第三話 『輪車事故』
エスカレーターが、四階のプラットフォームで僕たちの向きを変えた。
彼女は、そのまま上階へと姿を消して行った。
(僕の、今の人生は何と言えばいいのだろう。
――あのコインが回る前を〝前世〟と呼ぶなら、これは〝今世〟とでも言うべきか。
僕が前世で、初めて彼女に会ったのは〝ニジュウ〟の頃だ。
つまり、今世で出会った彼女は、〝ジュウゴ〟の僕の時間に属するはずだ。
だから、これ以上考えるのはやめておこう……)
「どうやら四階は空いてますね。そう言えば、上階になればなるほど輪車の音が静かになるって、本当なんですか?」
その声で、張りつめていた思考がふっと緩んだ。
輪車の低い振動が、遅れて足元から伝わってくる。
以前にも、同じ言い回しで、誰かに問われた気がした。
……だが、今はどうでもいい。
「四階程度じゃ変わらないぞ。なにせ、この型は二十階層もある。むしろ、よく響くだろ」
「そうなんですね。それじゃあ、先頭に行きましょう」
そう言って、輪車の中を歩き出す。
人の気配はなく、先頭の高い位置から輪車線がよく見えた。
やがて部屋全体に均された声が降ってくる。
『――まもなく、《ヨルルガ》発、白冠山入口駅行き、ニシ型輪車が出発いたします』
少し遅れて、金属を擦るような振動が、足元から上へと伝わってきた。
楽になるように、僕は椅子に身を預ける。
高層建築のスリットに切り取られていた空が、ゆっくりと広がっていく――。
ただ、そこを抜けても、四階からでは、空はまだ疎らに見えるだけだった。
(久しぶりだ、輪車に乗るのは。
それに〝僕たち〟だけで遠旅だな。気分が高まる)
ジュウゴの僕も、いつまでも空を見ている。
……その時だ。
コトッ、とテーブルの上で音がした。
見ると、そこには猫がいる……。
(輪車の中で猫だなんて……おかしいはずだ。
誰かのペットだろうか?)
辺りを見回しても、他の客は見当たらない。
それでも、僕は――
猫好きの性分か、つい頭を撫でようと身を乗り出していた。
(……デカいなこの猫は。
撫でられまいと、厚い肉球で、しっかり僕の手を防いできた)
猫は、僕を見ると「ニャ」とだけ鳴いた。
そして、テーブルから飛び降り、後方へ走り去った。
「ああ、どこに行っちゃうんだろ。今の猫、かなり大きかったですね。昔飼っていた猫の三倍はあったかも。デブでもなさそうだし、そういう種なんですよね? たぶん」
聞かれても、わかるはずがない。
僕はまた、空を見たり、同じような街並みを眺めたりしていた。
……ジュウゴの僕は、どこかに行った猫のことが、まだ気になるらしい。
僕は500銀貨を渡し、猫探しのついでに飲み物でも買ってくるように言った。
(到着まで三時間弱か。
もう景色にも飽きたし、昼寝でもするか……)
僕は目を閉じた――。
――目を開けると、さっきまで白かった空が、いつの間にか鈍い色に変わっている。
隣では、ジュウゴの僕も、騒音の中で昼寝をしていた。
テーブルの上には、僕の飲み物と……
見覚えのある〝薄汚れたコイン〟が、お釣りの銀貨に紛れて置いてあった。
「ルエトッ!」
「あ、はい」
ジュウゴの僕を起こしながら、自分の財布を取り出した。
中身を確かめる。
そこには、自分の部屋で手に入れた〝薄汚れたコイン〟が、確かに入っていた。
(……別のコインか)
気になって取り出した。
「あれ、やっぱりそれ、硬貨ですか? さっき、お釣りでもらいました」
「ああ」
僕は、上の空だ。
二枚のコインを、無言で並べて比べる。
(よく見れば、大きさも違うし、微妙に模様がわかる。
どうすればいい?
擦っても綺麗にはならないし……回せばいいのか)
コインの端を、弾くようにして回転させてみた。
カラン、カラン、と、すぐに倒れ込んでしまった。
「僕、得意ですよそれ。いいですか?」
僕と大差ないと思ったが、コインを渡してみた。
弾くと、この振動の中でも、不思議なほど素直にクルクルと回り出した。
クルクル、クルクル――。
でも……何かが起こる、わけではなかった。
ガタタン!
輪車が大きく跳ねた。
その拍子に、コインも一緒に跳ね上がる。
「あっ」
(回るコインの軌道だけで、僕は〝またか〟と予感がした。
止まることのないその回転は、あの時と同じだ)
クルクルと回る〝薄汚れたコイン〟から、煤が剥がれていく。
(やっぱり、金色の地金が見える。
僕はまた……このコインを、握っていいのだろうか。
……それとも)
勝手に、体が動いた気もする。
気づけば、握っていた――きっと、幸運のコインだと信じて。
ゆらりっ。
眩暈だと勘違いするほど、輪車が大きく傾いた。
その勢いで、ジュウゴの僕が、僕のほうへ吹き飛んでくる。
「うわぁ、地震?」
二人で、近くのものを、思わず握りしめた。
車体全体が強烈に軋み、今にも引き裂かれて壊れそうだ。
「グルギャァァァァゥ」
生き物の声なのか、輪車の悲鳴なのか。
そんな区別もつかない音が、外で轟いた。
(な、何が起きたんだ……。
窓から外を見ても、傾いた風景しか見えない。
……アナウンスはないのか)
ゆっくりと傾いた車体は、元に戻っていった。
僕は散らばったコインを、反射的にかき集めた。
(……これは、僕のせいなのか?)
……ドォォン。
響きと同時に、今度は、さっきとは反対へ傾きだす。
高く積み上げられた魔法輪車は、帝国の言う通りなら、倒れるはずはなかった。
だが、すでに傾きは限界を超えていた。
側道の畑へと、植物ごと、根こそぎ倒れ込んでいく。
「気をつけろルエト、テーブルの下だ!」
(もう、どうにもできない。
窓から最後に見えたのは、大量の土だ。
埋もれてしまっただろうが、……すぐに救助隊が来てくれるはずだ。
不安そうな、ジュウゴの僕を見ていると、僕の不安は消えていく。
二人で助け合えば、なんとでもなるだろう)




