29.『花は散り 5』
レティシアはベアトリーチェが走り去った場所を驚きのまま見つめた。
ベアトリーチェがいた場所には小さな花束が落ちていた。素朴な美しさを持つカンティアの花束。だが、それは地面に落ちぐしゃぐしゃになっていた。
「ビーチェさま!」
レティシアはベアトリーチェの去った方へ駆け出した。夕刻からまたパーティーに参加しなければならないことはもう頭になかった。
人気のない後宮を走り回る。薔薇園以外にはあまり知らない後宮。ビーチェさまが何処に住んでるのかすらしらない。今、何処にいるかもわからない。
それはレティシアに、ベアトリーチェとの間に開いた距離を思い知らせる。
ベアトリーチェさまを見つけたのは、鬱蒼と茂る後宮の木の陰だった。
レティシアはいつもどおりベアトリーチェに歩み寄る。そう、いつも通り。
いつだってそうしてきた。ビーチェさまが辛いときは傍にいて励まし、慰めるのはいつも自分だった。
でも。
「ごめん…レティ…。」
ベアトリーチェの声に歩みが止まる。
追いかけて、追いついて、どうしようとしていたのだろう。愚かにも近づいて、抱きしめて、いつもみたいに慰めようとしていたのか。
「私…レティと一緒にいるのがつらいよ…。」
この人を不幸に追いやったのは自分なのに。
親友と呼ばれるのが嬉しかった。悩みを打ち明けてもらえて、悲しい目にあったときは抱き合って、あのほとんど味方のいない王国で二人で支え合って生きてきた。
でも、今の自分にはこの人を慰める資格なんかなかった。抱きしめようとしても、自分の腕にはいばらの棘が生えて、この人を傷つけるだけなのだ…。
愚かな自分。臆病で、間違って、何もできなくて、いつも助けてもらってばかりなのに、肝心な時には力になれない、それどころか障害にまでなってしまう。
「ごめんね…ごめんね…レティ。」
ビーチェさまは優しくて、この時ですら私のことを思いやっている。拒絶されて当り前の私を突き放すときですら、私のことを思って傷ついている。
なのに自分の心は弱くて、今にもビーチェさまに縋り付きたくて。『違うんです。』そう言おうとした。でも知っている。その言葉はビーチェさまには何の救いにならない。
レティシアは縋る言葉が漏れそうになるのを必死に抑えた。
ずっと伏せられたままの顔はレティシアには見えない。後宮に来て以来本当の笑顔をみたことはなかった。そして泣き顔を見る資格も失った。瞳に映ることも、もう許されないのかもしれない。
レティシアは静かにその場から立ち去った。その顔に映るのは道に迷った幼子のような表情だった。
***
泣いていたベアトリーチェが立ち上がったのは、月が空の真上にきたころだった。
アーサーさまの誕生祭は盛大で、3日がかりで行われる。だからまだ後宮に帰ってくるものはいない。外で座り込んでいたせいで体が冷えてしまっていた。そろそろ部屋に戻らなければ、風邪をひいてしまうかもしれない。
看病してくれるものが誰もいない今、体調を崩すのはまずかった。
立ち上がると夜の冷気がはっきりと感じられるようになり、体がふるえる。それでもまだここから出たくなかったのだろう。
ベアトリーチェは林の奥のほうまで歩いた。誰も管理していないスペースにできた後宮の林、その広さはたかが知れてるのであっさり壁のほうまでたどり着く。
後宮を覆う白亜の壁。ベアトリーチェはそれをじっと見て違和感を覚えた。木々のまばらな所から差し込む月明かりに照らされ白く輝く壁。その下の方に黒い場所があった。黒く塗られているのではない。よく見ると、それは壁に開いた小さな空洞だった。
ベアトリーチェは驚く。後宮には許可されたもの以外侵入できないように、高い壁に覆われ人が通れる場所は兵士が守っている。外から侵入するのは不可能だし、側妃が特別な日を除いて外に出るのも許されていなかった。
だがこの壁の穴は外まで続いているようだった。後宮の住人に見捨てられた場所で、草木が生い茂り覆い隠している。だから誰にも見つからなかったのだろう。
アーサーさまに愛される望みはほとんどなく、レティを自ら拒絶した今、ベアトリーチェが後宮にいる意味はほとんどない。残酷な日々が毎日繰り返されていくだけだ。
この闇を抜けていけば、自由になれるだろうか。あの人への叶わぬ思いから。
暗い闇はベアトリーチェを誘うようにそこにある。
ベアトリーチェはその闇をじっと見つめ続けた。