94.『心の剣』
エルサティーナでもっとも大きな大ホール。
歴史と高い技術をもってつくられたその芸術的建物の中、たくさんの人々がひしめきあっていた。
笛吹姫がコンクールに出る。
その話を聞いていた人々は、こぞってコンクールを観覧しようとホールにつめかけた。あるものは笛吹姫がまったくの無実の騒動に巻き込まれてしまったと思い、自分たちの敬愛する笛吹姫を応援しようと、またあるものは魔女と同一人物であると信じその魔女を見物するために。
舞台では今も演奏が行われていたが、誰も演奏など聞いてなかった。ただ件の少女の登場を待っている。
「よく出場できたものね。」
シルフィールはほくそ笑みながら、カーテンの裏から異様な雰囲気漂う観客席を眺めた。もはやコンクールという雰囲気ではなく、対立するものどうしが椅子に座りながらもにらみ合っている。
こんな状況では自分の演奏すら聞いてもらえるか怪しいが、シルフィールは既にそんなことどうでもよくなっていた。
あの気に入らない女の名声に傷をつけてやれた高揚感が、その感情に満足をもたらしていた。
「次はあの女ね。どんなみじめな言い訳を聞かせてくれるのか見ものだわ。」
あの壇上で必死に言い訳をして罵倒を受けるか、それともまわりの声を無視して演奏をしようとするのか。どっちにしろ、この雰囲気のなかではろくな演奏もできまい。あの女の人気には大きな傷が入るだろう。
シルフィールはベルが、いやベアトリーチェが、いまからどのような醜態をさらしてくれるのか想像し、喉の奥から笑い声をあげた。
***
ベアトリーチェが登場するとき、観客席から声があがった。
しかしそれはいつものような歓声ではない。笛吹姫を信望するものたちの祈りのような悲鳴のような声。そして魔女を嫌うものたちのはやしたてるような声。
その中をベアトリーチェは静かに歩んだ。堂々としたその歩みに、怯えはない。
魔女と同じ柔らかく揺れる蜂蜜色の髪。
その容姿を見てある者たちはベルと呼ばれる女が、やはり魔女ベアトリーチェなのだと確信する。そしてもう一方の者たちは、笛吹姫がベアトリーチェなはずがないと心に言い聞かせる。
誰もがベアトリーチェをじっと見つめ、さまざまな感情がホール全体を渦巻きだす。
ベルを応援する声でも、罵倒する声でも、誰かが何かを叫べば、この場所はたちまち混乱の場へと化すだろう。
しかしそんな空気を感じないかのように、ベアトリーチェは舞台の中央までゆっくりと歩く。そして優雅に観客たちへと目を向けた。
琥珀色の瞳が観客たちを見渡す。
その瞳に吸い込まれるように、観客たちはじっとベアトリーチェの次の動作を待った。
ベアトリーチェはすっと息を吸い込み、大きな声でみんなに向かっていった。
「私はエルサティーナの第八妃、ベアトリーチェです。」
誰もがその言葉に仰天した。ベルを魔女だと思っていたものは、みじめに否定するのだと思い込み、肯定するのだとは夢にも思っていなかった。そしてベルのファンだったものたちは、ベルがベアトリーチェであることを否定してくれるのだと思い込んでいた。
ホールをざわめきが包み、驚きの視線がベアトリーチェに集中する。
しかし、ベアトリーチェは動揺することなく、まっすぐにその視線を受け止めた。
「6年前、アーサーさまの側妃となった私は、三年間寵愛を受けることは無く、後宮を逃げ出すことになりました。それは本当のことです。」
静かな声で事実を認めていくベアトリーチェ。
笛吹姫は魔女だったのか。
そう観客たちが受け取ろうとしたとき。ベアトリーチェはそこで強く、意思を持った言葉を発した。
「でも、あの歌のことは違います。私はレティを、どちらかが相手をいじめたり、傷つけるような仲ではありません。レティと私は友達です。」
何を言い出すのだと、観客たちはさらにざわつく。
まさか魔女であることを肯定したばかりか、自分は王妃殿下と友達だと言い出した。王妃殿下の名前を愛称で呼び捨てにして。
観客すべてから送られる信じられないものを見る視線を送られる。しかしベアトリーチェは揺るがない。
「あの歌で、私の魔女の噂のことで、レティが傷ついてます。自分のせいで、私が悪く言われるのだと泣いていました…。」
ベアトリーチェは今まで悪い噂を流されても、自分が我慢すれば大丈夫なのだと思っていた。だから、レティシアが自分の立場を犠牲にしてまで噂を止めようとしたときも、それを止めた。
自分が我慢すれば、それですむことだとそう思っていた。
でも、それじゃあだめだった。
自分の悪い噂が流れることで、レティはずっと苦しんでいた。それだけじゃない。みんながあの歌を選んだ時も、何も言わなかったことで、マーサやルミが傷ついた。
何も言わなかったことで、自分だけじゃなく周りまでもがいつの間にか傷ついていた。
「だから、言います。疑われても、私の思う本当のことを。」
だから、ベアトリーチェは決めた。戦うことを。自分の悪い噂とも、周りから受ける誤解からも。
「レティは小さい頃、一人になった私に友達になってくれました。一緒に暮らしてくれて、一緒に学んでくれて、一緒に笑って、一緒に成長してくれました。ずっとずっと私を支えてくれました。後宮に入った時、私が彼女を嫉妬から遠ざけてしまったときも、レティは私をずっと思いやってくれました。」
もし昔のままの自分だったら、戦うことは無理だったかもしれない。
でも、後ろを見ると暖かく見守ってくれる仲間たちがいた。自分の音楽を褒めてくれる人たちと出会えた。ベアトリーチェだとわかっても、自分のことを応援してくれると言ってくれる人たちまでいた。
そこにはたしかに自分の場所があった。
だからもう怖いと思う事なんかない。
たとえ今言う事がすべて嘘だと思われても、怖気づいたりしない。諦めようとは思わない。
「レティは優しくて暖かな、私の大切な友達です。」
ベアトリーチェの声は、ホール全体へと強く強く響く。
「レティと私は一番の親友です。」
ベアトリーチェの言葉が響き、そして消えた後、観客たちは一言も発することができなかった。
ベアトリーチェの言葉をどう受け取ればいいのか。今までの思い込みから、真実となんて受け取ることはできない。しかし、嘘だと一笑するには、その言葉はあまりにも強く自分たちの心に差し込んでいた。
何もしゃべれない観客たちの中、一人の女性が立ち上がった。ローブで身を包み、顔を隠した女性。
その女性は立ち上がると、そのまま舞台の方へと駆け出した。茫然とその女性を見送った観客たちは、「あっ」と声を上げた。
走る勢いにローブが剥がれ落ち、銀色の髪が目の前に現れる。その姿は自分たちの知る王妃の姿。身分を隠しこのコンクールに来ていたレティシアだった。
「ビーチェさまっ!」
その女性は観客たちの中を、よろよろとつっかかりながら、必死にベアトリーチェのいる舞台を目指す。その目には涙が浮かび、叫ぶ声は涙声だった。
ベアトリーチェしか目にうつらず駆ける王妃の足取りは危なっかしい、それでも必死に舞台へとたどり着く。
「レティ!」
「ビーチェさまぁ!」
レティシアを見たベアトリーチェも、そちらへと駆け出す。そして二人はステージの上で抱き合った。
「ごめんね、レティ。辛い思いをさせちゃって。」
「違うんです、私に勇気が無かったから、ビーチェさまに苦しい思いをさせて…。それなのに、私何もできなくて…。」
皆が完璧な王妃だと信じていた少女は、魔女と呼ばれていた少女に抱きしめられぼろぼろと泣き出した。
「ううん、私も勇気が無かったんだと思う。でも、もう大丈夫だから。泣いたりしないで。」
仲睦まじく抱き合う王妃と魔女の姿。それは何よりも観客たちの目に、全ての真実を知らしめた。
***
舞台ではベアトリーチェたちの演奏がはじまっていた。
ベアトリーチェの言葉や、王妃の登場に一時は騒然となったホールだったが、ベアトリーチェに慰められたレティシアが落ち着き観客席に戻ると、自然と演奏がはじまり、誰もがその音楽に聞き入った。
コンクールに来ていた人間たちは、ベルが魔女なのかで対立しあい険悪な雰囲気だったことを忘れ、今はベアトリーチェたちの演奏を一緒に楽しんでいた。
数曲を弾き終わり、マーセルたちが一息つくと、大きな拍手が贈られる。
暖かい拍手を受けながら、ベアトリーチェはさっきまで美しい音を奏でていた銀の魔笛を胸に抱き思った。
後宮をでてマーセルたちと一緒に旅ができるようになったのは銀の魔笛のおかげだった。魔笛を演奏することで、いろんな人に出会い、いろんな体験をして、いまたくさんの応援してくれる人達を得ることができた。
全てに見捨てられたと思った時も、魔笛はずっと傍で自分を支えてくれた。
「アーサーさまは子どもの頃、私を助けてくれて、この銀の魔笛を授けてくれました。この魔笛があったおかげで、私はいろんな人に出会えて、今この場所にいます。アーサーさまがあの時助けてくれたから、私は生きていくことができました。」
アーサーさまが与えてくれたものは、ずっと私を守ってくれていた。
「思いは届かないこともあるかもしれません。一緒にはいられないかもしれません。それでも。今でもお慕いしています、アーサーさま。」
思い出せなかったアーサーさまの笑顔が、いまベアトリーチェの目に浮かんでいた。アーサーさま自身が隣にいなくても、アーサーさまがくれたものはずっと心の中にあったのだと、ベアトリーチェは思えた。
ベアトリーチェは微笑んだ。心の中にあるアーサーさまの笑顔に向かって。この音楽がアーサーさまへと届けばいいと思って。
***
コンサートホールの上階、カーテンで影になった場所、複数の騎士たちが待機していた。それらの中心に立つのは、団長であるグノーイ、そしてアーサーだった。
騎士たちが集まっていたのは、ベアトリーチェを連れ戻すためだった。
レティシアがベアトリーチェに告げた、アーサーが北国に行ったという話は事実だった。どんなに早く和平協定をすませても、帰るのは数週間後になるだろうというのも正しかった。しかしアーサーは、国家の秘密である転送魔法装置まで使ってこの国へと密かに帰還していたのだ。
それもすべてベアトリーチェを取り戻すため。騎士団をつれコンサートホールに息を忍ばせていた。
しかし準備は完璧だというところで、肝心のアーサーはベアトリーチェたちが奏でる舞台をずっと見続けていた。騎士たちに指令をだす様子はない。このままでは以前と同じように、邪魔が入り逃げられてしまうかもしれない。
舞台の上ではベアトリーチェが微笑み、楽しげに音楽を奏でている姿が見える。その美しい演奏は、ここにも届いてきていた。そしてあの言葉も…。
アーサーはじっとその舞台を見続けている。
「陛下?」
もう演奏は終盤になりかけている。なのに、アーサーは変わらず動く気配がない。疑問に思ったグノーイが、アーサーに声をかけた。
「もうよい。」
「は?」
アーサーの呟いた言葉が良く聞き取れず、グノーイは聞き返した。
「すまない。命令は全て取り消す。撤収だ。」
アーサーはそれだけを言うと、茫然とする騎士たちを置いて去って行った。
***
ベアトリーチェは一人、舞台の裏で涼んでいた。
演奏の後、エルサティーナをすぐに立つ予定だったベアトリーチェたちだったが、熱烈な歓迎に留められ、今夜まではこの国にいることになった。
音楽祭の夜には、多くの人がベアトリーチェへと好意の声をかけてくれた。もう、以前のように悪意の視線でベアトリーチェを見る者は、もうこの国にはいない。
すまなそうにしている人たちもいたが、ベアトリーチェの優しい笑顔にそのわだかまりも解けて無くなってしまった。
いろんな人たちに話しかけられ、人々の熱気に当てられたベアトリーチェは、仲間たちの手でちょっと避難させてもらい舞台の裏で休んでいた。持ってきたジュースを口に含んでいると、後ろに気配を感じた。
振り向くと、そこにはアーサーの姿があった。
「待ってくれ。逃げないでくれ。何もしない…。」
思わず立ち上がって、どうしようか迷う仕草を見せるベアトリーチェを、アーサーは引き留める。そしてベアトリーチェへと、気まずげな表情で目をそらしたまま言葉を繋ぐ。
「演奏を聴いた…。素晴らしい演奏だった。」
その言葉にベアトリーチェは逃げないことを決めた。
アーサーへとゆっくり近づいてほほ笑む。
「アーサーさまが、教えてくれたんですよ、魔笛の演奏。アーサーさまのくれた魔笛のおかげで、いろんな人と出会えて、友達ができて、今日たくさんの人に認めてもらうことができました。ぜんぶぜんぶ、アーサーさまのおかげです。」
ベアトリーチェが向ける曇りない笑顔を見て、アーサーは眩しそうに辛そうに顔をゆがめる。
「それは違う。仲間を得たのも、今日みんなを説得できたのも、お前自身の力だ。おまえ自身ががんばって、いろんなものを得たんだ。俺は何もしていない。むしろ邪魔してばかりだった…。」
「そんなことないです。アーサーさまは私にいろんなものをくれました。私はアーサーさまがいたから…。」
否定の言葉を言い募るベアトリーチェの言葉を、アーサーは首を振り止めた。
「アーサーさま…?」
そして理解できないように首を傾げるベアトリーチェに、アーサーはぎこちなく、でも優しく微笑んだ。
「今まですまなかった。ベア…。」
暖かい手の感触が、ベアトリーチェの髪を伝わった。ベアトリーチェの頭をひと撫でだけしたそれは、すぐに離れていく。それは子どもの頃、撫でてもらったときの手と同じで、ベアトリーチェの心に温かいぬくもりを呼び起こした。
振り返るベアトリーチェの瞳に、去っていくアーサーの背中が見えた。ベアトリーチェはまだ温もりの残る髪を押さえながら、その背中を見送った。
***
後日、ベアトリーチェが側妃から退位することが、正式に国から発表された。
廃妃ではなく名誉ある辞意として、それは執り行われることになった。ベアトリーチェの悪名は、公にも実質的にも払拭され、もう誰も彼女を悪くいうものはいない。
ベアトリーチェは晴れて自由の身となり、マーセル楽団の一員として自由に音楽活動をする身分を得た。