31.『新しい侍女』
ここまでエルサティーナの笛吹き姫を読んでいただきありがとうございます。
ここからこの作品は一番辛いエピソードに突入します。これまで読んでくださった方の中で、もう精神的に限界だという方は読まれない方がいいかもしれません。
アンケートにてヒロインを不幸にして悦に入ってはいないようにというお言葉がありました。実際プロットを考えた時の私はまさにその状態だったと思います。
そしてそのまま書き進めるのは、考えたものは形にしたいという作者のエゴです。
辛さのあまり気になって読まざるを得ない方も多くいると思います。誠に申し訳ありません。
読み進める方も、止められる方も、ここまで読んで頂き本当にありがとうございました。
あれから1年間、ベアトリーチェはずっと一人で過ごし続けた。
後宮の隅で誰から必要とされることもなく。アーサーさまがあの日自分に何を言おうとしていたのか、次にアーサーさまを見たのは一ヶ月後のことで、アーサーさまももう自分に何か言うことはなかった。
ある日ベアトリーチェが、後宮の廊下を歩いていると声を掛けられた。
「おはようございます。」
ベアトリーチェは驚く。後宮でベアトリーチェに話しかけるものなど、誰もいなかったからだ。目を向けてみると、それは見知らぬ侍女だった。肩のところで切られた赤い髪に、緑の瞳を持つ切れ長の目、細い顎のラインはどこかキツネを連想させる。
「ベアトリーチェさまでいらっしゃいますよね。」
「え、ええ…。」
挨拶されたばかりか、普通に話しかけられてベアトリーチェは戸惑う。後宮の侍女たちは自分を無視するか、聞こえよがしに巷で流れる自分の悪い噂を言うかのどちらかだった。
「あなたは…?」
ベアトリーチェの言葉に、その侍女は笑顔を浮かべ礼をすると自己紹介した。
「失礼しました。第三妃の侍女に新しく配せられたマルチダです。」
その言葉を聞いても、ベアトリーチェから戸惑いの感情が抜けることはなかった。側妃付きの侍女は、ほぼ担当する側妃に雇われている。だからほかの側妃やその侍女には、悪意を持つか、無関心かのどちらかである。そして悪意を持っていたとしても、侍女という身分なのでそれを表に出すことはめったにない。後ろ盾も何もないベアトリーチェという例外を除いて。
ベアトリーチェは侍女が何を考えているのかわからず、何も言えずにマルチダを見ていた。
「これから後宮に勤めることになるので、お見知りおきください。それでは失礼します。」
マルチダはそんなベアトリーチェの態度にも、笑顔の表情を変えることなく礼をして去って行った。
「え、ええ。さようなら…。」
ベアトリーチェの返事はかなり戸惑ったものだった。
***
「ベアトリーチェさま!」
外の水場で洗濯をしているとき、またベアトリーチェはマルチダに声を掛けられた。
冬の冷たい水で洗濯していたベアトリーチェは、手にあかぎれが出来ていた。マルチダはベアトリーチェのその姿を痛々しげに見ると、近づき水桶の冷たい水に手を入れた。
「王族の方にそのようなことをさせるわけにはいきません。わたくしがやります。」
ベアトリーチェは驚いて目を見開いた。
「いえ、そんなことさせるわけにはいかないわ…。あなたはアーリシアスさまの侍女でしょう?」
アーリシアス=エランは、マルチダの仕える第三妃の名前だ。エラン公爵家のクレイドールの妹君に当たる。
「アーリシアスさまにはたくさん侍女がいますので、私がやることなんてほとんどありません。ベアトリーチェさまのお手伝いをしても、その分自分に役目が回ってくると喜ぶ侍女はいても、怒る侍女は一人もいませんわ。」
そう言ってマルチダはベアトリーチェの洗濯物を手に取り、洗いにかかる。
ベアトリーチェはその緑の瞳を見つめ聞いた。
「何故、私に親切にしてくれるの?」
すると、マルチダは悲しそうに顔を伏せて言った。
「こういうのは失礼かもしれませんが、ベアトリーチェさまがあまりにも不憫であらせられるので。私、巷での噂を信じていませんわ。私がここにくるまで仕えていたクレイドールさまは、ベアトリーチェさまとお会いしてそんな方ではなかったと言ってました。実際、会って私も同じことを思いましたわ。」
マルチダは目に涙を浮かべ、ベアトリーチェの手を握った。
「何の罪もないのにアーサー陛下から酷い扱いをお受けになっているのですよね。だから、少しでもお力になりたく思ったのです。」
ベアトリーチェはマルチダに言葉を返した。
「あなたの気持ちはわかったわ。でも、これは自分でやらなければいけないことなの。申し訳ないけど、手伝ってもらうわけにはいかないわ。」
アーサーさまは自分に侍女を付けず、側妃らしくあれといった。洗濯も自分でやらなければいけない。それに…。
マルチダはベアトリーチェの言葉を聞き、素直に洗濯物をベアトリーチェに返した。
「そうですか…。でもお困りになったときはご相談くださいね。私はベアトリーチェさまの味方ですので。」
そう言って去って行った。
それから、マルチダはベアトリーチェにたびたび話しかけ、手伝いなどを申し出るようになった。
後宮で孤独なベアトリーチェにとって、それはとてもありがたいことのはずだった。なのに何故か…、心を許す気にはなれなかった。
マルチダのあの瞳の奥に、一瞬冷たい光を見たせいだろうか。
それにあのときマルチダはベアトリーチェの扱いについてアーサーさまを非難した。公爵家にも仕えていた侍女が、捨て置かれている側妃の待遇について国王を非難する。これはあり得ることなのだろうか。
ベアトリーチェは胸騒ぎが収まらなかった。
***
レティシアはその光景を見た時驚いた。
ベアトリーチェに近づくことをやめたレティシアだったが、それでも未練がましく後宮を訪れては見つからないようにしながらベアトリーチェの姿を見ていた。その日もお忍びで後宮を訪れたおり、レティシアは驚くべき光景を目にした。
自分と離れてからはずっと後宮で孤独に暮らしていたベアトリーチェ。だが、この日見たのは、そんなベアトリーチェに笑顔で話しかける一人の侍女の姿だった。
その笑顔も会話の内容も決してベアトリーチェに悪意があるようなものではなかった。
やがてベアトリーチェとその侍女は挨拶をして別れた。これも今までにはなかったことだ。
レティシアはベアトリーチェと話していた侍女に近づいた。
「もし、あなた。少しいいかしら。」
侍女は振り向いて、一瞬驚いた顔をしたが、すぐ笑顔に戻り侍女の礼をした。
「こんにちは、レティシアさま。どうされたのでしょうか。」
「あなたはビーチェさまと親しいの?」
ビーチェさまと聞いて、侍女は一瞬誰のことか分からない顔をしたが、はっと気づいたように表情を変えた。
「ビーチェさまとはベアトリーチェさまのことでしょうか。」
「え、ええ。」
知らぬうちに愛称で呼んでしまってたことに、レティシアは切なげな表情を浮かべた。
「やっぱりお噂は真っ赤なウソだったのですね。レティシアさまと愛称で呼び合う仲でしたなんて。」
侍女も同調するように、眉を寄せた悲しげな表情を作る。
「そ、そうなのです。私とビーチェさまは、決してあの噂のような関係ではなかったのです。むしろ私にとってビーチェさまは恩人で…。」
侍女は同情した顔で、レティシアの手を握った。
「民の噂は無責任なものですから。レティシアさまもベアトリーチェさまもお可哀想ですわ。私、第三妃の侍女ですが、前に仕えていた主人から二人はそのような仲には見えなかったと聞かされていたんです。だから、ベアトリーチェさまを実際に見て、少しでもお力になりたいと思ったのです。」
レティシアは侍女の言葉に、やっと理解してくれるものが現れたことを喜んだ。
「ですが…、なかなかベアトリーチェさまは心を開いてくれません。」
目を伏せて言う侍女に、レティシアは思った。確かに先ほどのビーチェさまの表情は決して心を許したものではなかったと。
「それは、私のせいかもしれない…。親友だったはずの私がビーチェさまを傷つけたから。」
ビーチェさまを守るためとはいえ、自分はビーチェさまを裏切った。そして、王妃としての役目を果たしていく中で、さらにビーチェさまを傷つけた。
「でもお願い。諦めずビーチェさまの傍にいてあげて。あの人はとても素晴らしい方なの。でもこの国では誰も味方がいないの。だから、あなたのような人が傍にいてあげてほしい。」
「そうですね、私がんばります。決して諦めません。」
侍女はレティシアの必死の言葉に頷き、望みどおりの答えを返した。レティシアの心にほっとした感情が流れる。この後宮でやっとベアトリーチェさまの味方が出来たのだと思った。そしてこの侍女の名前すら聞いてないことに気付いた。
「あの、そういえばあなたの名前は?」
「あ、失礼しました。マルチダと申します。」
そう言ってマルチダはレティシアに礼をした。マルチダ、この侍女が少しでもベアトリーチェさまを救ってくれたらと思った。
「あの、レティシアさま。ひとつお願いがあるのですが。」
マルチダはレティシアを伺うように見上げて言った。
「何かしら?」
「私は一介の侍女なので、何も力がありません。ですからどうしようもない事態が起きた時はレティシアさまのお力を借りたいのです。ですから、常にレティシアさまと連絡を取れるようにしたいのですが。」
確かに侍女の力ではどうにもならないことに、ベアトリーチェさまが巻き込まれることもありえるかもしれない。すぐにレティシアはマルチダの申し出を承諾した。
「ええ、すぐに手配するわ。」
その答えを聞いて侍女は笑顔になった。
「ありがとうございます、レティシアさま。私、ベアトリーチェさまを出来うる限り支えて見せます。」
「ええ。ベアトリーチェさまのことをお願いね。」
レティシアはあの日以来、誰かがビーチェさまの味方になってくれることを望んでいた。宮廷で孤独に暮らすベアトリーチェさまの傍にいてくれる人間が欲しかった。その強すぎる願いは、彼女の瞳を曇らせた。だから平常の彼女であれば気付けたことにも気付けなかった。
笑顔になったマルチダの瞳の奥に光った冷たい光に。その人の好さそうに作られた笑顔に、はかりごとをするものの冷笑が滲んでいたことに。
何故、信じてしまったのだろう。自らに都合の良すぎる事を。レティシアはこの日のことを、一生後悔し続けることになる。