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78.『姫と王子のものがたり 2』

 後宮で二組の母子が向き合っていた。

 どちらも同じ、この国の側妃、この国の姫同士。なのに、明らかに両者の立場は違っていた。不遜な態度で相手を見下す側妃に、ただひたすら相手を恐れ恐縮し続けているもう一人の側妃。

 立場が上らしき方の側妃の子どもが、頭を下げ続ける母親へ向かって何か言った。何かを言われた側妃はそれにこくこくと頷き、隣に立っていた我が子を蹴りつけ、そのまま地面に踏みつけた。その姿を見て、それを命じた子供とその母親が笑う。

 アゼルは自分の子どもを地面に踏みつけながら、それを命じた二人にこびへつらった笑みを浮かべる。

 アゼルはあれから後宮に閉じ込められていた。一度、側妃になったら立場上、簡単に出る事は許されない。寵愛のないアゼルは王と顔を合わせるのすら難しい。それは皮肉なことにアゼルを一番後宮から脱出することが難しい人間にしていた。

 後宮はアゼルにとって地獄だった。他の側妃がその気になれば、アゼルなど簡単に殺せてしまう。それこそ気まぐれにでも、戯れにでも、少し相手の気が向けば自分の命はないのだ。少しでも側妃たちの反感を買えば、待っているのは身の滅び。

 アゼルは自らの子どもを生け贄に捧げ、生き延びる道を選んだ。子どもまでもを生け贄に捧げて。

 相手の言われたとおりに子供を踏みつけ、逆らう意思のないことを見せ、悪趣味なその趣向を満足させそのご機嫌をとる。そうやって側妃とその子供たちに媚をうった。

「ベアトリーチェはほんとうにばかね。じぶんの母親にふみつけられても泣きもしないんだもん。」

「その通りでございます。本当に馬鹿な娘で、ミレーニャさまのような聡明な姫君とは大違いです。」

 アゼルは相手の側妃の娘、ミレーニャにまでおべっかを述べる。

 ミレーニャはベアトリーチェと一番歳の近い王女だった。だが、その立場はまったく違った。煌びやかに着飾る母親の横で、同じように自信にあふれた笑顔で笑うミレーニャ、一方、実の母親に泥だらけの地面にたたきつけられたままのベアトリーチェ。

 その母親のアゼルは、ベアトリーチェを踏みつけたまま、ミレーニャにおべっかを述べていく。

「こんなバカな子にかまってたら、わたしまでバカがうつっちゃいそう。もう行きましょう、お母さま。」

 地面に踏みつけられたベアトリーチェを見て、ミレーニャはくすくすと笑ったあと、自らの母親にそう言った。

「ええ、そうね。」

 母親もみじめな二人の姿を見て笑ったあと去っていく。

 その笑いは、娘の何倍もいやらしい意味が合いが込められている。ただ単純に地面に泥だらけで踏みつけられている子供の姿に笑っただけでない。そうまでして後宮で生き延びようとする哀れな女の姿をも笑っていた。

 それがわかっても、アゼルはどうする気もなかった。ただ相手の側妃の機嫌を損なわなかったことにほっとする。子どもから足をどけると抱き起すことすらせず、他の側妃に目をつけられないように足早に部屋へ戻る。

 地面に伏せていた子供は自分で起き上がり、その後ろをよろよろとした足取りでついていく。顔は泥だらけで、頬にできたすり傷から血がにじんでいた。

 ベアトリーチェは泣かなかった。大声で泣いて、側妃や娘の機嫌を損ねれば、母親の立場が悪くなることがわかっていたから。だから泣きもせず、ただ踏みつけられるままにじっとしていた。

 それはベアトリーチェの持つ優しさだった。でも母親からも誰からも優しさを受けたことのないベアトリーチェには、それがなんであるかすらわかっていなかった。

 アゼルはベアトリーチェを愛していなかった。だから、ベアトリーチェは一度も抱きしめられたことがない。それでもベアトリーチェは、アゼルを愛していた。ただ一人の自分の母親を…。

 そうしてベアトリーチェは、後宮のすみで誰からの愛も受けることなく生まれ落ちた。


***


 自分の子ども、人間としてのプライド、あらゆるものを犠牲にして生き残ろうとしたアゼル。

 だが、そんなあわれな努力も虚しく、ベアトリーチェが7歳のとき、重い病を患い床に伏せることになった。

 受けられた治療では回復の見込みがなく、寝たきりになったアゼルはどんどんと弱っていった。

 ベアトリーチェは王宮で教師たちの授業を受けた帰り、花を摘んでいた。

 姫とは名ばかりの立場のベアトリーチェだったが、一応の教育は受けさせてもらっていた。とはいっても、それはまともなものでは無かったが。

 少し年上のミレーニャと一緒にうける授業は、ベアトリーチェの歳では難しいものばかりだった。その上教師たちはベアトリーチェには一切まともに教えようとしない。何を答えてもけなされ怒られる。そして教師たちはベアトリーチェと比較して、ミレーニャを褒め称えそのご機嫌をとっていた。

 ベアトリーチェが褒められたことはただ一度も無かった。自分は何もできない子。それだけがベアトリーチェが教師たちから教えられたことだった。

 今日も散々怒られ、鞭で叩かれた帰り道、ベアトリーチェは花を摘む。

 かあさまのお見舞いをするために。

 後宮のすみにある部屋の扉を開けると、中から薬のすえた臭いがただよってくる。ベッドの上には、やせ衰えたベアトリーチェの母親がいた。

「かあさま、今日は花を持ってきたの。」

 幼い声でいたわるようにそう言ったベアトリーチェだったが、母親の返答は冷たかった。

「そんなもの持ってきてどうしようっていうのよ。私の病気が治るとでもいうの。」

 鼻で笑い馬鹿にするような目でみる母親に、ベアトリーチェは黙りこくる。自分には母親の病気を治す力はない。何もしてあげることができない。それはどうしようもない事実だった。それでも。

「…私、かあさまに笑って欲しくて。笑ったら少し気分も良くなると思うの。それで少しでもかあさまが幸せになれたら…。」

 だから花を見て病気の苦しみが少しでもやわらげばいいと思った。笑って少しでも元気になってほしいと思った。

 少女自身、生まれてから一度も笑ったことがないのに。

 バシンッ

 てのひらに痛みが走った。苦労して集めてきた花束が、床に無残に散らばる。ベアトリーチェの目に映ったのは、母親の睨みつけるような恐ろしい形相だった。

「誰のせいで笑えなくなったとおもうのよ!誰のせいで不幸になったと思うのよ!全部、あんたのせいなのよ!あんたができたから私は不幸になったの!

 あんたなんかに私を幸せにできるものですか!あんたに誰かを幸せにできるものですか!あんたが生まれてきたせいで、私はこんなにも不幸になったんだから!全部、全部、あんたのせいなんだから!あんたさえいなければ、あんたさえいなければ、私は幸せに生きられたのに!」

 延びてきた母親の手のひらがベアトリーチェの首を抱きしめ、病人とは思えない力で締め付ける。

 息苦しい。ベアトリーチェはそう感じた。けど、抵抗しなかった。それでかあさまが幸せになれるのなら、それでいいと思ったから。目の前の景色がどんどん薄れていき、意識が遠のいていく。

 だが、首にかけられた力が急に抜けた。もうろうと霞む視界の中、ベアトリーチェが見たのは倒れ伏した母親の体だった。

「かあさま…?かあさま…?」

 一言もしゃべらず、ぴくりとも動こうとしない母親の体。

「かあさま…。」

 ベアトリーチェは彼女の体をゆさぶり、反応がまったくないことに気付くと、部屋を飛び出した。医者を呼ぶために。


***


 その晩、アゼルは亡くなった。二度と意識を取り戻すことなく。

 葬式に立ち会ったのは、娘のベアトリーチェと仕事で参加した侍女たちのみだった。

 そうしてベアトリーチェは王宮で一人になった。

 葬式のときすら、ミレーニャのご機嫌取りの道具として授業を休むことすら許されなかったベアトリーチェは、誰も待つ人のいない帰り道をぽつぽつと歩く。

 『あなたは何もできない。』教師の言葉があたまに浮かぶ。『おまえは誰も幸せにできない。』母親の言葉が浮かぶ。

 なら、自分はなんのためにここにいるのだろう。

 かあさまは自分がいたせいで不幸になった。かあさまに何もしてあげることができなかった。首を絞められて、あのまま消えることすらしてあげられなかった。

 そうしてベアトリーチェはまだここにいる。

 なんのために…。なんで私は生まれてきてしまったの…。

 胸が痛かった。でも、自分の幸せも不幸も知らない少女は、それが何であるかすらわからない。自分が泣くことすら知らないから、涙もでてこない。

 生来の優しさが、周りの言葉が、心を切り裂く刃と化し、彼女の心をずたずたに切り裂いていく。

 やがて心が壊れていき、その痛みすら無くなって、心が死んで、そのまま空虚な人形になりかけていた。

 ガサッ

 歩いているベアトリーチェの目の前で、木が揺れる音がした。

「あれ、君は。」

 目の前に現れたのは、金色の髪と翡翠の瞳を持つ自分より大分年上の少年だった。


***


 ベアトリーチェはその少年のことを知っていた。

 アーサー殿下。大国エルサティーナから留学として、この国にやってきた第一王子。王宮でときどき見かけた彼のまわりには、いつもたくさんの人がいた。自分より遥かに立場が上で、光の照らされた場所にいる人。

「お初にお目にかかります、アーサーさま。フィラルド王国第四王女のベアトリーチェです。」

 ベアトリーチェは、非礼の無いように教わった通りの礼をした。

「ああ、そういう堅苦しいのはいいよ。」

「そうですか。すいません、失礼させていただきます。」

 「あなたは礼儀作法もろくにできないのだから、アーサーさまに近づいてはだめです。」教師たちからそうと言われていたベアトリーチェは、もう一度頭を下げてすぐにその場を去ろうとした。

「あ!待って!」

 しかしその手は、アーサーによって握られる。ベアトリーチェは、少し驚いて振り向いた。

「なんでしょうか…?」

 首をかしげる少女に、困ったようにアーサーは頭をかいた。

 実はアーサーもベアトリーチェを知っていた。王宮でたまに見かける、表情をまったく変えない小さな女の子。なんとなく気になって、周りに聞けば彼女の悪口ばかり聞かされた。感情も、心も無い、何もできない欠陥品の王女、そう言われていた。

 でもアーサーには彼女が泣いてるように見えたのだ。特に今日はひどく泣いているように。

 だからアーサーはベアトリーチェに話しかけた。なんとかしてあげられないだろうかと思って。しかし実際に話しかけてみると、なんと言えばいいのかわらかない。

 アーサーはふと、たまたま見かけた彼女の音楽の授業を思い出した。そしてあることをひらめいた。

「そうだ、これ吹いてみてよ。」

 そう言ってアーサーが手渡してきたのは、銀の魔笛だった。亡くなってしまった叔母から譲り受けたもので、自分自身は吹けないが、大切な形見なのでこの国にも持ってきていた。

「魔笛…。」

 ベアトリーチェは呟いて、首を振った。無理だ、自分には吹けない。音楽の授業でもそう教えられた。

「いいからいいから。」

 なのにアーサーはベアトリーチェにそれを半ば無理やり手渡してくる。ベアトリーチェは戸惑った。

 吹かなければ無礼になってしまうだろうか。

 仕方なくベアトリーチェは息を軽く吸い、魔笛に吹き込んだ。

 出てきたのは濁った汚い調子はずれの音。

 やはり無理だった。自分は何もできない。それは教師に教わった通りのことだった。

 なのにアーサーの反応は違った。

「凄いじゃないか!」

 輝くような笑顔でそう言って、ベアトリーチェの頭を撫でてくれた。

「えっ…?」

 わけのわからないという顔をするベアトリーチェにアーサーは言う。

「魔笛はね、特殊な魔力をもった人間にしか吹けないんだ。あれだけはっきり音がだせるってことは、凄いことなんだよ。この魔笛は君にあげるから練習してみなよ。きっとすぐに演奏できるようになるよ。」

「できる…?わたしにも…できますか…?」

 『何もできない。』そう言われてきた。『誰も幸せにできない。』かあさまに言われた。かあさまのために死んであげることすらできなかった。そんな私でも、何かできることがあるんですか…?

 誰かを幸せにすることができますか…?

 私はここにいてもいいんですか?

「ああ、絶対できるよ。」

 それはベアトリーチェにとって魔法の言葉だった。誰からも求められず、誰からも優しくされたことがなかったベアトリーチェが、初めてもらった暖かい言葉。それはベアトリーチェの壊れかけた心に、もう一度命を吹き込んでくれる。

 アーサーの笑顔が目に入った時、ベアトリーチェの双眸から滴がこぼれてきた。ぼろぼろと大粒の涙がベアトリーチェの両頬から落ちていく。

「あ、あれ?」

 なぐさめたつもりのアーサーは、相手を泣かせてしまってあせる。

「ごめんっ、悲しくさせちゃったかな?」

 アーサーはおろおろしながら、涙を流す少女に聞く。

 ベアトリーチェは首を振る。胸に灯っているのはたぶん悲しい気持ちではない。だってこんなにも暖かい。これは悲しみじゃない。それはわかる。

「きっと、嬉しいんだと…おもいます…。」

 ベアトリーチェはその胸に灯った感情を探りながら、アーサーに伝えた。アーサーはその言葉にほっとする。

「そうか。なら笑いなよ。嬉しいときは笑った方がいいよ。」

「笑う…?」

 ベアトリーチェはいままで笑ったことがなかった。だから、どんな風に表情を作ればいいのかわらかない。

 でも、不思議と今ならできる気がした。胸に宿った暖かさが、それを自分にもできると教えてくれていた。

「こう…ですか…?」

 涙の残る頬で、ぎこちない表情で、それでもベアトリーチェは生まれて初めて笑った。


***


 今日、ベアトリーチェとアーサーはピクニックにでかけていた。

 明るい光のさす丘でサンドイッチを食べながら、ベアトリーチェはアーサーに魔笛の演奏を聞かせる。

「ベアは演奏が本当に上手だなぁ。」

「えへへ、アーサーさまのおかげです。」

 褒めてくれるアーサーにベアトリーチェは笑顔を返す。

 あれから、ベアトリーチェは変わった。笑うようになった。泣くようになった。感情がないと言われた姫は、まわりが驚くほどその感情をしめすようになった。

 アーサーが傍にいるおかげで、待遇も改善されていった。彼女を虐げようとするものがいても、アーサーが守ってくれた。

 そしてベアトリーチェ自身も強くなった。アーサーがいないとき嫌がらせを受けても、ベアトリーチェは決して負けなかった。

 たくさん練習をして吹けるようになった魔笛をアーサーに聞かせながら、その横顔を見て思う。

 知ってますか?アーサーさま。

 全部、アーサーさまが教えてくれたんですよ。

 魔笛の演奏も、勉強も、馬の乗り方だって。

 握り締めた手のぬくもり、やわらかい草原で一日中かけて遊びまわること、ときにいたずらをしてしかられること。

 目にうつる景色を美しいと思う気持ち、そよぐ風が頬に当たる心地よさ、こんなにもおいしい食事があること。

 笑うこと、悲しむこと、怒ること。

 誰かを思ってこんなにも心が温かくなること。

 全部、アーサーがさまが私にくれたんです。

 アーサーさま、大好きです。

 だから、ずっとあなたのそばにいてもいいですか…?


***


 三年が経って、アーサーさまはエルサティーナにかえることになった。

 お別れのときは本当に悲しくって、泣きじゃくって、ほとんど何も覚えていない。でも、アーサーさまが傍にいなくても強く生きようと思った。例え一人になっても、昔のように周囲に負けたりはしない。

 アーサーさまがくれたものを無駄にしないために。

 もしまた奇跡が起きてアーサーさまの隣にいられることがあるなら、そのとき恥ずかしくない自分であれるように。


***


 ベアトリーチェはまだ暗い宿のベッドで起き上がった。

 何か夢を見ていた気がする。何か懐かしい夢を…。

「あれ…。」

 顔に触れると、濡れた滴の感触がした。

「なみだ…?」

 自分は泣いていたのだろうか。

 やっぱり夢の記憶は思い出せない。幸せな夢だった気がする。でも、悲しい夢だった気もする。

「何の夢だったんだろう…。」

 ベアトリーチェはポツリとつぶやいたが、その夢を思い出すことはできなかった。


***


 それは10年前の姫と王子のものがたり。

 たとえ、そのものがたりの結末が、決して幸せなものじゃなかったとしても…。あの日、心を与えられたお姫さまは、まだ王子さまのことを思い続けている…。



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