56.『国境』
アルガの街を抜けたベアトリーチェたちは、しばらく馬車で旅を続けていた。
「この曲の15小節目のピウ・モッソの意味はなんだ?」
「えっと…。主人公を捕まえようとする追手たちから逃れようとする様子を、それまでより早く弾くことで表します。」
「完璧じゃないかい。よく短い期間でこれだけ覚えたねぇ。」
マーセルの出した問題に答えたベアトリーチェを、イレナが褒める。
旅の間もマーセルはベアトリーチェに音楽を教えてくれた。それはベアトリーチェにとって至福の時間だった。いままで習うことが叶わなかった音楽についてのいろんな知識。それに毎日触れることができる。
演奏は出来ても音楽についてはほとんど知識の無かったベアトリーチェは、マーセルに教えられることを水を吸う綿のように吸収していった。
「ベルは凄いね。まだ習って一週間も経ってないのに。」
マーサもイレナに賛同してベアトリーチェを褒める。
「ふん、まだまだだ。今までが知識がなさすぎたし、ようやく人並みになっただけだ。それに覚えているだけじゃだめだ。実際に演奏に反映できないとな。」
マーセルはいつものように厳しい意見を言う。でもベアトリーチェには、それが思いやりから来るものだとわかっていた。
「はい、がんばります。」
だから自然と笑顔で返事をする。
「それじゃあ、実際弾いてみようよ。」
「うんうん、私もベルの演奏聞きたい~。」
「ええっ!?」
マーサとルミがベアの演奏を聴きたいと騒ぎ出す。ベアトリーチェは驚いていると、マーセルも珍しく賛同した。
「そうだな。実際に弾いてみるといい。ほら、楽譜を見て教えたことを思い出して弾いてみろ。」
さっき教えていもらった楽譜が、ベアトリーチェに手渡される。辺りを見回すと、ルミもルモも、マーサもイレナもウッドも座って自分を楽しそうにみている。みんな観戦ムードだ。
なんでだろう。食堂ではろくな経験もなしに飛び入りしてしまったのに、こう改めて見られると恥ずかしいかもしれない。
そういえば城を出る前までは自分が魔笛の演奏を聞かせたことがあるのは、アーサーさまとレティの二人だけだった。二人のことを思いだし、少し胸がズキンと痛んだ。あんな事件の後で大変だったかもしれない。特にレティは自分がいなくなったことで落ち込んでるかもしれない。出来ればそれでも、二人には早く立ち直って笑って暮らしてほしいと思う。自分はその場所にいなく、遠く離れる選択をしてしまっても。
少し思考の海に落ちたベアトリーチェだったが、目を上げると仲間たちの笑顔が映った。城を出たら一人で生きていくのだと思った。ずっと一人で…。でも、一時の間でも一緒にいられる仲間ができた。
だからたぶん、レティも立ち直れるはず。フレミやカーラ、それにレイアがきっと支えてくれてる。
「それじゃあ吹くね。」
「うん!」
ベアトリーチェは息を吸い込み、魔笛へと命を吹き込んでいく。馬車の中に、ベアトリーチェの独奏が流れていく。
最初はアダージュでゆるやかに、それからグラーヴェで重々しく沈み、さらにピウ・モッソで速く焦りをましていく。でもそれはだんだんと和らいでいき、明るくいきいきとした旋律に変わる。
ルミもマーサもその演奏の美しさに、感心したように溜息をはいた。
まだ曲の解釈にぎこちなさは残るものの、それはベアトリーチェの演奏がひとつ成長しはじめた証だった。趣味で弾くだけだった音楽から、ちゃんとした演奏へと。
演奏を終えると、ぱちぱちとみんな拍手をした。マーセルも珍しく少し笑って拍手をしていた。
「ありがとう。」
楽譜も見ずに知っている音楽を、なんとなく弾いているだけだった自分。それがこの短い期間で、もっと音楽はいろんなもので出来ていると教えて貰った。それはたぶん、城にそのままいたら知ることができなかったこと。
失ったものは大きいけど、そのかわり自分の手には光り輝くいろんな欠片が入ってきた。初めて手にした演奏での銀貨、新しい友達たちの手のぬくもり、知りえなかった音楽の知識。
「もうすぐ国境付近だね。」
イレナが馬車の外を見ていった。
「国境?」
「そうさ。あと10分もしたらエルサティーナをでてラフルドに入る。アルセーナはまだ遠いけどね。」
ベアトリーチェも外を見た。あたりは森の景色でわからないが、もうすぐ自分はエルサティーナを出る。狭い後宮しか知らなかったが、それでも3年間暮らした国。大切な人たちを残してきた国。
たぶん国境を抜けたら、万が一、連れ戻される可能性ももう無くなるだろう。
さよなら、レティ、アーサーさま。
アーサーさまの笑顔は思い出せない。レティの顔はあのときのように沈んだ悲しい顔のままだ。胸の痛みは消えないけれど、それでもあの傷ついたときより心は力を取り戻していた。
ベアトリーチェを乗せた馬車は国境を越え、本当にエルサティーナから旅立った。