83.『壁 5』
それから中止になってしまった演奏会は、マーセルが観客や主催者に謝ってまわりなんとか事なきを得た。魔笛の音が出なくなったベルは、体調を崩しベッドで寝込むことになった。
「ベル、気分はどう?」
ルミは暖かいスープをもって、ベルの泊まる部屋に入る。
「うん、大丈夫。ごめんね。」
ベアトリーチェの表情は暗かった。
演奏会が自分のせいで中止になってしまったことを、ベルはひどく気にしていた。
ベルが体調を崩し、その後の予定も白紙になってしまったことを知った時のベルの落ち込みようはひどかった。マーセルたちはそれが原因で謝ってまわったことも隠そうとしたが、聡いベルは調子が悪くてもそういうことには気づいてしまい、話を聞くと何度も何度も謝ってきた。
ルミたちは謝ってまわるのなんてなんでもなくて、そんなことよりベルに早く元気になってほしいと思ってるのに。
「気にしないで。暖かいスープ持ってきたから、これ食べて。」
「うん…。」
ベルがスープを受け取り口に入れるのを、ルミはほっとして見た。そしてベッドの脇に置いてある銀の魔笛に目がいく。ベルもその視線に気づいた。
「あっ…。」
ベルの手がスープをいったん横に置き、銀の魔笛を取る。
「音は大分でるようになったよ。」
そう言って弱々しげに微笑むと、魔笛を吹いて見せる。その音色は綺麗だけど、以前と比べるととても小さく弱々しかった。
「ごめんね、みんなに迷惑かけて…。私、体を直したら、がんばるから。本当に迷惑をかけてごめんなさい…」
「そんなのいいから、無理なんかしないで。」ルミはそう言いたかった。でも、今のベルにどう触れたらいいかわからなかった。
「ベル、本当に大丈夫なの…?無理してない?」
震えるようにベルに伸ばす言葉。
「うん、なんでもないから。今度はみんなの足をひっぱらないように、絶対にがんばるから。」
でも、その言葉は届かない。
「何でもないわけないじゃない!」そう叫びたかった。でも、ベルの悲しげな表情を見ると、そんなこと言えなかった。
だから、ルミは微笑んだ。切なさを胸のうちに隠して。
「そんなことより、まずは体調を治そう?ほら、スープもちゃんと食べて。」
そう言ってベルの手からスープの皿をとると、スプーンで掬いベルに差し出す。その手の先から、自分の想いが少しでもベルに届けばいいと願って。
***
マーセルは滞在している街をなんとはなしに歩き回っている。演奏の依頼は全部断ってしまったので、時間を持て余していた。
ベルが体調を崩したことから旅のペースは大分ゆっくりになっているものの、目的地への移動自体はやめていなかった。止めてしまえば、ベルはそのことも気に病んでしまうだろうと思ったからだ。
歩き回りながら考えるのは、ベルのことばかりだった。
「どうしたもんかなぁ…。」
今回のことで、あの曲が原因だということはほぼわかった。だが、あの曲が原因だとわかっても、どうすればいいのかまではわからない。
あの曲を演奏するのをやめてしまってもいいのか。
もし今、あの曲をやめると言い出せば、ベルはきっと自分のせいだと思ってさらに自分を責めるかもしれない。そしてベルが音楽を続けていく以上、今は避けられても、あの曲の問題は付きまとってくる。
でも、あの曲を弾くことが、魔笛の音を出せなくなるほど痛みを伴うものだというならば、さっさとやめさせてやりたいという心境でもある。
ベル自身はどう思っているのか。それも、ベル自身が心を隠しているせいでわからない。
わからないことだらけの堂々巡りだった。
夕陽に照らされた綺麗な街並みも目に入らず、うつむきながら歩き続ける。
「やあ、マーセルじゃないか!」
そんなマーセルに、いきなり声がかかった。驚いて顔をあげると、懐かしい友人の姿があった。
「ルドか!?久しぶりだな。どうしてここに。」
ルドはマーセルの音楽学校時代の同期だった。マーセルと同じく貴族出身でありながら音楽で身を立てて行こう志していた彼は、マーセルとよく気が合った。結局、彼は音楽の道を諦めてしまったが、その経験を行かし実力はあるのに埋もれている楽団を見つけだしては自ら援助したり、他の貴族に紹介したりしてるらしい。
その審美眼はいろんな人間から信頼され、かなり身分の高い貴族、時には王族からすら依頼を受けることがあるという。
「いや、ちょっと野暮用でね。それよりマーセル、噂は聞いたよ。ついにコンクールで優勝したそうじゃないか。君はいつかやると思っていたよ。」
「ああ、ありがとう。おまえも音楽を続けていたらな。」
懐かしい再会に、少し心が浮き立ち笑顔になる。
「はは、よしてくれ。僕は君を見て、演奏家を目指すのをあきらめたんだ。」
ルドは人好きのする笑顔を浮かべると、何かをひらめいたように手を打った。
「そうだ。君たちに演奏の依頼をできないかい?一週間後に予定があいてるなら、ぜひ僕の屋敷で演奏してほしいんだ。」
マーセルはそれを聞くと難しい表情になった。大分、音が戻ってきたとはいえ、ベルに演奏をさせていいものかわからなかった。
そんなマーセルの表情にルドも気付く。
「おや、どうしたんだい?何か困ったことがあるのかい?」
「いや、ちょっと仲間の一人がスランプというか、調子悪くてな…。」
ベアトリーチェの不調はスランプとはまた違うものだが、何も知らないルドにはそう説明するしかなかった。
一週間後なら、体調のほうは治ってるかもしれないが、根本的な問題が解決したわけではない。むしろそれについては、まったく見通しが立ってないと言った方がいい。
「そうか。それならむしろリハビリもかねて、僕のところで演奏してみたらどうかな?内々だけでやる小さな演奏会なんだ。あまり人も招かないし、多少失敗しても大丈夫だよ。」
そう言われてマーセルは考える。
ベルの不調は、ただのスランプではない。でも、だからといって今のまま手をこまねいていても解決する見込みはない。それに一緒に旅をしていく以上、いつかはベルも演奏をしなければいけなくなる。
そう考えると、ルドの申し出は調度良い機会なのかもしれない。
「曲目については、何か指定はあるか?」
「ああ、君たちの好きな曲で構わないよ。」
それを聞いて、マーセルは心を決めた。
「それじゃあ、演奏の依頼をうけることにするよ。よろしく頼む。」
それを聞いて、ルドはとても表情を明るくする。
「そうか、良かった!こちらこそよろしく頼むよ。噂の笛吹姫にもよろしくねっ。」
そう言ってウインクまでして見せるルドに、マーセルは苦笑した。その笛吹姫が今問題を抱えこんでしまっている当人なのだ。
「それから俺が決めた曲目を、お前からの依頼だということにしちまっていいか?」
別れ際マーセルは、そう付け加えた。
ルドはそれを聞いてちょっと不思議そうな顔をしたが、結局、笑顔で頷いた。
「それぐらい構わないよ。一週間後、僕の屋敷に来てくれ。場所はわかるよね。」
「ああ、大丈夫だ。」
「それじゃあ、また会おう。」
そうして二人はその場を別れた。