87.『旅鳥 4』
「よし、それじゃあ脱出するぞ。」
三人が落ち着いたところで、マーセルが言った。
「脱出!?」
ルミが驚いた声をあげる。その声はさっきまで泣いていたせいか鼻声だった。
「ああ、ベルも一緒に旅を続けるにはそれしかねぇ。ベルはどうだ?」
聞かれたベアトリーチェは涙の止まった赤い目で頷く。
「うん、わたしもみんなと一緒にいたい。みんなで旅を続けたい。」
その答えにみんなが笑顔になる。
「でも、脱出するったってどうするんだ?屋敷のまわりは兵士がみまわりしてるぞ。」
ルモが困ったように言う。お忍びということで数自体は少ないが、屋敷の外には兵士たちが見張りをしているのが見えた。アーサーの命令を受けているなら彼らも、簡単には逃がしてくれないだろう。
諦めるつもりなんかないが、状況はかなり厳しい。全員が黙りこくる。その時、みんなの耳に高い声が響いた。
「大丈夫です。私がビーチェさまを逃してみせます。」
「レティ…?」
真剣な表情をしたレティシアがそこにいた。
「レイア、入ってきて。」
レティシアが呼びかけに、扉が開き懐かしい女騎士の姿が表われた。
「おひさしぶりです。ベアトリーチェさま。」
「レイアっ!元気だった?」
ベアトリーチェは驚きながらも、懐かしい再会を喜ぶ。レイアはベアトリーチェの姿を見て、一瞬申し訳なさそうな辛い影を見せたが、その笑顔に微笑みを返す。
「ええ、今は近衛騎士を辞して、王妃さま専属の騎士をしています。」
「私とレイアが警備を引きつけます。その隙に、ビーチェさまはお逃げください。」
ベアトリーチェとレティシアの瞳が会う。
「大丈夫なの?」
アーサーさまに逆らえば、レティシアの王妃としての立場が悪くならないだろうか。ベアトリーチェは心配そうに聞く。
「大丈夫です。ビーチェさまは必ず逃がしてみせます。」
レティシアの返答に、ベアトリーチェの答えて欲しい言葉は無かった。もう一度聞こうとするが、マーセルの言葉に遮られる。
「よし、街から脱出することを考えたらなるべく夜の方がいい。今からやろう。」
「わかりました。すぐに準備します。」
レティシアも頷いて、部屋を出ていってしまった。ベアトリーチェはその背中を不安そうに見送る。マーセルたちの脱出の準備が始まった。
***
「きゃああああ!」
突如響いた悲鳴に、兵士たちは驚いた。
「あれはなんだ!」
「王妃さまの部屋からだ!」
慌てた兵士たちは王妃の泊まる部屋へと向かう。駆け足でたどり着くが、いつも王妃を護衛している騎士の姿がない。あの悲鳴以来、部屋の内側からは何も聞こえてこない。
「どうする?」
「飛びこむぞ!」
本来、王妃の部屋に無断で入ることはあってはならないこと。だが、今は緊急事態だ。半ば突き破るつもりで、兵士は扉へと体をぶつける。扉はあっさりと開かれた。
勢いあまって部屋に数歩入ってから、あわてて部屋の中をみまわす。
「なんだ?どういうことだ?」
部屋の中は荒らされた様子も、異常なところも何もない。ただ、王妃の姿だけがない。
ガチャッ
そんな彼らの背中で、扉が閉まる音がした。驚いて振り向いた彼らの目に映ったのは、さらに驚くべき姿だった。
探していた王妃自身が閉まった扉の前で、自分たちの前に立ちふさがっていた。
「どういうことですか、王妃さま!」
戸惑う様子の兵士たちに、レティシアは厳しい表情で答えた。
「誰もこの部屋からでることを許しません。王妃の命令です。」
***
「いったい何が起こったんだ…。」
王妃の部屋に向かわなかった兵士たちは、不安そうに呟いた。部屋に向かった仲間たちからの連絡はない。一度響いた悲鳴も、もう聞こえてこない。
何が起こったのか不安だけをかきたてる。
そんな兵士たちの目の前に、ひとつの影が映った。
顔を布で覆った小柄な男が、屋敷の塀の上にいる。
「な、なにものだ!」
目があった瞬間、小柄な男は塀の上から降りて逃げ出した。
「奴が曲者に違いない!追え!」
残った兵士たちは持ち場を離れ、男を追いかけ始めた。男の服を身に着け、顔を隠したレイアは、その姿をみてにやりとわらった。
***
窓の開いたところから、小柄な黒猫がベアトリーチェたちの待機する部屋に入ってきた。黒猫は床に飛び降りると、人間の姿になる。
「兵士たちの姿はぜんぜんなかったよ。今なら逃げれると思う。」
黒猫は獣の姿になったルミだった。変身することが嫌いだったルミだったが、ベアトリーチェが逃げられるのを確実にするために、自ら進んで猫の姿になった。
「ありがとう。」
「ううん、気にしないで。」
ベアトリーチェからお礼を言われ、笑顔で首をふるルミ。ベアトリーチェの役に立てるなら、獣の姿になるのだって悪くない。
「それじゃあ、行くぞ。」
ベアトリーチェたちは荷物を持ち、ルドから教えてもらった屋敷の裏口からでる。そして夜の街を一気に駆けていく。
「もうすぐ馬車のとめてある場所だ。」
馬車にのってしまえば、街はすぐに抜けられる。アーサーたちが追ってくるのも難しくなる。脱出は成功だ、と思いかけていた。
「待て。」
走っていたマーセルたちの前に、一人の男が表われた。
「げっ…。」
「アーサー…さま…。」
アーサー自身が、マーセルたちの前に立ちふさがっていた。
「ベアは連れていかせない。」
「ふざけんな。ベアは俺たちと一緒に行きたがってんだよ。エルサティーナになんか帰りたくないって。」
マーセルの言葉に、アーサーは顔を歪めたが、すぐに無表情に戻す。そしてマーセルに向かって何かを投げつける。
カランッと固い音をたてて、それはマーセルの足元に転がった。
「剣…?」
鞘に収まった一振りの剣が、マーセルの前にあった。わけがわからず、マーセルはアーサーを見返す。
「ベアを連れて行きたいなら、俺を倒してからにしろ。見たところお前も貴族の出だ。剣ぐらいたしなんでいるだろう。」
そう言ってアーサーは、腰に差した剣を抜き去った。
「アーサーさま、やめてください!」
ベアトリーチェが驚いた表情で言う。しかしアーサーは聞く耳を持たず、マーセルへと斬りかかる。マーセルは慌てて、剣を拾いそれを受け止める。
「ぐっ…な、何考えてやがる…。。」
「ベアは渡さない…。」
アーサーはそう言いながら、マーセルに何度か斬撃を放つ。マーセルは慌ててそれを受け止める。マーセルはこんな無意味なことやめろと言いたかったが、アーサーは止まる気配がない。
アーサーの剣戟に防戦一方のマーセル。
「何してるの、マーセル!やっちゃえ!」
ルミがマーセルを応援する。レティシアの話を聞いたルミには、アーサーはベアトリーチェの敵だった。少々痛い目みてもらって構わないと思えた。
「っていってもな。こいつ国王だぞ!」
「安心しろ。この場で切り殺されても、おまえが罪に問われないようにすると誓おう。」
「そんなこと言ったってな!」
むやみに斬りつけるわけにはいかなかった。
そもそも最初の一撃は手加減していたのでなんとか防げたが、音楽学校出身のマーセルと、王として剣の訓練を受けてきたアーサーでは腕に差がある。まともにやっても、勝てるか怪しかった。
今も攻撃を防げているのは奇跡に近い。
「アーサーさま、やめてくださいっ!」
ベアトリーチェは泣きかけていた。アーサーが剣の刃を相手に向けてないのはわかった。それでも危ないことには変わりない。
アーサーもマーセルも大切な人間だった。こんなことで傷ついて欲しくなかった。
ちらっとベアトリーチェの泣き顔を目に収めたアーサー。剣を打ち合っているマーセルは、アーサーの太刀筋が鈍るのを感じた。しかしそれでも、アーサーに止まる気配はない。
「アーサーさま!」
アーサーはベアトリーチェを見ることをやめて、マーセルに集中する。その表情は苦しそうで、放たれる斬撃は鈍く、剣に不得手なマーセルでも十分に受け切れた。
何度か攻撃を受けたマーセルが距離をとり、アーサーを説得しようと口を開きかけたその時。
「やめてくださいって!言ってるでしょう!」
ゴスッ
鈍い音と共にアーサーの体が、マーセルから見て横に吹っ飛んで行った。マーセルは見た。涙目のベアトリーチェが、護身用の棒を思いっきりアーサーの顎に突き刺したのを。
ばたんと地面に倒れ伏すアーサー。倒れたままぴくりとも動かない。完全に気絶していた。
「やったぁ!ベル、すごーい!」
ルミがそれを見て純粋に喜ぶ。声にはださなかったものの他の女のメンバーたちも同じような表情をした。
「アーサーさまっ!」
気絶した。というか、自分で気絶させたアーサーの体を、ベアトリーチェは駆け寄りその体を抱き起す。アーサーに目覚める気配はなかった。
「アーサーさま…。」
ベアトリーチェは目を開かないアーサーの頭を自分の膝に置きそっと見つめる。その表情は心配そうで、ベアトリーチェがアーサーをまだ大切に思ってることが伝わってきた。
「なんであんなやつのこと…。」
ルモがその光景に悔しそうな顔で呟いた。
「確かに酷いことしたかもしれないけど、ベルにとってはきっとそれでも大切な人なんだよ。」
マーセルはそれに静かに答える。
ベアトリーチェはそのまま、しばらくの間アーサーの顔を見つめ続けた。目を閉じたままだけど、ちゃんと見れたのはずいぶんと久しぶりのことのように思えた。やっぱり少しやせて、目の下に隈ができている。昔のように笑えることは、少ないのかもしれない。
マーセルたちはアーサーの顔を見つめ続けるベアトリーチェの姿を何も言わず見守った。
ジャリッ
土を踏む音に振り返る。そこにいたのは、女騎士の姿。
「レイア…。」
レイアはベアトリーチェがきちんと逃げられたのか確認しにきたのだった。
「レイア、アーサーさまをお願い。私たち行かないと。」
「わかりました。」
ベアトリーチェはアーサーの頭を地面にやさしく横たえて、立ち上がった。そして仲間を振り返る。
「行こう、みんな。」
みんなはベアトリーチェの言葉に笑顔で頷く。
ベアトリーチェの乗った馬車は、夜のうちに街を出て、アーサーの手の元から旅立っていった。