私的「魔女の宅急便」論考
スタジオジブリの作品は特異な作品である。その全世界的な人気もさることながら、物語のクオリティー、ハイレベルなアニメーションは他の追随を許さない。ここではその偉大な作品群の中から「魔女の宅急便」を選び、論を起こしていこう。
まず最初に着目すべきはやはりその鋭く豊かなアニメーション技術であろう。「魔女の宅急便」のオープニングシーン、主人公キキが母のいる家へと走っていくシーンがある。このとき画面に描き出される「走る」という動き、これだけをとっても他のアニメーションと比べて大きな差が存在する。非常に動きが滑らかかつリアルなのだ。通常このようなシーンには同じ動きを繰り返すような表現が使われることが多い、しかしキキの走りは不規則かつ自由で、一定の法則のある動きではない。つまりは一挙手一投足に対して膨大なアニメーション画が使用され、かつそれらは美しく繋ぎ合わされているのだ。
他にもジブリのアニメーション技術の高さを示す多くの類例を「魔女の宅急便」から見て取ることができる。オープニングシーンでキキが寝転がっていた野原の風になびく植物、細部にまで造形の及んだ町並み、描画によって一本々々に個性を持たされた森の木々、さらに一人々々意味を持たされた人物の造形など、その例は挙げればキリがないと言うものだ。
これらのアニメーション技術にはある一定の方向性がある。それは「よりリアルに」の言葉に集約される。商業アニメ的なアニメーション画の使いまわしや群集の簡略化を避け、細部に渡ってどんな背景、どんな端役、どんな人物の指の先にまでも主人公となりうる命を吹き込む。これこそスタジオジブリの真髄であると言えよう。映画の中に描き出された世界はまるで現実の世界のようである。
この「よりリアルに」の方針は物語にも現れる。スタジオジブリ作品には「悪役」が登場しない。より正確に言えば「悪役と呼べるような悪役」が登場しない。「もののけ姫」の山伏達しかり「ハウルの動く城」の荒れ地の魔女しかり、彼等は人間味のあるどこかかわいらしく切ない存在として描かれる。
これは「魔女の宅急便」においてより顕著だ。「魔女の宅急便」はストーリーからして悪役がそもそも存在しない。一人の少女の成長が起伏なく描かれていく。
「悪役」がいないことは物語に何をもたらすか。まず一つは物語のリアライズだ。現実の世界に明確な悪役は存在しない。世を騒がす残酷無比な行いの根底にあるのは個々のイデオロギーだ。そこに悪役は存在しない。もっと言えばある視点では正義の見方だったものが他方では冷酷無比な悪役となりうるのだ。「わかりやすくショッカーでもいてくれればよかったのに」という言葉に現実の正義不正義は集約される。悪役の不在はその混沌としたリアリティを物語にもたらす。
もう一つ、悪役の不在が物語にもたらす影響がある。これは前述の物語のリアライズと対になるものだが、物語の内向化、平板化だ。悪役がいない、つまり憤りや不安をぶつける対象がいない。それは「やり場のない感情」を生み出し、登場人物の内面的な葛藤や成長を生み出すことになる。さらに感情を「一方的にぶつける」行為が存在しないことが、爽快感のある刺激、つまり物語の起伏をなだらかで平板なものにする。
それがより顕著に現れた作品が「魔女の宅急便」であると私は思う。主人公キキは見知らぬ土地の人々との触れ合い、宅急便という仕事の中で直面するどうにもならない理不尽と出会いながら葛藤し、成長していくこととなる。その姿は魔法というファンタジーを除けば、現実世界の我々と何ら変わるものではない。怒りをぶつける相手はいない、自らの成長以外にその解決は有り得ない。言うならば、その「世界観」こそが悪役であると言ったところか。それは果てしなく現実である。我々はそのような主人公の姿と世界観に自分の現実を重ね、共感することで作品に感動し、また主人公の成長から新たな地平を学ぶのだ。
しかしそこで賢明な思考者ならば気付くであろうことがある。それは「なぜ完全な現実ではいけなかったのか?」という疑問だ。 この疑問を「魔女の宅急便」に置き換えよう。「なぜ魔法を存在させる必要があったのか」という問いだ。確かに、人々と触れ合う中で成長していく少女の姿を描きたかったなら、それこそ「現代一歩手前の時代を生き、働く中で成長する少女」を題材としても目的は達せられたはずだ。
先に答えを述べておくと、ファンタジー作品であることがもたらす効果がこの作品をスタジオジブリ作品たらしめている。 その効果とは「現実の芸術化」かみ砕いて言うと「現実の恣意的変形」である。これらはすなわちファンタジーならでは、アニメーションならではの表現によって成される現実の一部を強調する効果である。
まずこの作品においてファンタジー性が強調するものは何か。「魔女の宅急便」劇中では、箒に乗って人が空を飛び、黒猫が人間の言葉を話す。これらは劇中で「純粋な心」とでも言うべきものの象徴として扱われていると私は分析する。
劇中、キキは箒に乗って空を飛ぶ魔法と黒猫ジジと話す能力を失う。このタイミングで彼女にはなにが起こっているか。それは理不尽との直面である。キキが一生懸命作るのを手伝い、老婆の優しさに胸を一杯にして届けた料理を、受け取り人の老婆の孫はぞんざいに扱う。純粋な少女が理不尽と直面した瞬間である。彼女は気を落とし、そして魔法を失い、ジジと話すことができなくなる。そしていかにして彼女はそれらを取り戻すか。人と触れ合い、新たな成長を体験して彼女は力を取り戻す。しかし、ジジとは最後まで再び話すことはできななかった。例え前向きな心を取り戻したとしても、若者が永遠に完全な子供であることは叶わないのだ。
「魔女の宅急便」におけるファンタジーは、こうした少女の成長、つまり作品におけるテーマを強調している。若者が理不尽と直面し、絶望し、しかしそれでも友人ら心ある人々と触れ合うことで以前のような子供ではないにせよ、前向きで純粋に生きていこうとする過程を、それは果てしなく現実に近い世界の中に鮮やかに描き出す。
こうして「果てしなく現実な世界に描き出された少女、若者の成長」は、観客の感性へ接触することになる。共感できないわけはなかろう。なぜならそれは現実の中の自分そのものだからだ。悪役のいない、理不尽だらけの世界の中で生きるまさしく現実の自分と同じ姿が、スクリーンの中にはあるのだ。
これがスタジオジブリだ。主人公キキの姿には全ての人々の青春が凝縮される。あらゆる葛藤、あらゆる理不尽、あらゆる希望が、限りなく現実に近い作品であるが故にスクリーンに現れる。だからこそあらゆる人々の心にこの作品は触れ、共感させることができる。スクリーンの中にもう一つの現実を作り出し、一人の主人公に限りなく現実に近い感情―命―を与え、それらを人々の心に触れうる形に創造する。なんと偉大な作品であることか。