ことのはいろは
「言葉ってのはさ、己の心象や感じたことをうまく伝えるためのツールなワケよ。
人の持つ性能を上手く利用した、圧縮された情報伝達方法としちゃ良く出来てると思う。
けど、だからこそ『言葉とは、己の心象や感じたことを正しく伝えられないツール』なのさ。
人は湧き上がった感情や情景を表現したいとき、言葉を使うっしょ?
でも、感情や情景と言葉の間には、語彙だとか信念だとか経験というフィルターがある。
同じ気持ちを抱いた別の人間がいたとしても、その状況を言葉にすれば違うものになる。
発信者は始まりのイメージをそのままストレートに表現はできないわけ。
おまけに、受信者も、言葉という刺激を、語彙、信念、経験のフィルターを通して感情に変換するわけさ。
たとえば関西の人間は「アホ」って言葉から親愛まじりのからかいをイメージするけど、関東の人間は「バカ」って言葉から同様の意味を感じることが多い。
これは文化圏の差のわかりやすい例さね。
それ以外にも、対象の心的状況や個人的な経験が言葉の解釈を左右することは多いのよ、これが。
つまり、言葉を介したコミュニケーションは、正確に見えてその実、精度は高くないってこと。
送り手と受け手によって二重にも三重にも歪められて、メッセージは伝わってしまう。
今話している説明も、こちらの知識や語彙によって伝えたいことは随分アンタに制限されて伝わっていると思うし、アンタの側の知識や考え方、信念によってまた、受け取り方が様々になっているンだけれど。
姉弟ったって、背景にしてる文化が似てるだけで、結局は他人だしね。
ともあれ、だからこそ言葉とは発信者の想いを正確に受信者に伝達するツールたりえない。
まあこれは意味を圧縮した表現に共通する特性で、言葉に限ったものではないのさあ。
人間の使用している表現方法においてこの弱点を克服したモノなどないわけですよ。OK?」
「……で、その心は?」
「そういうことなので渾身の文章に対する血を分けた弟の評価が! たった一言! 四文字で!
一刀両断「ツマラン」だったとしても! こっちは全然! まったく! これっぽっちも悲しくないのだ!」
ビール片手に机をてしてし叩いておいて、説得力の欠片もない訳なのだが。
赤の他人ならば関わらないように生暖かい目を向けて通り過ぎればいいところだが、残念ながらここは自宅で、相手は血の繋がった姉である。
一応出来のいい弟を自認している身としては、反応してやらざるを得ない。
溜息をつきつつ、視線を手の中の原稿に落とす。
そこには、目の前の相手が書いたある文章。
俺は小説を書いたこともないし、言葉にこだわりがあるわけでもない。
けれど、お世辞にも上手な文章とは思えなかった。
文章は稚拙で読みずらく、どうにも安心して情景を浮かべられない。
韻も踏まず読む調子は狂うし、無駄な描写が多くて一文が長い。
そのくせ、自分が理解している世界の前提を伝えることを忘れていてわかりにくい。
いや、正直に言うならば、技巧なんてどうでもよかったのだ。
何よりその内容こそが、俺に「面白い」と言うことを憚らせていた。
それは、甘くて温い救いの物語だった。
当然のことを当然として受け流すことができず、世界に満ちる曖昧を許せなかった少女。
自らの意識が他者と違うと知り、懊悩していた彼女の前に現れた、たった一人の哲学部員にして部長。
生き方が丁寧過ぎる。それでは楽に生きられまい。
そう、部長は少女に笑いかけた。
そして。
『だが、君の生き方は、とても哲学的だ』
『そして、哲学は楽しいものだ』
『ならば、君の生き方は、楽ではないが、とても楽しいはずだ』
乱暴な三段論法で、無条件に少女を肯定した。
どこかで見たかのような、甘くて温い、雑な救いの物語。
登場人物の性別こそ違うが、これはほとんど……、
「……これって、俺と先輩の会話そのまんまだろ。どこで聞きつけた、このストーカーめ」
「何が悲しくて実弟のストリーキングなどするかー!」
「ストーキングな。どっちも限りなく犯罪的だが」
「つれないないなあマイブラザー。もしかしてアンタ、やたらと深読みしてないかい?」
先輩とのゲームの始まりの日。ほんの少しの、ひとやすみ。
それを思い出して、むず痒い思いをしていたこちらを見て、愚姉は歳に似合わぬ悪戯っ子めいた笑みを浮かべた。
「何笑ってるのさ」
「いや、嬉しいなって思っただけ。この小説は今「完成した」ンだからね」
わけのわからない理屈に頭を捻る俺の額を、ほろ酔いで上機嫌になった姉が、軽くつついた。
「さっきも言ったでしょ?
小説なんて書き手が「歪める」だけでなく受け手も「歪めて」初めて成立するコミュニケーションなのさー。
これは、読者さん側にも「作ってもらって初めて完成する」と言い換えることができる。
この文章という刺激を元に、アンタは自分の経験を元に何かを想像し、何かを感じた。
それは、二重の心に歪められて、私の意図したものではないかもしれない。
けれどそれでいい。いや、それでこそ面白い。
書き手一人では作り出せない世界も、読み手とだったら出来上がるかもしれないンだからさ。
だから、私が何をモデルに描いたかなんて、関係ない。
それを想像してくれるのは嬉しいけど、アンタの解釈が、アンタの正しい物語なンだから」
姉が何を言っているか、俺には今ひとつ、よくわからない。
ただ、その表情が、どこか、ゲームの途中で小難しいことを口にする先輩に似ているような気が……いやいや。
どこからどう見てもこのガサツな姉とあの理知的な先輩とは月とスッポンだが。
「む。ただ今とっても無礼なことを思われた気がするのでありました」
「それこそ深読みだろ。そう思ってしまうような「思い当たる節」が姉さんにあったってだけさ」
「言うようになったな、この愚弟め。あーあ、アイツといいアンタといい、昔は素直で可愛かったのになー」
姉の言う「あの頃」とは、十年ばかり昔のことだ。
男子三日会わざればと言うし、第二次性徴も迎えていない時分と一緒にされるのはどうかと思う。
俺はともかく、アイツこと、ご近所の幼馴染、超高校級の帰宅部員は多感なお年頃だ。
いつまでも弟分の子供扱いでべたべたされるのは色々と精神衛生的に迷惑だろう。
まったくご愁傷様と言う他ない。
「ま、いいけど。勝手に人の実生活を小説にしたりしないように」
「何をー。これは100%私の実体験に基づく創作だぞ! 冤罪だー横暴だー創作の自由を返せーとかいいつつ、ネットの投稿サイトに既に掲載しているテスト」
「な……消せっ! 今すぐ消せっ! この馬鹿姉!」
「ふっふっふっ。こえ見えてもお姉ちゃんは全国200人近い読者を誇るネット小説家さんなのだ!」
「世界的に公開してる割には規模小さいなあおい!」
まったく。
小難しい小理屈をこね回そうと、言葉のいろはを語ろうと、結局この人はこうなのだ。
自分にはない奔放さを少し羨ましく思いながら、俺は、うまく家の外に逃げ切られてしまった姉の部屋の目覚まし時計から電池を抜いておくことを固く心に誓った。
◇ ◇ ◇
「あー、もしもし? 私だけど。聞いたぞー、人の弟を、私の言葉で口説きおって。いやあ、いつぞの悩める少女が変われば変わるもンだ。ぁ? いやいや、別に怒っちゃいないよ。むしろ、アレにアンタはもったいないくらいだ。飽きるまでつき合わせてやりなさい。お姉さんも援護射撃は惜しまないからさ。ん? あいつの好きな食い物? ぁー、そうだなあ……」