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70歳の僕が過去に戻ったら、若返るどころか15歳の自分がいた。 昔失った恋人に再会したが、彼女はまだ、僕を知らない。  作者: イニシ原


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第一話 『等価履行』

 どこからか、低く重い霧笛の音が響いてくる。

 視界の及ぶ限りの路地には、二階、あるいは三階建ての古びた家屋が連なるだけだった。


 見上げれば、生活の垢を象徴する洗濯紐が、幾重にも渡されている。

 その遥か高み、建物の隙間に切り取られた細い線に沿って、鳥たちが編隊を組み、流れていくのが見えた。


(……違うか。

 ホワイトドラゴンだな。あの群れは。

 北の山脈を越えて、悠々ときたか――冬が来るな、珍しく)




 井戸端には、夜明け前から絶え間なく人だかりができていた。

 この界隈で生きた水を得られる場所は、もうここしかないからだ。


 まだ、日は高い――

 でも、夜がきて人影が失せても、暗闇の底からは相変わらず、〝ジャバジャバ〟という音が響き続ける。


(この人たちは、精霊の嘆きが、染み付きすぎだ……。

 だが、水がなきゃ生きていけない以上、精霊をこき使うしかない。


 ……まさに悪循環だ。


 まあ、もうこういう生き方しかできないんだから、仕方ない……)




 食欲をそそる香りが路地に流れ出した。


 あの店には、焼き立てのパンが並んでいる。

 色とりどりの菓子が、棚を飾っている。


 時折、風に乗って混じるのは、干した魚の匂いだ。


 店主の夫婦は、絵に描いたように福々しい。

 その傍らで笑う息子と娘は、残酷なほどに愛らしかった。


 もっと遠くまで歩けば、

 別の品を扱う店も選べただろう。


 だが、僕は結局、この店で足を止めた。


(どこの店も、似たような毒を抱えたものばかりで、どこへ行ったって同じだ。

 それなら、見知った顔から買う方がまだマシってもんだ。


 今じゃ、どこの畑もスライムだらけで、農家も楽じゃない。

 戦うわけでもないのに、汚染された作物を食うだけで、寿命がもぎ取られていく。

 ――理不尽な話だ)


 必要な物だけを腕に抱え、帰路につく。

 そこは、世界から切り離されたような狭い箱の中だ。

 わずかばかりの衣類と、端の擦り切れた数冊の本。

 自分自身の匂いが深く染みついた布団は、時を重ねてひどく薄っぺらくなっていた。


(……これだけが全てだ。

 ここで生まれて、たぶんここで死ぬんだろう。

 人生なんて、浮き沈みの繰り返しだったな。


 でも〝ナナジュウ〟も歳を取れば、そんな荒波も、ただの凪に見えてくる。

 ……人並みの幸せや、多くの人が歩む道とは少し違っちまったようだが、今更だ)


 何だかわからない肉が挟んである、サンドイッチを買った。

 それと、量だけが取り柄の、味のしない硬いパンだ。


 ガタガタ言う机の上に置いて、黙ってそれらを食べる。


 噛めば腹は満ちる。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 咀嚼しながら、残りの生活費を数えておく。


 何もしなくても、週に一度、決まった金が手に入る。

 だから、怠惰に使い果たしても餓死はしない。


 それが――〝帝都(ヨルルガ)の力〟だ。


(数えていた中に、妙なものが紛れている。

 なんだ、この薄汚れたコインは。


 凹凸も擦り切れて、どの金属かも分からない。

 贋金か? それとも、ただのおもちゃか?)


 数え直したが、大した間違いでもないようだった。

 確認しにパン屋へ行くのも面倒なので、このままでいい。


 窓を開ければ、狭い裏庭がある。

 いつもではないが、猫が遊びに来る。

 固いパンを水でふかし、撒いておいた。


 猫が好きだ。

 物心ついたときから、猫を撫でるのが好きだった。


 ただ、裏庭に来る猫は人には寄り付かない。

 ちょうど今来た猫を見ていると、こちらに気づいて足を止めた。

 睨み合いだ。


 ……でも、

 大きな音を立てないように、窓を閉めた。


(昔は、どんな猫にも好かれ、家でも飼っていた。

 それだけで楽しかった。

 あのときまでは……。


 今が不幸せなわけではない。

 ただ、人生の道を逸れてしまった気がしてならない。

 何も分からないまま、一人で歩けと言われた気がした――〝ジュウゴ〟の時だ)


 どこへ歩いていた?

(それは、僕だけが知っていた)


 誰かに聞けばよかったのか?

(聞いても、同じだ)


 ……周りの人だって、自分で考えて歩いていた。

 間違えていないか、不安になりながら。

(歩みを止めたのは、いつだ)


 まっ、いいさ。

 もうしばらくすれば、迎えが来る。

 ……それが、最後のしあわせだ。


(それで、等しいか)


 ガタつく机の上で、薄汚れたコインが、カラっと回った。

 何かの拍子かと思った――

 が、回転は止まらない。


 クルクル、クルクルと回り出す。

 やがてコインは立ち上がり、机の削れる音を立てながら、高速で回転し始めた。


 端から、煤が剥がれるように散っていく。

 その下から現れてくるのは、鈍く光る別の色だった。


 それは……金色、だろうか。


 僕は、それを握りしめて持ち上げた。


(……等しいと思った)


 持ち上げたコインは元の薄汚れたコインだった。


(なんだおかしい、やっぱりこれは、おもちゃなのか?)


 ……いや。


 ――元に戻ったのは、コインだけ、か。


 部屋は、見るからに壁が新しい。

 生活の様子もなく――視界に入るはずの荷物が、すべて消えていた。


(あのときのようだ……初めて、一人暮らしをした時……)


 無精ひげを撫で、目元に触れれば、いつもの疲れが滲み出る。

 その手を見ても、何も変わっていない。

 ――自分自身には、変化はないようだ。


 それでも、確かめずにはいられなかった。


 何もない部屋を、あとにする。


 ……扉が開いた、その時だった。


 目の前には、子供が立っている。


「あれ、大家さんですか? 僕は今日からお世話になるルエトです。よろしくお願いします」


「……」


(……この子と出会うことになるなんて。

 そうなのか……。

 いや、〝出会う〟という言い方は違うな)


「えっと……」


「君……ここに来たばかりなんだろう? 急ぐ理由がなければ、少し遠いが副都(ニチカゼ)まで行ってみないか。僕も、行ってみたいんだ」


「えぇぇ……」


(たぶん、これが僕の道の最後だ。

 ここで歩くのを止めてしまった僕の――。


 ――そして、〝ジュウゴ〟歳の僕にとっての、初めての道になる)

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