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1.『旅立ちの夜』

 もう、帰ってくることはないだろう。

 ベアトリーチェは最後に振り向き、自分がいままでいた豪華な宮殿を見上げる。

 大陸一の大国エルサティーナ、その王が所持する後宮。汚れひとつない白亜の壁が、夜の闇の中魔法で作られた白い明かりに照らされ、壮麗な姿を闇夜に写している。

 王の抱える側室の美姫たちが住まう場所、絢爛なるエルサティーナの繁栄の象徴のひとつ、ベアトリーチェが三年間暮らしてきた場所。

 暮らしたのは短い時間ではなかったが、荷物は少なかった。祖国にいた時小遣いとして貰い当面の路銀にしようと思った金貨と銀貨、侍女たちの目を盗んで手に入れた少年用の服、護身用のナイフ、そしていつもさびしい心を慰めてくれた銀製の魔笛。後は防寒用のマントと大陸の地図。装飾のない皮のバッグひとつだけに収まる荷物。

 それ以外のものはすべて置いてきた。ほかの側室たちにくらべれば少なすぎるが一応持っていたドレスも、記念日などに思い出したように贈られたそれなりに高価な装飾品、祖国フィラルドから持ってきた嫁入り道具の高価な家具。エルサティーナ王国側室第八妃という立場。ずっと一緒にいたが、今は距離を置いてしまった親友。愛されたいと願い、決してそれは適わなかった愛しい人。

 短く自分で切った不恰好な髪が夜風に揺れる。唯一、あの人からも褒められた美しく輝く金髪は、色の付いた油でくすませた。

 夜の闇と共に抜け出したベアトリーチェは、誰にも見咎められることなく、ずっと前に見つけていた抜け穴から城の外に出た。今日に限って、警備の女兵士も夜回りの侍女たちも少ないのは、きっと気のせいではなかっただろう。自分がこそこそ城をでる準備をしていたのを、後宮の皆は気づいていたはずだ。だからこそ、あっさり抜け出せたことに気づいていた。

 もしかしたらあの人の指示があったのかもしれない。でもそれは考えたくなかった。

 もともと誰かに望まれて後宮にいたわけではない。祖国の都合と王の同情、両国の間で結ばれたもう必要のない約束、その細い糸がベアトリーチェを異例の第八妃として後宮にいることを許した。自分も後宮にいることを望んだ。愛される望みがないとわかっていても、それでもあの人の傍にいたかった。望みを捨て切れなかった。どれだけかかっても良い、わずかなひと時でもいい、偽りの情ですらかまわない、あの人に愛されたかった。

 しかし、待っていたのは残酷な結末だった。

 ベアトリーチェの胸にあの人の顔が浮かぶ。最も広大な領地を持つ国エルサティーナを治める偉大なる王アーサー、光り輝く金色の髪と翡翠の瞳をもつ美しき男、まだ30歳にもならないのにその治世と武勲は大陸中に轟き、賢王、勇者と称えられる。

 だが、心に浮かんだ自分を見つめた時のその人の顔は歪んでいた。まるで汚いもの見るかのように…。

 その顔を見て、声をかけることすらなくアーサーが去ったとき、ベアトリーチェの心は折れた。

 誰からも望まれず、むしろ疎まれ続けても居座った後宮をついに去ることにした。

 もっと早く去っていれば傷つくこともなかったかもしれない。いまさらな後悔が胸に浮かぶ。

 ここに来てから楽しい記憶はなかった気がする。事実、振り返り後宮を見上げても、胸に浮かんでくるのは辛い記憶ばかりだった。それでもたまに偶然居合わす、まだ自分を無視することがなかった王と取り留めない会話をした記憶は切なくも幸せな記憶だったのかもしれない。

 十八歳になってもあまり成長しなかった胸は、さらにさらしで巻き目立たなくしている。瞳の色は茶色がかった黒色で、この大陸では一般的な色でありあまり目立たない。

 これに少年の服を合わせて、男装することにした。女の一人旅は危険なのが一番の理由だが、変装もせずに歩いて連れ戻されなかったら、本当に必要とされてなかったことに気づかされてしまうのでそれが怖かったのかもしれない。それも今更過ぎることで、往生際が悪いと口元に苦笑が浮かぶ。

 でもあの子だけは心配するかもしれない。

 親友の悲しそうな顔が浮かび、胸に痛みが走る。

 この国の王妃、アーサーの正妻レティシア。自分が一度もうけることの出来なかった彼の愛を、その身に多く受けた女性。彼女を僻み遠ざけた私を、それでも私を心配してくれた心優しい親友。優しすぎる彼女は、彼女の目をまっすぐ見つめることが出来なくなった私を、彼女のほうが立場が上になっても変わらず慕ってくれた。その彼女の優しさすら辛いと後ろを向いた私を、影からもそっと支えてくれた。彼女がいなかったら、私は後宮で暮らしていくことすらできなかったかもしれない。

 後宮から私の姿が無くなったことに気づいた彼女はきっと悲しむだろう。でもきっと、私の気持ちを察して探さないでくれるはずだ。ここ三年間、冷たい態度で接し続けた親友への身勝手な望みだったが、彼女はきっとそうしてくれると信じていた。

 新月の闇が照らす夜空に浮かび上がる王宮の淡く輝く白い影。一際輝くその宮の頂点に、自分が愛したあの人はいる。

 それは夜空に浮かぶ星とよく似ていた。地上に佇む自分からはあまりにも遠い。手を伸ばしても届かない。なのに見上げればいつもその目に映ってしまう。

 その光の美しさに、目から一粒涙がこぼれる。

 ベアトリーチェは目を閉じた。その美しい光を、心に焼き付けるように。

 そして目を開くと、振り返り歩き始めた。 美しい星々からとおざかるように、真っ暗な夜の道へと。

 ただ一人で、誰からも見送られること無く。

 その歩みは静かで寂しげでありながら、胸に刻んだ覚悟のせいか、意外にも力強かった。


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