先輩なんですよ。なんか、スゴい人ですよね」
そう言ってあきらくんは、くすっと笑った。
『山田さん』の仕事が何だったのだろうと考える。女子会の時に話していたと思うけど、もう随分と前だ。何かの販売だったような、そんな記憶がある。不定休で、だから土曜でも日曜でも働いている時がある。外食産業ではなかったはずだから、どういうバイトなのかしら。そういうところでもバイトってあるのかしら。
自慢じゃないが、私はバイトをしたことがない。真面目な高校生をやってから今の会社に就職したのだ。バイト禁止の高校だったし、隠れてしようなんて考えもつかなかった。結果的に、私は今の仕事しか知らない。
仕事の種類がよくわからなかったが、山田さんがスゴいのは知っている。何というか、バイタリティーがあるのだ。ぐいぐい引っ張ってくれるというか、いつも走っているイメージがある。
大概の事には興味があって、どんな話題にも反応がいい。女子会であろうとコンパであろうと彼女がいれば盛り上がるし、場が明るくなる。
だがそれだけに誘いも多く、彼女を捕まえたければ少なくとも一ヶ月前には予約を入れなきゃならない。
職場でも同じなんだなと思いながら、私も笑って同意した。あきらくん、弱みを握られているんじゃないかも。あの勢いで、その上職場の先輩なら断れないかも。
そう思っていたら、あきらくんから話してくれた。
「先月、俺ちょっと仕事で失敗しちゃったんですよね。そうしたら最後まで面倒見てくれて……なんか、ものすごくお世話になったんですよ。俺、割と尾を引くタイプなんですよね。それで落ち込んでたら、俺が気づかないようにフォローもしてくれて……だからお礼がしたくて、飲みに誘ったんですよ」
そこで私と会ったわけだ。
「俺から誘ったのに、その日の午後になって突然用事が入ったんですよ。友達が風邪で倒れちゃって、代わりにそいつのバイトに入ったんですよね。穴空けたらクビになるって、泣きつかれちゃって……それで遅れたんです」
そう言うと、あきらくんはぺこっと頭を下げて謝った。
「あそこに私がいるって、思わなかった?」
遅れて急いでやってきて、それなのに私を見て怪訝な顔をしていた。一瞬だったけど、あれ? という顔。だから多分、この子は知らなかったんじゃないかなと思った。
「はい。山田さんと2人かなと思ってました」
あきらくん、もしかしたら山田さんに気があるのかも。
山田さんは私と同い年だけど、彼女は若く見える。とにかく明るいから男女問わずモテるし、確か、年下とも付き合っていた。もう何年も前だしすぐに別れたけど、10歳下じゃなかったかしら。
山田さん、いまはフリーのはずだ。あきらくんが告白したら、上手くいくと思う。
あの人、割と垣根が低いのだ。10年の付き合いの中で、彼氏がいたことが何度もある。どれも長続きしないのが不思議だが、彼女の話で知るだけでも、いろんなタイプがいた。
だから、あきらくんにも望みがあると思うのだ。
そう教えてあげたらいいのかなと思いつつ、私は黙っていた。
嫌な嫉妬。友達が別れたとか離婚したとか聞くと、ほっとしてうれしくなる。彼氏が出来たとか結婚するとか聞くと、心臓を鷲掴みにされたような苦しさがある。
モテないおばさんの、醜い嫉妬だ。
あきらくんは私を介して、山田さんの情報が欲しいのかな。でも、飲み会だけでしか付き合いがないから、何も答えられない。山田さんに関しては私より、一緒に働いているあきらくんの方がよく知っていると思う。
20歳も年の離れた2人の共通の話題だから仕方ないけど、それからは山田さんの話ばかりになった。あきらくんの話題の中で、山田さんは活き活きと楽しそうに動く。それは私が知っている山田さんと同じで、彼女は本当に裏表のない人なんだなと思う。こういう人は、男女問わずにモテるだろう。
ピザとパスタを1つずつ頼んで、分け合って食べる。
せっかくのお料理なのに、少しも味がしなかった。