2 三度の出生を数える
顔面をシトシトと雨が叩く感触。
濡れた草が首の裏に当たってくすぐったい。
ごうごうと、勢いの有る水音が耳に届いていた。
仰向けのまま、丘崎始は目を覚ました。
しばらく前まで×××の物だった肉体を得て。
(って、誰だ? いや、誰、じゃなくて、出てこない……)
頭に浮かぶ人物の名が思い出せない。
そもそも自分は死んだはずじゃなかったか?
就職活動に疲れ、世を恨み、自身の不足を嘆き、情けなくも努力しなかった過去の自分すら恨んで首を吊った。
それからどうしたか?
「っ!」
頭痛が走り、自殺した後の経験を思い出してきた。
(そうだ俺は×××に生まれ変わって……? いや、違う)
×××が死ぬ直前の記憶と今の自分の状況からしても今の肉体が×××の物であるのは間違いないはずだ。
しかし、思い出した×××の記憶は、酷い虫食い状態の上に映画でも見ているかのように実感が無い物だったのだ。
(×××は丘崎始の記憶を持っていたけど、俺と同一人物じゃあなかった……?)
それを確信し、愕然とした。
(×××が、死んだ……)
酷く悲しかった。
×××の自己認識としては、×××こそが死んだ丘崎始の生まれ変わりだと思っていたようだが、丘崎からすれば×××は丘崎始そっくりに育ってしまった実子のように感じられたのだ。
自殺する前の丘崎に子供が出来た事も無いので、その感覚が親としての情愛と同じものかは分からないが、それでも×××は確かに〈丘崎始〉を受け継いで生きてくれていた。
その×××の喪失が、心に刺さる。
全てを思い出してやれないのが、辛い。
丘崎の無念を晴らそうと自立を目指してくれたのが嬉しくて、理不尽に途絶えさせられたことが腹立たしくてたまらない。
確か、×××が生きたのは14年かそこらだったはずだ。
自殺に終わった前世ですら22年は生きた。その3分の2で、他殺された。
ぶるりと、仰向けのままの全身に震えが走る。
改めて思い出していた。
鮮明に鮮明に、×××の胸に剣を突き立てて来た女と、その時の絶望感を。
恍惚とした顔で剣を突き刺し続ける、仇の顔を。
怒りが、掌に爪を食い込ませる。
(あの女は、×××を殺して悦んでいた……!)
致命傷を与えてなお、さらに傷つけて愉しんでいたのだ。
怒り、悔しさ、憎しみ、悲しみ、絶望、負の感情が全身を駆け巡っている。
湧きあがる物に突き動かされて、丘崎は上半身を起こした。
胸に視線を落とすと、穴だらけになった革の胸当て。
今の身体には傷も痛みも無いのだが、凶行の跡を視界に入れたことでさらに強い実感が伴った。
痛かったろう。
辛かったろう。
もっと生きていたかっただろう。
かつての自分は何を自分で死を選んだりしてしまったのか。
「う、うっ、ううう、うおううううあああ」
声が漏れだした。
両の手指で自身の顔面を掴むようにし、背を丸めた。
両目からは熱い塩水がだらだらと落ちて来る。
「うあ、ぁああ、く、そう」
どうしようもない怒りが自分自身と×××を殺した女に向いていた。
歯をがちがちと鳴らし、頭を掻き毟り、丸めた背を震わせて慟哭する。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
死にたいほどの羞恥と怒り、情けなさ、しかし今度はそれを選んでたまるかという意思。
それが三度目の生の出発点だった。
丘崎は雨が完全に止むまで泣き続けて、ようやく落ち着く事が出来た。
彼の中で怒りの原因が収まったわけではない。号泣で感情が沈静されたよるものだ。
丘崎はゆらりと立上ると、目覚めた時から聞こえていた水音に呼び寄せられるようにふらふら歩いていった。
(顔、洗いてぇ……)
水を求めて辿りついたのは、雨で増水して水が土色になった大きな河川だ。
これで顔を洗うには流石に気が引ける。
(服を脱いで濾しでもすればどうにかならないか?)
濾した水を保持する容器のアテも無い事を忘れ、そんなことを考えながら川沿いを歩いていると泥が底に沈殿した水溜りを見つけることが出来た。
(流石に飲むのは無理だろうけど)
上澄みで顔を洗おうと上から覗き込んだ時、丘崎は左右正逆の自身の顔を拝んだ。
自嘲の笑みが浮かんだのが自分でも分かった。
(ああ、やっぱり)
それは見慣れたかつての醤油顔ではなかった。
だが×××の物でも無いだろう。髪や目の色は覚えていないが、漁村で育った×××は酷く日焼けしていたはずだ。
白い肌、明るい金髪に若草色の虹彩を持つ白人の少年がそこにはいた。
14、5歳といった所だと判断する。
日本国外に出たことも無かった丘崎の記憶だけならば、白人の年齢を外見から推測することは出来なかっただろうが、×××の残滓が感覚を補完してくれた。
(顔は違う人間だけど、歳は×××と同じくらいになったのか)
奇妙に可笑しさを感じたが、表情筋は笑顔を作ってはくれなかった。
底の泥を持ち上げないようにして顔を洗うと、少しだけすっきりした気分になれた。
じっとしていれば再び激情に飲まれるのだろうが、冷静になった思考が現状の把握を催促している。
まず、今自身が身につけている物を近くに有った乾いた岩に広げ検めてみる。
簡素だが厚めの麻のズボンとシャツ、木板を仕込んだ革の胸当て、前腕と脛に革甲、上からボロボロの革のクローク。
付着したはずの血は×××が今の丘崎に変貌した際に消滅したのか、残っていなかった。
荷物を入れた袋を担いでいた覚えが有るが、女から逃走する際にどこかで投げ捨ててしまったのを×××の残滓が教えてくれた。
所持品としては腰に付けていた大振りなナイフくらいしか残っていなかった。ところどころ刃こぼれしているが重量感が有る品で、小動物くらいなら狩りから捌くのまでこなせそうだ。
濡れた衣類の端に石を置いて固定すると、自身も岩の上に腰を下ろして深いため息を吐いた。
×××の記憶が教えてくれる内容を整理していく。
ここはかつて丘崎の生きていた世界とは違って、神や魔法、魔物といった物の実在する世界であるということ。
×××はそれなりに魔法を使えていたようだが、今の丘崎は魔法の技術は持っていない。
その一方で、自身や周囲に〈魔力〉とでも呼ぶのであろう力の存在を察知出来ている。
理由は分からなかったが、何故か言葉と文字が日本語であること。
一方で×××の名前は西洋系だったような気がした。ますます意味不明な世界だと丘崎は思う。
今いる国の名は〈アドナック〉
政治体制は王国制のはずだが、田舎にいた×××の記憶では詳しいことは不明。
一度は脱出したすぐ近くの街〈ウィケロタウロス〉は覚えている。
いわゆる〈冒険者〉の街だ。
×××はここに仕事を求めてやってきた。らしい。
「ゲームかよ」
そんな言葉が口をつき、丘崎は失笑する。
そうだとしても、己も×××も主人公ではあるまい。
×××のこれまでの労苦を垣間見た限り、身を隠す異能こそ持っていたがとても才能の有る人物だとは言えなかった。
不貞腐れたように岩の上で仰向けになる。
雨はもう降っていないが、未だに青い部分が少ない空が丘崎の目に入って来た。
これからどうするかと考えた時、まず×××を殺してくれた女への対応が思い浮かぶ。
絶対に殺し返してやらないと気が済まない、という訳ではないが、自身は大切な物を奪われ、奪った相手は何も報いを受けていないということが気に入らなかった。
(×××を殺した事実が世に出た時、あの女に正しく報いを与える法の有る社会ならそれで良い。実行、もしくは余罪の証明に手段を尽くす)
だが、と心中の独白に一拍を置く。
(殺人や殺人の報復が罪で無い世界なら、……何らかの形で俺が報いを受けさせる、か)
今はそんな答えが出るが、いざ目の前にあの女が再度現れたらどういうなるか分からない。
発狂して襲い掛かるかも分からない。
それほどの怒りは有る。
だが報いを受けさせることすら選ぶかも分からない。
本当に頭が冷めた時には怒りは持続していないかも知れない。
ただ今は、両手が震えるほどに拳を握りしめていた。
それは爪の立て過ぎで血が出るということも無くあっさりと解かれた。
金か、地位か、腕力か。
何らかの意趣返しをするにしても、今の丘崎にはそれを成せる物が何も無い。爪で皮膚を突き破る程度の握力すら持っていない。
まずは自分で生活費を稼げるようにならねばならない。そんな段階であった。
情けない話だった。
しかし、それは丘崎にとって悪くない目標でもある。
就職に自立。本来、丘崎と×××はずっとそれを求めていた。
この世界でなら、日本で苦しめられた職種や職場の見栄すら要らない。
「仕事、有ると良いなあ」
身元不明で使ってくれるような所が。
×××の積み重ねを失ってしまったのだ。住居不明可どころか経歴不問の勤め先なぞブラックどころの話ではないが、正直それでも文句を言えたものではない。
日本式の人権・仕事環境の保障など期待する方が間違っているというものだ。そう自分に言い聞かせた。
丘崎は衣類が乾くまで岩の上で休んでから、ウィケロタウロスの街に再び入ることを決めた。