90.『その地へ』
馬車から降りると、広い街並みが見えた。
目に広がる、歴史ある大小の建物。たくさんの人々がひしめき合う活気ある大都市の風景。大陸でも1、2を争う大国エルサティーナ。
ベアトリーチェがこの景色を見るのは、4度目になる。
懐かしい、というにはあまりにも見た回数が少ない景色。でも知らないというには、深く心に刻み込まれた光景。
「ベル、だいじょうぶ?」
ルミの心配そうな声に、ベアトリーチェは振り返り笑顔で答えた。
「うん。大丈夫だよ。」
悲しい思い出がある場所。でも、今は傍にはマーセルたちがいる。ベアトリーチェはもう心の痛みを感じることは無かった。
「おい、あれ笛吹姫さまじゃないか?」
「うそ!どこどこ!」
ベアトリーチェたちがその場にとどまっていると、道を歩く人々がベアトリーチェの方を見て騒ぎ出した。
「本当だ!」
「きゃあー!マーセルさまもいるわ!」
騒ぎは徐々に大きくなっていこうとしている。
「おい…、早く宿に行こうぜ…。」
女性の黄色い悲鳴にあてられてげんなりしたマーセルが、ベアトリーチェたちをそうほどこす。
「こんにちは、みなさん。」
ベアトリーチェは集まった人々に、そう微笑みかけてからその場を歩き出した。微笑みかけられた人々は、嬉しそうにしながら歩き出すマーセルたちを見送る。
「あんたもベルを見習って少しは愛想よくしなよ。」
「俺にはあれは無理だ。」
「まあ、あたしらにもあそこまでは無理だね。」
マーセルたちの人気はどんどん上がり、全員にファンがつくまでになっていた。その中でもベアトリーチェのファンは度を越して多い。なのにベアトリーチェのファン捌きは見事なものだった。
話しかけてくる人々に笑顔で応対し、優しく言葉をかけていく。大変だと思うのだが、ベアトリーチェは苦にすることなく、みんなにそう接していく。
ファンはどんどん増えていくばかりだ。
そしてそういう振る舞いはベアトリーチェの素の部分からくるものだった。見習いたくても見習えない。そして女性ファンから逃げることの多いマーセルは、どちらかというと見習いたくなかった。
「ベルさまたちがこられているってことは、やっぱりコンクールにでるって噂は本当だったのか。」
「今年のコンクールがすごく楽しみだわ。」
エルサティーナの人々から熱烈な瞳に見送られながら、ベアトリーチェたちは道を歩いて行った。
***
ことのはじまりは、一か月前になる。
各国で演奏旅行を続けていたマーセルたちのもとに、レティから手紙が届いたのだ。
手紙には、もしかしたらエルサティーナのコンクールに、ベアトリーチェたちがでられるかもしれないということが書いてあった。
レティシアの働かきかけのおかげで、いろんな国を訪れ演奏をできるようになったベアトリーチェたちだが、エルサティーナだけには訪れることができなかった。さすがにエルサティーナの国内ともなれば、レティシアでもアーサーがベアトリーチェを捕まえるのを妨害するのが難しかった。
レティシアの手紙には、アーサーが北国の和平協定の仲介のために呼ばれたとかいてあった。長らく戦争を続けてきた北国同士が協定を結ぶには、権威を持った王の手助けが必要だった。アーサーがそれを引き受けることになったのだ。
そしてアーサーが国内から居なくなる時期は、調度エルサティーナで開かれるコンクールの時期と重なっていた。
その間なら、ベアトリーチェがエルサティーナに入っても捕まらないようにできるかもしれないとあった。
「無理することはないぞ。」
マーセルたちはベアトリーチェにそう言った。レティシアの手紙の中にも、そう書かれていた。
マーセルたちがエルサティーナを訪れないことは、ファンたちの間でも不審に思う声はある。でも、それがベルがベアトリーチェであるということに行き着く人間はいなかった。
マーセルたちはベアトリーチェに無理はしてほしくなかった。
「私でてみようと思うの。だめかな?」
でも、ベアトリーチェはそう答えた。
ベアトリーチェもマーセルたちと演奏活動するようになって、エルサティーナで開かれるそのコンクールがどれだけ演奏家たちにとって重要ものかわかるようになっていた。
できればマーセルたちに、コンクールに出場する機会を与えたかった。
それにたくさんの人が自分たちの演奏を聴きにきてくれている。その中にはエルサティーナからわざわざ遠くの国まで来てくれている人もいるのだ。
そう言う人たちのためにもエルサティーナで演奏をしたかった。
ベアトリーチェの言葉に仲間たちはしぶしぶ頷いた。ルミなんかは、最後までごねていたが…。
そしてベアトリーチェは、遂にエルサティーナを再び訪れた。
***
ベアトリーチェたちが宿を訪れると、宿の女の子が嬉しそうに声をあげた。
「わぁ、本当に笛吹姫さまだぁ!」
「こんにちは。」
目をきらきらさせて駆け寄ってくる女の子に、ベアトリーチェは笑顔で頭を撫でる。
「こら、失礼なことするんじゃない。すみません、礼儀のなってない娘で。」
宿屋の主人が申し訳なさそうな顔でベアトリーチェに謝る。
「気にしないでください。」
ベアトリーチェは笑顔のまま首を振る。それに宿屋の主人はほっとした顔をして言った。
「そうですか。それでは、お部屋までご案内します。」
案内された部屋で荷物をおろしたベアトリーチェたちが戻ってくると、泣いてだだをこねている女の子と、困り顔の主人がいた。
「笛吹姫さまたちの演奏聴きたいよお!」
「我慢しなさい。音楽祭が来ればちゃんと聞けるんだから。」
「まだ一週間もあるじゃない。待ちきれないよー!」
泣いてだだをこねる娘に、主人は困り切っていた。普段はわがままを言わない比較的素直な娘だっただけに、こういうときどうすればいいのかわからない。
「無理なものは無理なんだよ。諦めておくれ。」
マーセル楽団は貴族にもたくさんお呼ばれしている大人気の楽団だ。そんな有名楽団が、こんな小さな宿で演奏してくれるわけがないと思っていた。
「演奏しましょうか?」
そう後ろから声をかけられて主人は驚く。振り返って見ると、優しい顔をした笛吹姫と呼ばれる少女がいた。
「え、い、いいんですか…?」
驚いて言葉を詰まらせてしまう主人に、ベアトリーチェはあっさり頷く。
「大丈夫ですよ。ねぇ、マーセルさん。」
「ああ、どうせ練習はしなきゃいけないからな。」
ベアトリーチェに問いかけられたマーセルもあっさりと頷いてしまう。頼みもしないうちに演奏の承諾が取れてしまい、宿屋の主人は唖然とした顔になってしまう。
そんな主人を置いておいて、ベアトリーチェは涙を止めこちらを見上げてくる女の子にしゃがみ込むと優しく声をかける。
「演奏聞かせてあげるから、その前にお父さんのお手伝いしようね。そしたらご褒美に、君の好きな曲を弾いてあげる。」
「うん!」
そう言われた宿屋の娘は、ぴゅーっと走って宿の裏手にまわり進んで手伝いをはじめた。その姿をベアトリーチェは、笑顔で見送った。
がんばって手伝いを終えた女の子の前に、楽器を持ったベアトリーチェたちがいた。それを女の子は輝いた瞳で見つめている。女の子だけじゃなく、宿屋の主人や他の客、集まった人たち皆が同じような瞳でベアトリーチェたちを見ていた。
ベアトリーチェたちの演奏がはじまり、小さな宿に美しい音楽の音色が流れる。嬉しそうにそれを聞く客たちと同化したように、楽しそうに演奏するベアトリーチェたち。心地よい音楽の時間が流れていく。
演奏を終えたベアトリーチェは、一番前で聞いてた女の子に問いかける。
「どう?楽しかった?」
「うん!すっごく楽しかった!」
満面の笑顔になり女の子は頷く。
「私も素晴らしい演奏で、とても感動しました。ありがとうございます。」
主人までも興奮した様子で何度も頭をさげる。偶然、演奏を聴くことができた客たちも同じ気持ちだった。みんなから送られる暖かい拍手に、ベアトリーチェも笑顔で答えた。