44.『愚か 3』
レティシアからベアトリーチェについて、悪い噂が流れていると聞かされた。
好都合だと思った。悪い噂が流れれば彼女に近づく人間もいなくなる。ずっと後宮に閉じ込めておける。
どんな噂か確認もせずに。彼女の苦痛など思いやることもできずに。
自分のしていることから目を逸らしたまま、想いはだんだんと歪んでいく。自覚もないままに。
その日は珍しくレティシアと会話をした。いや、何度も話したことはあるが、あくまでも王と王妃として話しただけだった。
ベアトリーチェについて話すと不思議と会話が弾み、彼女と二人で過ごしたころの懐かしい暖かさが胸によみがえってきた。
しかしその思いはすぐに凍りつく。
レティシアと別れたとき見つけた、少女の後ろ姿。蜂蜜色の髪、小柄で華奢な体。間違いようもないベアトリーチェの姿。
何故、後宮から出てきている。
しかも彼女は手を握られ、兵士の姿の男と会話を交わしている。
頬から嫌な汗が噴き出る。まさか思いを交わす男ができ、王宮を抜け出しその男と会っていたのか。
「ベアトリーチェ!そこで何をしている。」
冷たい声が口からでた。
ベアトリーチェが振り向き、こちらを恐れるようにびくりと震える。彼女との間にあったはずの温かい信頼はもう見えない。胸が暗い感情で乱れていく。
幸いにして男はベアトリーチェと初対面だったらしい。だが、男が漏らしたつぶやきが耳にはいる。
「こんなに可愛い娘が…。」
ベアトリーチェは自覚があまりないが、十二分に容姿にすぐれた少女だった。美しいというより可愛いといった印象だが、ちゃんとした格好をすれば美姫に数えられる。
やはり彼女を外に出すのは危険だ。誰が彼女を奪おうとするかわからない。
アーサーは後宮の兵士たちに伝え、彼女を外にださないように強く命じた。顔を覚えさせるために写真を与えたが、決して外部には漏らさないように厳命した。
アーサーがベアトリーチェの想いを自覚しはじめたとき、それは既に歪み切っていた。
***
ベアトリーチェの誕生日に、アーサーはプレゼントを用意した。彼女に似合いそうな白い清純な色のリボン。
しかし自分からのプレゼントを受け取ってもらえるか不安になった。そして、レティシアに頼み連名として送ってもらうことにした。仲の良いレティシアとのプレゼントなら彼女も拒絶することはないだろうと。
プレゼントを贈った日から、後宮に訪れベアトリーチェの様子を見た。しかし、彼女は一度もリボンをつけたりはしなかった。
それはベアトリーチェのアーサーへの拒絶に見えた。
アーサーは暗い絶望を抱いた。自分を信頼し見つめていてくれた少女との間に、今は飛び越えようのない深い溝ができているように感じた。
最初にあった彼女を幸せにしたいという想いが、いつの間にか身勝手な執着へと変わり果てていたことに気付いていなかった。
それから誕生祭の準備に追われ、しばらくベアトリーチェの姿を見れない日が続いた。側妃たちの誕生祭への参加も問われた。ベアトリーチェも参加させるか問われたが、そんなもの許容できるはずがなかった。出来うる限り誰の目にも触れさせるつもりはなかった。
無自覚のまま肥大化し歪んだ愛の前に、彼女の幸せということは頭を過ぎらない。
ただ心の中は空虚さがつねに鎮座し、それをわずかにでも埋めるためベアトリーチェの残り香をもったレティシアと過ごすことが多くなった。
誕生祭の休憩で、レティシアからカンティアの花を渡されたとき、思い出したのはベアトリーチェのことだった。フィラルドで二人ですごした思い出。
それは今では遠い夢のことのようだった。
「なんで…。」
夢の中の少女の悲しい声が耳にはいり、続いてレティシアの「ビーチェさま!」という声が聞こえて我に返る。
振り返ったときには二人の背中は遠くにあった。
アーサーは動揺した気持ちを抑えるように、心の中で呟き自嘲した。
今更レティシアと一緒にいるところを見られたぐらいで何がある。自分は彼女を裏切り続けてきた。
それでも抑えられない胸の疼きを、レティシアがいなくなり増えた誕生祭の政務をこなすことでごまかした。
***
時間ができたアーサーは連日、後宮へと訪れた。しかしベアトリーチェは姿を見せない。
もしや病気にでも罹ってしまったのだろうか。胸騒ぎがしたアーサーはベアトリーチェの部屋を訪れる決心をした。もしかしたら、元のような関係を取り戻せないかと願って。
ベアトリーチェの部屋へと行き、唾をのみ込み、緊張を抑え扉をノックする。
「ベア…いるのか?開けてくれないか?」
懐かしい、愛称を呼び彼女によびかける。
返事はなかった。
「ベア…。いたら返事をしてくれ。」
アーサーは再び呼びかけた。祈るように。
返事はない。
しかし耳は聞いてしまった。
ベアトリーチェの気配を伝える、かすかな物音を。ベアトリーチェは中にいた。
「ベア、いるのだろう。話したいことがあるのだ。開けてくれないか。」
話したい要件なんてありはしなかった。いや、要件なんてなくても、二人で話して笑いあえたころに戻りたかったのかもしれない。
だが、彼女が答えてくれることは無かった。彼女の侍女たちも、国王の訪れに答えることは無い。ベアトリーチェに命じられたからだろうか。
これほどまで嫌われていたのか。
アーサーは何も答えない扉の前で俯き絶望した。
絶望はさらにアーサーの想いを歪ませていく。
いや、大丈夫だ。彼女は私の側妃だ。この後宮を出ることはできない。たとえ彼女が私を嫌ってたのだとしても、彼女に逃れるすべはない。ベアはずっとずっと私のものだ。
愛しい小鳥を閉じ込めた檻を見て、王は悲しく笑った。
自らがベアトリーチェの傍にいない矛盾から目を逸らし。彼女の幸せにしたいという願いを忘れ。
小鳥が羽ばたいていくのを阻む檻などどこにも無く、その小鳥が自分のことを想いこの場所に留まったことなど、気づけもしないまま。