30.『胸に或るもの』
結局、ベアトリーチェは後宮の隅の自分の部屋にいた。
つらい日々が待ち受け、目的の半分が失われても、まだここにいた。誕生祭が終わっても、ベアトリーチェはずっと部屋の中にいた。
ベッドに寝たまま、膝を抱えうずくまっている。
耳の奥に響くのは、レティが去っていくときの悲しげな足音だった。
親友を拒絶し、傷つけたことがベアトリーチェの胸に重くのしかかっていた。さらに寒空のしたずっと外にいたせいか体調が悪かった。側妃として恥ずかしくないよう、ドレスを着て部屋を綺麗にしてがんばっていたベアトリーチェだが、今はそれの努力も放り出してしまっていた。
覚悟していたはずなのに。耐えなければいけないことだったはずなのに。
楽しそうに笑いあうレティとアーサーさまの姿が浮かぶ。
親友なら応援してあげなきゃいけないはずなのに。それすらできず、忘れることもできず、まだここにいる自分。
見ていないはずなのに、レティの去るときの悲しそうな顔が鮮明に思い浮かぶ。
自分が傷つきたくなくて、勝手に拒絶して、レティを傷つけた。胸が痛くて、涙が止まらない。
コンコン
ノックの音が思考の渦に沈んでいたベアトリーチェの意識を覚醒させる。
「誰かしら…。」
後宮の隅にある自分のドアをノックするものはほとんどいなかった。後宮に捨て置かれている第八妃に用など誰も無かったから。
扉に近づいたベアトリーチェが聞いたのは意外な声だった。
「ベア…いるのか?開けてくれないか?」
それはアーサーさまの声。
ベアトリーチェの目は驚きで見開く。ベアトリーチェの部屋へのアーサーさまの初めての訪れ。
だがベアトリーチェの胸に帰来したのは喜びでは無かった。
怖い…。なんと言われるのか。
レティを傷つけたことについて責められるのだろうか。アーサーさまの大事な人を傷つけた自分は後宮から追い出されてしまうかもしれない。
それで無くてもここ数日無気力に過ごし、散らかり放題になった部屋を見たら、側妃にふさわしくないと激怒するかもしれない。心が弱り切った今、アーサーさまに辛い態度を取られたら耐えられそうになかった。
「ベア…。いたら返事をしてくれ。」
扉の向こうから声が響く。
ベアトリーチェは扉の前から音をたてないように逃げ出し、ベッドにもぐり布団をかぶった。何も聞こえないように、何も聞かないように。
そのままじっとうずくまり続けた。
ベアトリーチェは心の疲れのまますぐに眠りに落ちた。
数刻たち起きたときには陛下は当然いなくなっていた。窓の外の夕日は沈みかけ、地平線の向こうに消えかけている。
アーサーさまにさらに不興を買ってしまっただろうか。それとももう失望されてしまっただろうか。胸にあるのは寒い絶望と孤独。
ここに初めて来たころからベアトリーチェは孤独だった。それでもレティとアーサーの傍にいられる。そんな希望があった。そんな希望があったはずの未来さえもうベアトリーチェの手には無い。
砕け散った欠片は、ベアトリーチェの胸に突き刺さり、血を流し続けている。
本当にベアトリーチェは孤独になってしまった。
ベアトリーチェに与えられた小さな部屋。曲がりなりにも側妃が暮らすにしてはあまりにも小さな部屋。でも、ベアトリーチェ一人にはその部屋はあまりにも大きすぎた。
夜の冷気が浸み渡り、ベアトリーチェの心を凍えさせる。
ベアトリーチェは引出しを開けると、一つのペンダントを取り出した。
それは去年の誕生日にレティがくれたペンダントだった。綺麗な花の細工が施された装飾は中が開き写真をいれることができる。アーサーさまの写真を入れようとした自分は、うまく写真を切ることができず、レティが代わりに切っていれてくれたのだ。
笑顔の写真は手に入らず、写真の中のアーサーさまも微笑みかけてはくれない。でも、アーサーさまにいつも会えるわけじゃないベアトリーチェにとっては貴重なもの。
アーサーさまとレティ、二人のぬくもりが感じられる大事な宝物。
ベアトリーチェはペンダントを首からかけ、ぎゅっと胸におしつけた。
凍えそうな心を温めるように。二人のぬくもりを忘れないように。
この冷たい後宮で、一人で生きていくために。