62.『ある夜の話』
「おい、もう明かりを消すぞ。」
眠そうな顔をしたマーセルがベルに声をかける。遅くまで音楽の本を読んでいるベアトリーチェに、熱心なのはいいことだと思いつつもあまりにも際限なくやろうとするので、マーセルはこうして適当な所で止めなければならなくなる。
「あ、ごめんなさい。」
ベルは、はっとした様子で本から顔をあげてマーセルに謝る。相当熱中していたのだろう。素直な性格のベルは、基本時間を守ろうとするのだけれど、今回みたいに新しい音楽の本をもらうと、どうにも夢中になってしまい、こうして夜遅くまで勉強をしたりする。
「音楽の勉強は楽しいか?」
「はい!すごく楽しいです!」
本当に嬉しそうな笑顔が、本人の気持ちを何よりも素直に伝えてくる。男装をして旅をしていた不思議な少女。音楽好きのようだが、出会ったころは音楽についての知識をぜんぜん持って無く、なのに誰もが驚くべき魔笛の演奏をして見せた。
マーセルも実は貴族の生まれである。それほど地位は高くないが。だから仲間には話してないがベルの立ち振る舞いの所作が、相当高貴な生まれのものであることに気づいていた。もしかしたら侯爵、いや公爵家にすら縁がある血筋かもしれない…。
だが、それならますますおかしい。貴族にとって音楽は大事な教養のひとつである。プロになるのは反対されてても、勉強することにそんなに不自由はしなかったはずだ。
お前はいったいどういう生まれなんだ。
疑問を口にしかけて、マーセルは思いとどまった。楽団にはいろんな事情を持つ人間が集まってくる。本人が何も言わない限り、決してそういうことは聞かないのがルールだ。
ベルの吹く誰をも引き込むような美しい魔笛の音色を思い出しながら、マーセルはその背中を見送った。
***
「ふわ~、眠いよ~。」
そんなことを思われているとはつゆ知らず、ベアトリーチェは眠そうな顔で小さなあくびをして馬車の中に入った。ずっと夢中になっていた分、一度われに返ると一気に眠気を自覚してしまった。
疲労のたまった目をこすりながら、馬車の中で横になっているみんなを避けて一番奥のスペースに行く。馬車の中は薄暗くて見えにくいのだけれど、ベアトリーチェにとってもここらへんは慣れたものだ。最初のころは危うく仲間を踏んでしまいそうになったり、バランスを崩して抱き着いたりするはめになっていたが、ベアトリーチェの体重は軽いのでそれほど大変なことにはならなかった。
「よいしょっ。」
ウッドの大きな体を乗り越えてたどり着いた、馬車の一番奥がベアトリーチェたちのスペースだ。たちと言う言葉通り、ルミとルモが寝ている。何気に寝相がわるいイレナを、対照的に寝相の良いウッドがガードする布陣で、子供用のスペースとして作られている。
最近になって子ども用のスペースだったと教えられたときはムっとなってマーセルに抗議しようとしたが、今までも寝ていてぴったりとベストフィットしていたのはどうしようもない事実だった。
壁にかかっている毛布をとり、ルミとルモの間に横になる。宮廷にすんでいたころのベッドとはまったく違う感触、あそこには柔らかなベッドと布団があった。でも、何故かいま自分を覆う毛布の感触のほうが心地よいのは何故だろう。
みんなの穏やかな寝息を聞きながら、ベアトリーチェも目を閉じ眠りの世界に引き込まれていった。
***
木の板がかすかに揺れる音を聞いて、ルミはぱちくりと目を覚ました。
ウッドが横たわるときとは違うかすかな音。それなのに、はっきりと意識は戻る。横を見ると、いつもどおりベルが寝ている。
音楽の勉強をして夜更かしするベルを待っていると、まだ子供のルミは自然と寝てしまうことが多い。そしてベルが戻ってきて横になる音で目を覚ますのだ。
ルミはそーっと自分の毛布から出ると、ベルに抱き着く。
ふわっと花のような香りが鼻腔をくすぐる。暖かくて柔らかい体は、ルミに心地よさと安心感を与えてくれる。
「ふふ~。」
ルミはそのまま満足げな顔をして眠りにつく。
しかし…。
「んんっ!?」
感覚では数刻ほど経ったころか、何か違ってきた感覚がして目を開けると、何故か間にルモが挟まっていた。ベルの柔らかい体の感触と香りは、ルモに阻まれてうまく届いてこない。
反対側に寝ていたはずの双子の弟は、ルミの確保したはずの位置を奪って呑気そうにねていた。
「むー!」
眉を吊り上げたルミは、ドンッとルモを押しのけてベルの一番近くを確保する。ベアトリーチェの寝顔は穏やかなままで気付いた様子はない。すやすやと寝息をたてる綺麗な顔を確認したあと、ルミは思いっきりベルに抱き着き再び眠りの世界に旅立った。
***
「あぎゃっ。」
暗い馬車の中に小さな悲鳴があがる。マーサの声だ。
「いだーい…。」
痛みの走る鼻を押さえて目じりに涙のたまった目を開けると、目に映ったのはほっそりとした小さな足。その足が伸びた先にいるのは、とんでもない恰好で眠っているイレナの姿だった…。
「確かあたしと同じ向きで眠ってたはずなのに…。」
大人の女性という外見に反していつも酷いと言えるイレナの寝相だが、今日は特にひどい。
上半身を起こして鼻をおさえる。痛みはすぐに治まったとはいえ、もう一度安心して眠れるような気分ではなかった。ふと、目をむけるとウッドの体に阻まれた先に、ベアトリーチェたちの眠っているスペースが見える。
まだ子供のルミとルモ、そしてかなり小柄なベル、まだ自分が入れるほどのスペースはありそうだ。
のそりと起き上がり、ウッドの体を飛び越えて、ベルたちの膝元までくる。そして…。
「ちょっとごめんね~。」
ベアトリーチェの体を動かしてスペースを開けると、自らの体をその開いた空間に横たえた。
***
ルミがまたも感じた違和感に目を開けると、目の前に大きな壁があった。
いや、比喩ではあるが、まだ小さな子どものルミにとって、女性としても背の高い方であるマーサの体は壁のようにみえたのだ。
「んなっ。なんでよ!」
ルミが上半身を起こすと、何故か自分とベルの間にマーサが挟まっている。いつもは向こうで寝ているはずなのに、いったい何故ここにいるのか。
「ちょっと!マーサの寝る場所ここじゃないでしょ!」
ぽかぽかと肩をたたいても、安心した顔で熟睡していて起きる気配はない。ベルの体の感触は、その体で遮られた先にある。
「ぬぬぬぬ!」
業を煮やしたルミは立ち上がり、マーサの体を掴み引っ張り上げようとした。しかし子供の体力では、まったく持ち上がらない。
「んー!」
思いっきり力を入れて、体を傾けるとわずに体が動いた。
「はぁはぁ…。」
しかし体力の消耗も大きい。数センチしか動いてないのに、ルミの息は荒くなっていた。しかしそれでも諦めない。
「んしょっ!んんー!」
何度か休憩しながら、マーサの体を少しづつ少しづつずらしていく。そして。
「や、やったぁ…。」
なんとか自分が入り込めるだけのスペースを確保したルミ。その頃には、ぜぇぜぇと息は完全に上がって汗をかいていた。
しかし満足げな笑みを浮かべると、思いっきり何とか確保したスペースに滑り込む。再びもどってきた柔らかい感触といい匂いに、さっき動いた疲労も癒される気がしてルミはすぐに眠りについた。
***
ガシッ
そんな感じの感触がしてルミはまたまた目を覚ました。よくわからない状況に身をよじるが、何故か体がうまく動かせない。視線の先にあるベルの体からは30㎝ほど引き離されてる。
「なにぃ…これ…。」
下を向いて自分の体を確認すると、上半身が誰かの腕で拘束されていた。首を動かして後ろを向く。
「なんで~!」
何故かそこにいたのはイレナだった。どうしてこっちに来たのかはしらないが、その様子はどうみても熟睡している。まさか寝たままウッドを乗り越えてこっちにきたのだろうか。寝相が悪いとしても、それはさすがにありえないことのように感じるけど。
とにかく今の問題はイレナにがっしり掴まれていて、ベルから引き離されていることだ。右腕から上半身が体の上に乗っかっていて動けない。手も拘束されていてうまく伸ばせず、ベルの体には届かない。
これはもうあきらめるしかないように思えた。
「ふぬー!」
もうこうなれば意地である。
ルミは歯を食いしばって乗っかっているイレナごと体をベルのほうに向かって動かす。子どもの力ではふつう動かせないように思えるが、火事場の馬鹿力というやつかもしれない。
「あとちょっと…。」
ベルの体まであと10センチというところへ来た、その時。
「うーん。」
イレナの背後で眠っていたマーサが寝返りをうつ。
「うぐっ。」
何故かイレナの上にさらに腕がのっかって、体にかかる重みが増す。
「待てよー。ベルー。」
ガシッ、と寝ぼけたルモに足を掴まれる。動き難さがさっきよりも増してしまった。
「くー、わざとやってるのぉ!」
涙目になって手をわたわた動かすが届かない。でも、ここまで来たのだ。絶対あきらめない。
「にゃああああ!」
うまく動けない体をよじらせて、地面にうつぶせになる。そして思いっきり全身をつかって地面を押す。動け、動け、そんな純粋な願いが心を走る。
目に映るのはベルの姿のみ。
ぐぐぐぐ
奇跡が起きた。
のしかかったマーサたちと共にルミの小さな体が少し持ち上がる。
「えーい!」
そしてそのままの勢いで、ルミはベルの体へ飛び込んだ。
どすっ
そんな音と共に、柔らかな体の感触といい匂いがルミの元に戻ってくる。
「やったぁ…。」
ほとんど力を使い果たしたルミはそのまますぐに眠りに落ちた。
***
朝、ウッドが起きると青い顔をしたベルが天井をみあげていた。
ウッドが起きたのを発見すると、涙目になった瞳を向けてか細い声で呟いた。
「ウッドさん…助けて…。」
ベルの体の上には、ルミとイレナ、マーサ、ルモという順に何故か四人も乗っかっていた。イレナとマーサは上になってるのは一部分だけとはいえ、ベルより体は大きい。ベルの表情はぐえっとなっていて、とても苦しそうだった。
それでも4人を起こさないように気をつかってるのか、助けを呼ぶ声は小さい。
ウッドはベルの脇に手をいれひょいっと持ち上げてやる。ベルの体にしがみついていたルミとルモがずるずると脱落していく。4人は地面に捨て置かれたが起きる気配はない。
「なにしてる。」
「私にもさっぱりです…。」
ウッドの単純な疑問に、息苦しさから涙を浮かべた目じりて答えたベルは、そのままぐでーっとウッドの腕にぶら下がるようにして倒れた。




