第6話「銀の薔薇の棘」
銀の薔薇結成から数日後、フォンテーヌ邸では穏やかな朝が訪れていた。
ローリエルは父と静かな朝食を取りながら、昨夜の会合のことを思い返していた。みんなで話し合った計画、そして自分自身への疑問...
その時、突然頭に激痛が走った。
頭の中に流れ込んでくる残酷な未来に、ローリエルは唇を噛んだ。エステルに危機が迫っている。
急いで執事に命じ、銀の薔薇のメンバーたちに緊急の手紙を使用人に届けさせた。そして王都の商業区画に向かい商会に到着すると、既に最悪の状況が始まっていた。
「お父様!」
エステルの悲鳴がコープマン商会の奥の部屋に響いた。書類に埋もれた机の前で、彼女の父——マルクス・コープマンが絶望した表情で崩れ落ちていたのだ。
『ルートA:借金返済を最優先→債権者との交渉成功、しかし取引先復帰は絶望的』
『ルートB:取引先の復帰交渉を優先→一部成功するが借金返済が間に合わず』
『ルートC:グレイ伯爵に土下座して助けを乞う→一時的に助かるが、エステルの完全な屈服』
「グレイ伯爵が...」マルクスがかすれた声で呟いた。「全ての取引先に圧力をかけて...取引を停止させた...もう、終わりや...」
グレイ伯爵——王宮でも屈指の実力者として知られる上位貴族だった。商業組合への影響力も絶大で、彼が本気で潰しにかかれば、一商会など簡単に消し飛ばすことができる。コープマン商会が扱う香辛料の独占販売権を狙い、長年圧力をかけ続けていたのだ。
エステルの顔が青ざめた。普段は強気な彼女が、膝から力が抜けてその場に座り込む。
「エステル様」ローリエルが駆け寄った。
「ローリエル...」エステルの声は震えていた。「もう、終わりや。明日には借金取りが来て、商会は潰れる。お父様もこんな状態で...」
ついに地の口調が出てしまったエステルを見て、ローリエルは胸が痛んだ。
「大丈夫です。私に任せてください」
「任せるって...」エステルが涙ながらに言った。「あなたは優しいけれど、子爵令嬢にどうにかできる話やない。相手はグレイ伯爵よ?貴族と商人の力の差は...」
その時、商会の扉が開き、コンスタンティアとベルナデットが息を切らして駆け込んできた。
「ローリエル様、緊急事態と伺い駆けつけました」ベルナデットが敬礼した。
「道中でお会いしまして、一緒に参りました」コンスタンティアが続けた。「急いで調べて参りました。明日の朝一番で王宮に出向き、コープマン商会の商業権を剥奪する正式な申請を行う予定です!」
「そんな...」エステルの絶望が深まった。
「それだけではございません」コンスタンティアが続けた。「主要な取引先には既に圧力がかかっており、全て取引停止を決めています。さあて、これはもう完全に詰みの状況ですわね...」
「コンスタンティア様!」ローリエルが咎めるように言った。
「あ...申し訳ございません」コンスタンティアが慌てた。「つい分析癖が...」
エステルは完全に希望を失った表情で俯いた。「やっぱり無理なんや...商人が貴族様に逆らうなんて...」
ローリエルは深く息を吸い、決意を固めた。
「エステル様。私が、何とかします」
「でも、どうやって...?」
『ルートD:グレイ伯爵の弱点を直接突く→短期決着だが報復リスク大』
『ルートE:周辺から圧力をかける→時間はかかるが確実性高い』
『ルートF:正面から法的手段で対抗→正攻法だが成功率低い』
「まず、グレイ伯爵の長男が関わっている違法賭博の件を——」
「ちょっと待って」エステルが手を上げた。「なんでそんなこと知ってるん?」
「それは...」ローリエルが言いよどんだ時、コンスタンティアが驚愕の声を上げた。
「まさか...ローリエル様の能力で、そこまで詳細な情報が分かるのですか?」
「いえ、これは...」
『ルート警告:この方法では相手も警戒し、より巧妙な妨害工作を開始する』
ローリエルは愕然とした。初めてルートが「失敗」を示している。
「だめです。この方法では...」
「何がだめなの?」エステルが混乱した。
その時、商会の扉が勢いよく開かれた。現れたのは、初老の男性——威厳ある立ち振る舞いと高級な衣装から、明らかに高位の貴族と分かる。グレイ伯爵本人だった。
「マルクス・コープマンはどこだ」グレイ伯爵が傲慢に言った。「最後の書類にサインをもらいに来た」
そう言いながら、彼の表情には冷たい笑みが浮かんでいる。まるで獲物を前にした捕食者のように。
「まあ、どうせ明日には全てが片付く。今日中に済ませておこうと思ってな」
エステルが立ち上がろうとしたが、力が入らない。
「伯爵様」ローリエルが前に出た。「あまりに非情ではございませんか?」
「君は...確か、フォンテーヌ子爵家の令嬢だったか」グレイ伯爵が眉をひそめた。「なぜ商人の店などにいる?それに、随分と賑やかだな。ヴァレール家とヴィンター家の令嬢まで...一体何の集まりだ?」
「エステル様は友人です」
「友人?」グレイ伯爵が嘲笑した。「子爵令嬢が商人の娘と友人とは、随分と身分をわきまえない」
ローリエルの胸に、激しい怒りが込み上げた。エステルの震える姿を見て、今まで感じたことのない強い感情が心を駆け巡る。
(この人を...絶対に許さない)
その瞬間、ローリエルの頭の中で何かが変わった。これまでとは全く違う、巨大な力が湧き上がってくる。
『ルートG:複数の情報を同時に活用→一気に逆転可能だが危険度極大』
『ルートH:全ての情報を一度に暴露→確実だが後戻り不可能』
『ルートI:段階的に圧力をかける→安全だが時間不足で間に合わない』
ローリエルは目を閉じ、これまで経験したことのない規模でルートを見通し始めた。
『ルート詳細分析開始...グレイ伯爵の弱点:長男ロドリックの違法賭博、税務申告の虚偽記載、商業組合との癒着...』
『対抗手段:証拠収集→相手への直接圧力→交渉による解決』
『成功確率:87%』
ローリエルは目を開けた。
「グレイ伯爵様」ローリエルが静かに言った。「エステル様への嫌がらせ、今すぐお止めください」
「何を根拠に...」
「根拠なら、これから作ります」ローリエルの瞳に、これまで見せたことのない強い光が宿った。「私には使命があります。この世界で不当に苦しめられている女性たちを、必ず幸せにする使命が」
エステルが驚愕した。「使命って...」
グレイ伯爵は鼻で笑った。「子爵令嬢が何を言うか。所詮は—」
「そして今、その使命のために、私は本気になります」
その時、商会の扉が開き、オーレリア王女が姿を現した。
「グレイ伯爵」王女の声は威厳に満ちていた。「父上がお呼びです。至急、王宮にお越しください」
グレイ伯爵は困惑した。「王女殿下...なぜここに...」
「お探ししていました」オーレリアが澄まし顔で答えた。「王宮にいらっしゃらないので、こちらにお越しかと思いまして」
グレイ伯爵は仕方なく商会を後にした。
「コープマン...この件は、後日改めて...」
「お疲れ様でした」ローリエルが丁寧に頭を下げた。
伯爵が去った後、ローリエルはすぐに行動を開始した。
「コンスタンティア様、グレイ伯爵の長男ロドリック様について調べてください。違法賭博に関与している可能性があります」
「承知いたしました」コンスタンティアが頷いた。
「ベルナデット様、証拠収集の際はコンスタンティア様の護衛をお願いします。グレイ伯爵が妨害工作を仕掛けてくる可能性があります」
「分かりました」ベルナデットが力強く答えた。
「でも、長男の件だけでは不十分です。相手が警戒して対策を取るでしょう」ローリエルが続けた。「複数の角度から同時に攻める必要があります。オーレリア様、王宮内での伯爵の政敵について調べていただけますか?」
「分かりました。心当たりがありますわ」オーレリアが頷いた。
「エステル様は商業組合の内部情報を。グレイ伯爵が圧力をかけた方法に違法性がないか確認してください」
「任せて」エステルが立ち上がった。「商人の繋がりを使うわ」
オーレリアが困惑した。「ローリエル様、なぜそこまで詳しく分かるのですか?」
「それは...」ローリエルが答えようとした時、コンスタンティアが驚愕の声を上げた。
「まさか...ローリエル様の能力で、そこまで詳細な情報が分かるのですか?」
エステルも震え声で言った。「何やの...?まるで全部最初から知ってるみたいに...」
ローリエルは深く息を吸った。
「皆様の能力については既にお話ししていましたが...私自身も、ここまで詳細に見えるとは思っていませんでした。複数のルートを同時に見通すことで、これほど具体的な情報まで得られるなんて...」
エステルが立ち上がった。あまりの驚きに商人訛りが出てしまっている。
「あんたの能力が...こんなに恐ろしいもんやったなんて...」
「はい。そして私は、その能力で皆様を必ず幸せにします」
ローリエルの瞳に、不思議な決意の光が宿った。
「なぜなら...それが私の使命だから」
なぜそれが使命なのか、ローリエル自身もまだ分からない。しかし、心の奥底から湧き上がってくる想いは確かなものだった。
この世界の女性たちを幸せにしたい。そのために、この能力がある。
数日後、フォンテーヌ邸の隠し部屋に集まった「銀の薔薇」のメンバーたちは、驚くべき成果を報告していた。
「ロドリック・グレイの違法賭博、決定的な証拠を掴みました」コンスタンティアが資料を広げた。「賭博場の帳簿、金銭の流れ、証人の証言...全て揃っています」
「調査中、グレイ伯爵の手下が妨害を試みましたが」ベルナデットが報告した。「適切に対処いたしました」
「私も商業組合の不正を突き止めたわ」エステルが興奮気味に言った。「グレイ伯爵が組合幹部に賄賂を渡して、違法な圧力をかけていた証拠があるのよ」
「王宮でも動きがありましたわ」オーレリアが続けた。「父上の側近に、グレイ伯爵の不正を報告する貴族が現れましたの。どうやら以前から恨みを持っていたようですわ」
エステルが信じられないという顔をした。「全部...全部当たってたんや...」
「昨日、これらの証拠を全てまとめてグレイ伯爵に送りました」コンスタンティアが続けた。「『諸々の件で相談があります』という丁寧な手紙と一緒に」
「そしたら」エステルが興奮気味に話し始めた。「今朝、グレイ伯爵が慌てた様子で商会に来たのよ!」
「何て言ったの?」オーレリアが身を乗り出した。
「『誤解があったようだ』『改めて話し合いたい』って」エステルが手を振りながら言った。「もう、明らかに動揺してたわ!」
ローリエルの能力の真価を目の当たりにした彼女たちは、彼女への信頼を新たにしていた。
「あなたの能力...本当に恐ろしいものね」エステルが感嘆した。そして深く頭を下げる。「でもありがとう、ローリエル。みんなも...本当にありがとう。商会も、お父様も、あんたらがいなかったら...」
涙ぐみながらも、エステルの瞳には強い光が宿っていた。
「私はあんたらについていくわ。どこまでも」
壁の花だった彼女たちが、今、確実に薔薇の棘を見せ始めていた。
そして物語は、より大きな展開へと向かっていく。