73.『秘密 3』
「ルミ、どこにいるの!」
ベルが自分を呼ぶ声が聞こえる。けど、ルミはベルの目の前に姿を現すことができずにいた。
かれこれ、もう二時間ほどの時が経っている。ベルに追いついたのはすぐだった。でもそれからは、自分を探すベルを目の前に何もできず、歩き回るベルを気付かれないようにつけまわすことしかできずにいた。
自分を探すベルの心配そうな表情。胸がずきりと痛む。
なのに体は、小さな身を隠した草の影から動き出せずにいる。
(怖い…。)
胸の中に残る暗い記憶。その感情がルミの心をしばりつけていた。
***
ルミがはじめて猫に変身してから、一週間ほどの時が経った。
人間の姿には半日ほどで戻ることができたが、いきなり猫の姿になってしまうこともある。慣れてないからのか、そういうものなのか、獣人について誰もわからないので解決策もない。
だからルミは両親に言われて、一週間ずっと部屋にこもっていた。
「あーあ、退屈だなぁ。」
外には出れないし、出る気もおきない。それでもやっぱり部屋の中にずっといるのは、活発な子どもであるルミにとっては退屈なことだった。
「じゃあ、ちょっとだけ外に出てみようぜ。」
そんなルミに、ルモが提案してくる。
「ええ、でも…。」
退屈だとは言ってみたものの、外に出るのはルミ自身怖かった。ためらうルミを安心させるように、ルモは笑いかける。
「家の周りをちょっとだけだよ。猫になっちゃったら俺が野良猫を捕まえたふりするからさ。」
どちらかというとしょっちゅう喧嘩することの多い姉弟だったが、ルミが獣人になってからはルモなりに気遣ってくれることが多くなっていた。獣人になってしまってひとつだけ良かったと思ったことは、強く家族の絆が感じられるようになったことだ。母からも感じたその暖かさに、ルミの恐怖心も少しやわらぐ。
「うん、じゃあちょっとだけ…。」
ルミははにかむと、ルモの手を取った。
「父ちゃんと母ちゃんには見つからないようにこっそりな。」
二人は廊下を忍び足で歩いていく。
そしてキッチンの前に差しかかった時、声が聞こえてきた。
「そうはいっても、このままルミを育てるのは難しいだろう。」
ルミもルモも立ち止まる。父とも母とも違う声。その声にルミもルモも聞き覚えがあった。この町の町長の声だった。そして弱々しい声で答えるのは、自分の父と母だった。
「はい、わかってます。でも、ルミは…。」
「確かに君たちの娘かもしれん。だが、獣人だったんだ。」
自分の話をしている。しかも町長には、自分が獣人であることがばらされている。
どくんっ。何故か心臓が嫌な音を立て、その場所から一歩も動けなくなる。ルモも一緒の状態のようだった。
お父さんもお母さんも泣きそうな声で話している。そんな二人に町長は宥めるようにおだやかな声で、しかしそれとは裏腹な強い言葉で二人を説き伏せる。
「この町は観光で栄えている。中には貴族の方も、避暑地として利用してくださって町に大きな収益をもたらしてくれる。それなのに町に獣人がいることがばれれば、悪評が流れ、誰もよりつかなくなってしまう。そうなれば、町は衰退の一途をたどるだろう。ルミのことは町全体の問題なのだよ。どんなに君たちががんばろうと、君の家族だけで被りきれる問題じゃない。」
「はい…。」
町長の言葉に父が呻くような声で頷く。町長の言葉に二人とも否定の言葉を漏らすことは無い。
「これは仕方のないことなんだ。君たちが悪いわけじゃない。娘が獣人に生まれてしまったそれだけだ。君たちもまだ若い。ルモだってまだいる。これからがある。私も君たちの未来に、出来る限りの協力をする。」
町長の真剣な言葉が、あたりに響く。
「町のためだ…。あの子を捨てる決心をしてくれ…。」
そして町長が最後に告げた言葉は、その場に重い沈黙をもたらした。ルミとルモも含めたその場の全員が、息の音すら立てない沈黙が続く。
そしてルミの耳に、母親の絞り出したような声が入ってきた。
「わかりました。あの子は、ルミは…、捨てることにします…。」
パキッ
ルミの心の中で、信じていたものが壊れていく。大丈夫と言ってくれた優しい声、暖かい手のぬくもり、家族の暖かさ。同時に、凍えるような冷たい風が胸に吹き込んできた。
「あの子の処分は、私が信頼できる人間に頼んでおこう。明日、迎えを寄こす。君たちは何もしなくていい。そうだ、明日はどこかに出かけると良い。その為の馬車の手配もしておこう。」
町長と両親が何か今後の話をしていたが、耳には入ってこなかった。
いつのまにか気が付くと部屋に戻ってきていた。ルモはどこにいってしまったのか部屋にはいない。でも、もうどうでもよかった。ただ、胸から入り込んでくる寒風に凍えるように、膝を抱え部屋の隅にうずくまる。そのまま死刑の執行を待つ虜囚のごとく、部屋の隅でじっと固まっていた。
それからどれくらいの時間が経ったのかわからない。
がさごそという音に顔を上げると、大きな袋を持っているルモが部屋の中のものをかたっぱしからその袋につめこんでいた。何をしているかわらかず、じっと姿をみているルミに袋にいろんなものを詰め終えたルモは、袋を握るのと逆の手でうずくまるルミの体を引っ張り上げる。
「行くぞ!」
「行くぞってどこへ?」
「出ていくんだ、この家を。」
「出ていくって…あたし、捨てられちゃうんだよ…。なんでそんな意味ないことを…。」
「違う。捨てられるんじゃない。俺たちがあいつらを捨てるんだ!」
見上げると涙を浮かべたルモの強い光が灯った瞳と目があった。
「捨てられるのはあたしだけだよ。ルモが出ていく必要ないじゃない。」
「うるさい!俺は父ちゃんや母ちゃんたちみたいに、絶対お前を見捨てたりなんかしない!行くぞ。この家を二人で出ていくんだ。」
小さな手から伝わるのは、暖かさじゃなく緊張に震える汗ばんだ冷たさ。
捨てられるのは自分だけ、ルモが巻き込まれる必要なんかない。でも。この手を離したら、本当に一人になる。そう思うと、離せなかった。
ルモはもう何も言わなかった。ただ同じく震える手が、自分の手を離さないのを見てその体をそっと引き上げる。
廊下を歩くと、ごちそうの匂いがした。ルミの好物の煮物の匂いだ。キッチンを横切るとき、目元を腫らしたお母さんが黙々と野菜を切っているのが横目に見えた。
何も言わず通り過ぎ、玄関の扉を静かに開ける。
外に広がるのは、既に日の落ちた暗闇の世界。怖気づくように二人は一瞬立ち止まったが、すぐにまた歩き始める。まだ何も見えない暗い森の方へと。
そうして二人は、今まで住んでいた平穏な家から旅立っていった。
***
自分を探すベルの顔には、明らかに疲れの表情が見て取れる。それでも一生懸命に、自分を探してくれるベルの姿。
それを森の木の陰から見守るってるだけのルミ。だが、その表情はベルと同じように辛い表情だった。
(ベル…お願い…もう戻ってよ…。)
そう思いながら、自分のそんな思考が心を痛くする。
ベルを信じれないの…?
本当は自分がベルの前に姿を現せばいいのだ。それで、解決することだ。なのに、自分は…。
ベルは優しい。誰よりも。そして信頼できる人だ。それはこの旅の中で、何よりも感じていること。暖かい微笑み、自分を本当に思ってくれる気遣い。少し抜けているところもあるけど、確かにある思いやりと強さ。
それに獣人を差別しない人たちがいることも知っている。マーセルたちとあった時、ルミは変身を制御できなかった。それでもマーセルたちは、自分を差別することなく、むしろ助けてくれた。
ベルだってきっと…。ううん、ベルならそんな理由で私のことを嫌うはずなんて絶対ない!
けど…。
(怖い…。)
あの時、ルミはお母さんの手の暖かさを信じていた。疑うことなんてなかった…。でも、それは裏切られた。捨てられた。
もし、ベルにも同じように嫌われたら。あの優しい笑顔が、嫌悪の表情に変わってしまったら。
そう思うと、体がガタガタ震えて、木の影から姿を現すことができなかった。ただ恐怖と嫌悪に身を包まれながら、ベルを見てるだけの時間が過ぎて行った。
ベルとルミが森に入ってから、随分と時間が経ってしまった。マーセルたちはまだベルを見つけられないでいる。何も目印のない森だ。一度、見失えば合流することは難しい。
そうしているうち、ベルの目線がある一点を見つめた。川沿いの足場の悪い岩場になっている場所。今日の川の流れは速く、ところどころ固い岩の角が突き出ている。バランスを崩したりしたら、大変なことになる。
「もしかしたらあそこにいるかも。怪我とかしていたら。」
(まさか。)
どうしても見つからないルミの姿に、ベルの思考が悪い方向に動いたのだろう。ベルはそちらの方に向かい始めてしまった。
ルミの背中に冷たい汗が流れる。
もし足場を滑らせて、ベルが怪我をしたら。川に転落してしまったら。私のせいで…。
(どうしよう。止めなきゃ。ベルが危ない。)
今すぐ走り出して行って、ベルを止めようと思う。
『あの子は、ルミは…、捨てることにします…。』
なのに、あの時のお母さんの言葉が脳裏に過ぎる。心の隙間にまだ残る冷たい風が、ルミの足を地面に縫い付ける。
動けないルミの瞳に、ベルの背中がどんどん遠ざかっていく。
***
ルミがいなくなったと聞いて森に飛び込んだものの、ベアトリーチェはその姿をまったく見つけられなかった。
時間だけが刻々と過ぎ、ベアトリーチェの心に焦りが募っていく。
森は広い、全てを探すことなんてできはしない。じゃあ、どうすれば見つけられるのだろう。
そんなベアトリーチェに瞳に、川沿いの岩場が映った。
「もしかしたらあそこにいるかも。怪我とかしていたら。」
大小の岩がゴツゴツしていて、川の流れが速く危険な場所だ。
普段は自分よりよっぽど、しっかりしているルミだ。それが見つからないとなると、何か理由があるはずだ。自主的にあんな場所に近づくとは思えない。けど、何かの理由であそこで怪我をして動けなくなっていたら。
あそこにいないならそれでいい。でも、怪我をしていたり危険な目にあってたりしたのなら、一刻を争う事態かもしれない。
いってみよう。そう考え、岩場へと足を進める。
近づいてみると岩は不安定で、遠目で見る以上に危険な場所だった。でも万が一ルミがここにいたら、それを考えるとベアトリーチェが足を止める理由はひとつもなかった。
ベルが足にぐっと力を入れ、岩場へと足を踏み出そうとしたとき。
ぐいっ
ベルのズボンのすそを何かが引っ張った。
それは小さな一匹の黒猫だった。ベアトリーチェのズボンのすそに噛みつき、必死で引っ張っている。その小さな体は震え、目じりは涙をこらえるように固く閉じている。
「…?」
その姿に気を取られ足を止めたベアトリーチェに、ズボンから口を離した黒猫は震える声で言った。
「ベル…、あたしここだよぉ…。ここにいるよぅ…。」
今にも消えてしまいそうな、小さな声。でも、ベアトリーチェにはそれがルミの声だったとはっきりわかった。
「ルミ、なの?」
「そうだよ…。あたし獣人だったの…。ベルにそれを知られたくなくて、だからベルの前に出てこれなくて…。ごめんねぇ、ごめんねぇ…。」
堪えていた涙が、ルミのダークブルーの瞳から零れ落ちる。
ベルに獣人とばれるのが嫌だった。ばれて嫌われるのが嫌だった。ずっと騙していたことを知られるのが嫌だった。でも、ベルが怪我してしまうのはもっと嫌だった。
泣きじゃくる黒猫を、ベアトリーチェは見つめた。
震える体で泣きじゃくるルミ。危険なところに足を踏み入れようとしてしまった自分を止めるために、見られるのが嫌だった黒猫の姿でも姿を現してくれた。
それはちょっとおませでいつも元気で、そして優しい心根を持っているベアトリーチェの知るルミの姿だった。
ベアトリーチェはルミを抱き上げその背中を撫でる。
「ごめんね…。気付いてあげられなくて。」
ルミの泣き顔に、どれだけ悩んでいたか、どれだけ苦しんでいたかわかった。ルミが今まで感じていた胸の痛みが伝わってきた。
だからそれを癒してあげたくて、体を優しく撫でる。
(あったかい…。)
やさしい心が穏やかになる手のひらのぬくもり。その温もりは、あの時感じたのと同じ。ルミは一度、その温もりに裏切られた。
(でも、信じるよ…。私はベルを信じる。)
一度裏切られたことがあるからといって、もう何も信じられないようになったわけじゃない。
また裏切られたっていいわけじゃない。嫌われていいなんてとても思えない。けど、信じる。ベルを信じる。そう、ルミは思えた。
ベアトリーチェから伝わるぬくもりが、ルミの心に吹き溜まっていた冷たい風を、暖かい風へと変えてくれる。
ルミが目を再び開けた時、黒い毛でおおわれていた両手は、元の小さな肌色の手に変わっていた。
「戻れた…。」
目をまるくするルミに、ベアトリーチェが微笑みかける。
「良かったね。」
ルミは頷きかけたが、少し考えて微妙そうな顔をした。
「うんー?別にいまとなってはどっちでもいいかも。今からマーセルたちのところに戻るんだよね。」
「うん。」
ベアトリーチェは不思議そうな顔をする。
「じゃあ、黒猫の姿の方が良かったかも。そっちのほうが歩くの早いし。」
前は獣人の姿になるのが嫌でたまらなかった。でも、ベルを信じられる今、もう変化することに嫌悪はない。
ルミは涙の残る目じりに、いつもの笑顔を浮かべて笑った。
「でも、暗いし黒猫の姿になったら、また見失っちゃうかも。」
そう言うベアトリーチェに、ルミがくすくす笑う。
「そうだね。ベルが迷子になったら困るから、人間の姿でいるね。」
「えええ…。」
ベアトリーチェはその切り返しに何か反論しようとしたが、自分がマーセルたちのもとを勝手に飛び出し、危険な岩場にまで足を踏み入れようとしたことを思い返すと何も言えなくなる。
「じゃあ、ベル、帰りましょ~。」
情けない顔をしたベルに、ルミはまたくすくすと笑い。その手を取って、先導しはじめる。そこにあるのは、いつも通りの二人の姿。
そうして二人は、歩き出した。暗い森を抜けて仲間のもとにもどるために。




