不完全な再起動
「二人とも助けた……それが、この世界の『バグ』だって言うのか?」
俺の問いに、凛はガレージの隅にある旧式のモニターを見つめたまま、静かに頷いた。画面には、意味をなさない文字列の羅列が、滝のように流れ落ちている。
「世界というシステムにとって、事象の確定には膨大な演算リソースが必要なの。誰が生き、誰が死ぬか。その因果を整合させるために、世界は常に最適解を選び続けている」
凛は俺の手元、青い変色が広がったストップウォッチを指差した。
「本来の記録では、あそこで死ぬはずだったのは私。そして陽くんは、私を庇って重傷を負うか、あるいは彼も命を落とすはずだった。……でも、あなたは強引にその両方を書き換えた」
「……それが、そんなに悪いことなのかよ」
「善悪の問題じゃないわ。演算負荷の問題よ」
凛がこちらを振り向く。その瞳は、どこか遠い場所を見ているようだった。
「一人の生死を入れ替えるだけなら、世界は周辺のデータを少し改変するだけで帳尻を合わせられる。でも、本来失われるはずだった二人の命を同時にこの世界に留め置くことは、システムにとって致命的な矛盾になるの。今のこの世界は、存在しないはずの二人のデータを維持するために、他の場所からリソースを無理やり削って回している状態なのよ」
俺は息を呑んだ。「ネジの自動修復」や「記憶の齟齬」。あれは、世界が足りなくなったリソースを補うために、細かい計算を端折り、無理やり最適化を行った結果だというのか。
「見て。あなたの持っているデバイスが、その負荷に耐えきれなくなっている」
凛に促され、俺はストップウォッチのボタンに指をかけた。
今までは、押せば「意識そのものが過去へ跳ぶ」全感覚的な跳躍だった。だが、今のデバイスからは、以前のような澄んだ機械音ではなく、ノイズの混じった不快な高周波が響いている。
「このまま負荷が増えれば、デバイスの機能は段階的に劣化していく。最初は『意識ごと過去に跳ぶ』完全なリープが、やがて過去の自分へログを送るだけの不完全な通信になる。さらに進めば、送れるのはテキストですらなく、脳に直接ノイズとして混ざり込む微弱な衝動だけになる。……最終的には、あなたの意識そのものを物理的に過去へ叩き込む以外に、何も届かなくなるわ」
凛の言葉が、俺の胸に段階的に沈んでいった。
過去への跳躍。ログの送信。脳へのノイズ。そして意識の直接投下。
それは劣化の過程であると同時に、追い詰められるほど手段が原始的かつ危険になっていく、一方通行の崖だった。
「……いずれ、あなたの意識を過去へ運ぶ力は失われ、ただの『過去の自分への通信機』に成り下がるわ。それがログ・リープ――不完全な記録の改ざん。直接的なやり直しができなくなるタイムリミットは、もうすぐそこまで来ている」
俺はデバイスを強く握りしめた。
銀色だった筐体は、いまやその半分近くが、深海のような禍々しい青に侵食されている。
「……やり直せばやり直すほど、世界は壊れていく。でも、止めれば陽は――俺たちは、確定した死に飲み込まれる。そういうことか?」
「ええ。そして最悪の場合、世界は演算を維持できなくなり……『軽量化』のために、重要度の低いものから順に消去していくことになるわ」
ガレージの外で、またドローンの羽音が聞こえた。
その音が一瞬だけ途切れ、デジタル的なノイズとして空に溶けるのを、俺は聞き逃さなかった。
俺たちが守ろうとした日常の解像度が、少しずつ、確実に、剥げ落ちようとしていた。




