35.『いつだって。』
「私についてきて。」
そう言った走り出した女をレイアは見つめた。ベアトリーチェ、その名前は国王、王妃に並び有名だ。レティシアさまをいじめ、後宮に閉じ込められた魔女。
なのにこの女はいまレティシアさまを救うために力を貸せといった。
砦に近づいてきたので、二人は息をひそめる。暗闇の中、傭兵たちの気配を探り進んでいく。
噂ではとてつもなく醜い女だといわれていた。しかし、実際に目にした女は可愛らしい容姿をした普通の少女だった。その容貌は幼げな雰囲気があるものの、十分美姫と呼ばれるに値する。
何故ついていくことにしたのだろう。レイアは自問自答した。
彼女には疑うべき要素の方が多い。その人物にしても評判にしてもそうだし、レティシアさまやアーサーさまに恨みをもっていると考えた方がいい。レティシアさまが消えたのも後宮だという。カルザスたちに協力していると考えた方が自然だった。
それでも彼女の強い意志を持った瞳。それが自分の心を動かしたのだろうか。
もちろん、今もなおレイアはベアトリーチェを疑っていた。何かおかしな行動をしたら、即座に斬り捨てるつもりでいる。ベアトリーチェの背後を走り、常にその動きを見張った。
しかし、ベアトリーチェはそんなレイアの様子を気にした様子も無く、砦にむかってひたすら走って行く。
「ここよ。」
ベアトリーチェが立ち止った場所は、一面壁になった場所だった。どこにも彼女いうような隠し通路があるようには見えない。
「ちょっと待っててね。」
そういうとベアトリーチェは、壁に手をつきくぼみを利用してするすると上って行った。そして壁のある場所に触れると小さな扉が開き、穴の中に入って行く。
こちらに向きを変えて手を差し出す。
「あなたも早く上って。」
レイアは呆気にとられた。砦の構造からして上りやすいように作ってあったのだろう。だが、普通の貴族の令嬢ならば、壁伝いに上ったりしないし、できるはずもない。青いドレスに身を包んだ少女は、傍目から見ればそういう貴族の少女に見える。なのにその手並みはやけに鮮やかだった。
そもそも貴族である少女が、自分が逃げ出せたからといって王妃を助け出そうと戻ったりするだろうか。他の人間に助けを求めた後、安全な場所でふるえているのがせいぜいなのではないだろうか。
噂とは違うベアトリーチェという女の姿。しかし普通の貴族の令嬢として見ても、その行動はあまりにも型破りだった。
「まず、レティを探して助け出さないと。」
狭い通路を屈みながら進む二人。それを先導するのは、騎士の自分ではなく、ひとりの少女。確かフィラルド王国の姫君だったという話。
レイアが実際目にしたベアトリーチェは、魔女とも、お姫さまとも、まったく違う少女だった。
***
レティシアが部屋に軟禁されてから、何時間経っただろうか。
扱いは酷く丁寧で、乱暴にされることは決してなかった。部屋の内装も、王妃である自分の部屋と同じように整っている。
扉は魔法により閉ざされているが、レティシアには開けることができる。エルサティーナで王妃になったときに受けた洗礼のお陰らしい。
ただし扉の前には兵士がいて、逃げることはできない。
レティシアの心を埋め尽くしているのは、ベアトリーチェの心配だった。カルザスたちの目的は自分だったという。その策謀にあっさり騙された自分。そしてその誘拐劇に、あろうことかベアトリーチェさまが巻き込まれてしまった。
なんて自分は愚かだったのだろう。大切な人の傍にいてもらうなら、まずその人間をちゃんと見定めなければならなかったはずなのに。あらわれた希望にすがるように頼ってしまった。
自分はあの人を不幸に追い込んでばかりだ。
レティシアは閉じ込められた部屋で、暗く頭を抱えた。
そのとき、ガチャリと扉が開かれ、一人の男が入ってきた。アーサーさまと同じ髪と瞳を持つ男、カルザスだった。
「ご気分はいかがですかな。レティシアさま。」
不気味に笑うカルザスは、レティシアに馴れ馴れしく近づいてきた。
「いったい私をさらって何が目的なのですか。」
そう言ったレティシアに、カルザスは答える。
「あなたを妻に迎え、私がエルサティーナの王になるのですよ。」
「そんなことうまく行くと、本気で思ってるのですか…。」
「ええ、もちろんです。あなたは世界でもっとも高貴な血筋を引いている。その血の力があれば、エルサティーナの王権を覆すことができる。クレイドールの工作により、今のエルサティーナには近衛騎士団しかいません。アーサー陛下にはこの状況を打開する手札はありませんよ。それに私には協力者もいる。レツィオンの者たちが、私が王権を奪回したときには後ろ盾となってくれると言っていました。」
カルザスは夢中になったように言葉をつづける。
「皆が私の方がアーサーよりも正当なる後継者だと言っている。私の方が、奴よりも高貴な血筋を引いているのだ。なのにあいつはわずかばかり先に生まれただけで、王の地位を、すべてを手に入れた。だから私はそれを取り戻すのだ!正しきこの国の後継者として!」
カルザスの言葉を聞いて、レティシアは理解した。この男はたばかられたのだ。国の上層にはびこる権謀の亡者どもに。
この男に甘言を吹き込んだものは、彼が一時的に王権を手に入れても協力したりはしないだろう。しらばっくれて、彼の悪行を糾弾し、自らの利益に誘導しようとする。失敗しても隣の大国の足を引っ張れるのだ。彼らには格好の獲物だっただろう。
どう考えてもカルザスの行く先にあるのは多くのものを巻き込んだ破滅だった。
だが、既にその狂気の矢は放たれてしまった。もうカルザスは何を言っても聞きはしないだろう。
「さあ、レティシア、私のものになるのだ。」
そう言ってカルザスはレティシアをベッドに押し倒し、その体に覆いかぶさろうとする。その瞳には自らの考えへの狂信の色が焼き付いている。
自分の血、それはそんなに価値があるものだろうか。大切な人の幸せを奪い、不幸に追い込んだ血。この男を狂気に追い込み、こんな事件を引き起こした血。誰も幸せにできない血。
レティシアの瞳に、カルザスが腰に差した短剣が映る。
そうだ…。死んでしまおう。私が命を断とう。それがいい。それですべてが終わる。この男の愚かな企みも、自分が巻き起こした数々の不幸も、この呪わしき血の運命も。
はじめからそうすれば良かったのだ。そうすればベアトリーチェさまを不幸にすることもなかったのかもしれない。もう遅いのかもしれない。それでもビーチェさまの近くで、生きていたかった。
抵抗しないレティシアに、歓喜の表情でカルザスは体を重ねる。
カチャリ
レティシアの手に、短剣が触れる。
ビーチェさま…。
ビーチェさまの顔が脳裏に浮かぶ…。あの方はやさしいから、私が死んだから悲しむだろう…。ごめんなさい…。
「私が、私こそがこの国の王だ。」
今だ。
レティシアが短剣を抜こうとした瞬間。
「レティに!なにするのよ!」
カルザスの体が横に吹き飛んだ。
***
レイアは仰天した。
通気口を探索し、二人はレティシアの部屋を見つけた。
そこから見えたのは、カルザスに襲われるレティシアさまの姿。
だがレイアはためらった。見張りがどこにいるかもわからない。部屋の周りの状況もまだわかってない。
それなのに、この少女、ベアトリーチェは、レイアが動く間もなく天井から飛び降り、そのままの勢いでカルザスを蹴り飛ばしたのだった。
***
自分の手に触れていた短剣の感触が消え、カルザスの重みが消えた。
だが、レティシアはそんなことどうでも良くなっていた。今自分の目に映る光景を、まぼろしでもみるかのように見つめる。
揺れる蜂蜜いろの柔らかい髪、小柄でそれでも生命にあふれた肢体、可愛らしく整った横顔は今は眉をつりあげ怒りの表情で満たされている。
「ビーチェさま…?」
琥珀色の美しい瞳がこちらを向く。
「レティ、大丈夫?けがはない?」
ぺたぺたぺた、と自分の体を心配そうにさわる。
それでも、レティシアは自分が見ているものが現実なのか信じられなかった。
「ビーチェさまなのですか…?」
「うん、そうよ。」
吹き飛ばされたカルザスはせき込みながら立ち上がる。
「ベアトリーチェか!?貴様なぜここにいる。」
腰の剣に手をかけベアトリーチェに斬りかかろうとするが、その前にレイアがおりてきて剣を抜く。
「カルザス、覚悟!」
レイアの一閃が、カルザスの剣を弾き飛ばす。
「くっ」
カルザスは慌てて踵を返し、扉に逃げる。その背中をレイアの剣がかすめた。
「カルザスさま!」
開いた扉から見張りの戦士が飛び込んできたが、レイアによりすぐさま倒された。しかしカルザスの姿は、その時には既に無かった。
「ちっ、逃したか…。」
千載一遇のチャンスを逸し、レイアは舌打ちした。
一方、部屋では二人の少女が向き合っていた。
「ベアトリーチェさま…。何故ここに…。」
「なんとか逃げ出せたの。だからレティを助けにいかなきゃと思って。」
「っ!?」
ベアトリーチェの言葉にレティシアは絶句した。
「何故、そのまま逃げてくださらなかったのですか!何故私など助けに来たのですか!」
レティシアの言葉はこのうえない本心だった。自分など助けにくる必要など無かったはずだ。ベアトリーチェさまを不幸にするしかないそんな存在など、見捨ててくれればよかったのだ。それをわざわざ危険まで犯して。
それなのにベアトリーチェさまは優しく笑って首を振る。
「レティは親友だもの。置いてなんていけないよ。」
そしてそっと抱き着いて言った。
「ごめんね、レティ。不安にさせちゃって。無事で良かった。」
暖かい温もりが、その胸から伝わってくる。レティシアは、自分の体が心が、恐怖で嫌悪で冷えきっていたことをそのとき自覚する。目じりに自然と涙があふれた。
体を離しベアトリーチェは、座り込んだままのレティシアに手を差し出した。
そうだ。いつもこの人は、自分が窮地に陥ったとき、絶望の暗闇におちたとき、その闇から引き上げてくれる。その小さな手で。
「行こう、レティ。」
そして微笑むのだ。いつだって、その優しい笑顔で。




