82.『壁 4』
ベアトリーチェはまわりの変化に気付いてなかった。
心を隠しながら、いつも通りに振る舞おうとするあまり、まわりに気を配る余裕を失っていた。あるいは信じたかったのかもしれない。まわりも自分もいつもどおりで、何も変わってないという願望を。
でも、結局、痛みを消し去ることはできない。どんなに願っても、あの痛みは曲を聴く度に、弾く度に、鮮明に胸によみがえってくる。
(もっとがんばらないと…。)
まわりに気を配る余裕がないベアトリーチェでも、演奏がおかしくなっているのには気づいていた。演奏を重ねるごとに自分の演奏だけでなく、マーセルたちの演奏にもゆがみが出てきていた。そしてベアトリーチェは、それが自分がいつも通りに吹けてないせいだと思った。
あの歌に触れる度、胸を苛む痛み。痛みを消し去ろうと曲と心を離して弾こうとしていた。でも、それじゃあだめだった。
痛いなんてもう言ってられない。痛くても苦しくても、いつも通りに弾かなければならない。それがマーセルさんたちに迷惑をかけない唯一の方法。
その夜の演奏会、ベアトリーチェは手に持った銀の魔笛を一心に見つめていた。そのよこではみんながベアトリーチェに心配げな視線を寄せている。そんな視線にもベアトリーチェは気付かない。
何曲か客の前で演奏し、ついにあの歌のところまでくる。
人気のある曲だけあって、観客の目もいっそう期待で輝いている。
魔笛を握るベアトリーチェの手に、ぐっと力が入る。
(今日こそ、ちゃんと吹いて見せる。)
ギターによる前奏が奏でられ、マーサの綺麗な歌声が詩を紡ぐ。その中で魔女ベアトリーチェが、レティシアを傷つける。
ズキッ
胸に痛みが走る。
それでもベアトリーチェは、魔笛の演奏に感情を篭める。まるであの歌が真実であるかのように、魔笛に息を吹き込みその音を奏でる。
心にあの後宮での記憶がよみがえってくる。
誰にも頼れるもののいなくなった孤独な記憶、あの後宮でひとりぼっちで過ごし続けた寂しい記憶、アーサーさまに少しでも会いたいと願った切ない記憶。
歌はアーサーさまとレティはお互いに惹かれあっていく様子を歌っていく。
痛みに心が悲鳴をあげる。それでもベアトリーチェは魔笛に息を吹き込み続ける。
フラッシュバックしていく記憶が、ベアトリーチェの心を再び傷つける。
レティを身勝手に恨んで一緒にいたくないと告げてしまった。誰よりも大切な友達だったのに傷つけた。自分のせいで、レティにまで辛い思いを背負わせた。
あのときだって、自分が我慢すれば良かったのに…。
心が痛い。でも、ベアトリーチェは魔笛を離さなかった。痛みが走るほどに、さらに曲に心を入れて音を紡いでいく。
曲が続くほどに、痛みも強さを増していく。悲しみが、後悔が、痛みが、苦しみが胸を苛む。
魔女ベアトリーチェは、心惹かれあうレティシアとアーサーを嫉み、レティシアにさらに酷い虐めをしようとする。
しかしそれはアーサーにより、看破され阻止される。
そしてレティシアとアーサーの気持ちは通じ合い、二人はついに結ばれた。高貴な血筋を引くとわかったレティシアは、アーサーの正妃としてみんなに歓迎され迎えられる。
そして魔女ベアトリーチェは、アーサーから見捨てられ後宮にひとり閉じ込められた。
ズキンッ
ベアトリーチェが力を籠めて、その部分を弾こうとしたとき、胸にひと際大きな痛みが走った。
目の前にあの光景がよみがえる。
自分を最後に冷たく見つめたアーサーさまの瞳。アーサーさまに嫌われた時の記憶。
走る痛みに、一瞬、頭の中が真っ白になった。
「ベル!?」
ルミの声にはっと気づく。
ざわつく観客たちも、マーセルたちも、戸惑ったようにこちらを見つめていた。そしてベアトリーチェも気付く。
魔笛から音が出ていない。
目を見開く。
ベアトリーチェは慌てて、もう一度魔笛に息を吹き込む。いつもなら綺麗な音色が流れてくるはずなのに、何もでてこない。
「なんで…。なんで…。」
焦るように同じことを繰り返すが、結果は一緒だった。マーセルたちも驚いた顔でベアトリーチェを見つめたままで、演奏は完全に止まっていた。
その中でベアトリーチェは手を震わせながら、何度も何度も鳴らない魔笛に息を吹き込み続ける。
いち早く立ち直ったマーセルが、観客たちに言う。
「申し訳ない、今日はこれで中止にさせてくれ。イレナ、ベルを頼む。」
マーセルに言われたイレナがベアトリーチェに近づいて、その肩を抱くと舞台裏に誘導する。
「とりあえず、楽屋に戻りましょ。」
ベアトリーチェは茫然としたまま魔笛を握り締めている。
ルミもベアトリーチェに駆け寄る。
「ベル、今日はもういいから戻ろう?ね?」
魔笛を握り続けるベルの手に手を重ね、そのまま楽屋まで手を引く。マーサたちに運ばれるように、ベアトリーチェは舞台を後にした。