婚約破棄の慰謝料が石ころだった件。あなたたぶん破滅するわよ。私は最愛の人がそばにいてくれて幸せだけど。
【注意】
こちらのヒーロー、喋らせると適当でふざけたことばかり言います。
すらすらした会話が成り立たないとフラストレーションが溜まる方もいらっしゃると思うので、そういう方はブラバをお勧めします(笑)
【1.慰謝料が石ころだった件】
ワートン公爵家の長男アーゼルが、婚約者のエミリーを自室にて膝に乗っけて、口移しでチョコレートをアーンしてもらっているとき、執事の制止を振り切りながら一人の令嬢が怒った顔で入って来た。
令嬢の目は吊り上がり、腰に手を当てている。
「アーゼル様。ちょっとよろしい?」
アーゼルは顔を顰めた。
「リリエッタ、どこから入り込んだ? もうおまえは気安くここに来ちゃいけないんだよ。俺はもうおまえとの婚約は破棄して、この美しいエミリーと婚約してるんだから」
エミリーの方は元婚約者の令嬢が何やら憤慨した様子で入って来た気まずさなんか何のその、美しいと言われたことを誇張するように恥じらった様子を見せた。
しかし、元婚約者のリリエッタはエミリーの挑発的な仕草など意にも介さない。
「ええ。それは分かってるんですけど、アーゼル様。私がわざわざここへきた用件は少し重要なことかもしれなくて。慰謝料の話なんですけど。――ええと、いいですか、彼女の前で話しても……?」
リリエッタはエミリーに聞かせるような話でもないと一応アーゼルに確認を取るように聞いたが、アーゼルの方は全く気にする様子はなかった。
「ん? 慰謝料の話ならエミリーが聞いて悪い話ではなかろう、終わった事なのだし。構わん。続けろ」
「そう……。じゃあ、あんまり良くない話ですけど、ここで言いますね。慰謝料、確かにあなたの代理の方が持ってきました。でも、その方から聞いてないですかね。木箱の中身なんですけど、石ころだったんです。どういうことでしょうか? うちもそこそこ古くから続く伯爵家。今回のことはあなた都合の一方的な婚約破棄でしたから、それなりの金額を包んでもらうはずでしたよね?」
リリエッタは説明口調で冷静に話した。
しかしアーゼルはあまり深刻なものだとは思わなかったようだ。
「ん? 金の話か。そういうのは執事に言ってくれ。収入や支出、使用人の賃金などは執事が代理で管理しているのだから。俺は払えと命じた。その後のことは担当の者がすべきことだ。俺は知らん」
と、一気にまくし立てた。
リリエッタはアーゼルの言葉を最後まで聞いてから、困ったように反論した。
「もちろん最初は執事の方でやり取りをさせてもらいました。あまり私自身が表立って騒ぎ立てるのも気が引ける内容でしたので。でも、うちの執事が『石ころしか入ってなかった』と伝えたのに、そちらときたら『払ったことなっております』の一点張り。逆に『本当はちゃんと慰謝料は受け取っているのに、入ってなかった、まだ受け取っていない、と嘘を言っているんじゃないか』とこちらが疑われる始末。埒が明かないのであなたに話に来たんです」
しかし、アーゼルは聞く耳を持たない。
「わざわざ来てご苦労さんだけど、うちの執事が『払った』って言ってるなら払ったんだろう。俺の知るところじゃない」
「少し不誠実過ぎやしませんか」
「じゃあ逆に、おまえが嘘をついていない証拠は? うちの執事の言う通りだ。実はちゃんともらっているくせに『入ってなかった』ともう一度要求するなんて。そんなの2倍取りだろ」
「浮気による一方的な婚約破棄をしておいて、その上まだ私を嘘つき呼ばわりするつもりですか? それはちょっといただけませんね」
さすがにリリエッタは腹立たしく思えてきた。
しかし、あくまでアーゼルは自分の非を認めないようだった。
「そういう金の話は、証拠が出てから対処する。知らん、出ていけ。エミリーとのハッピータイムを邪魔するな」
「……」
リリエッタはすっかり呆れ果ててしまった。
じっとアーゼルを見つめ、どうアーゼルに事態の重要さを分かってもらおうかと考えていたとき、
「おつかれー」
とエミリーがバカにするような声を上げた。
リリエッタはエミリーのそんな調子を聞いて、これはダメだと思った。柔らかい言い方では通じない。
リリエッタは、きっと鋭い視線をアーゼルに投げかけた。
「アーゼル様、少しお考えになった方がいいですよ。もしうちが嘘をついておらず、そしてあなたが本当に慰謝料を払えとお命じになったというなら、それはどういうことかお分かりになりません? あなたの家の執事、または出納係が、うちにお金を払ったことにしてこっそりネコババしてるってことになるんですよ。そんな者に今後もお金の管理を任せるんですか? どんどん不明なお金が出てきたり財産が盗まれたりするんじゃないかしら。正しく支払ってもらえなかった相手からは信頼を失うでしょうし……。まずは、ちょっと帳簿を確認して、本当に払ったことになっているのか、見てくださるところからでいいんです」
リリエッタの話を聞き、少し話の重大さが分かってきた様子のアーゼルは、今度は突っぱねずにリリエッタに聞き返した。
「その、おまえのところには石ころしか届かなかったって話は本当なんだな? おまえのところの執事や事務方がネコババしたわけじゃないんだな?」
「ええ。あなたの家からの慰謝料は、施錠可能な木箱に入って送られてきました。あなたの代理として来られたのはあなたの親族のジャン・ワートンさんでしたよね。あなたの再従兄弟だと伺いました。私は、さすがにあなたからの手紙の一つでも入ってるんじゃないかと思ったので、その場で――私の父やジャン・ワートンさんの目の前で木箱を開けさせました。そして――木箱には石ころしかはいっていなかったんです」
リリエッタはそのときの状況を分かりやすく説明した。
「……」
「私も父も、ジャン・ワートンさんも、石ころを詰められた木箱をその場で見てるわけです。ジャン・ワートンさんも顔色を変えてました。それでもそちらの執事は払ったの一点張り……」
リリエッタがふうっとため息をつくと、アーゼルはもういいとばかりに片手を挙げた。
「……言いたいことは分かった。ではこちらも少し調べることにする」
【2.まともに喋れない友人】
アーゼルの邸から帰ってきてぐったり疲れたリリエッタは、部屋の長椅子に身を投げ出して「あー、もう!」と声を出した。
あいつ、最後までエミリーを膝に乗っけたまま話してやがった!
案の定こちらの話に聞く耳を持たないし嘘松扱いするし、礼のない態度を取り続けるし、不快極まりない。
できればもう関わり合いになりたくないというのに、まともに慰謝料も送って来ないのだから。
これ以上関わらないには慰謝料をあきらめるという選択肢もあるが、婚約中からあのエミリーと浮気しくさって、その上慰謝料まで払わないで逃げ切りとか、マジで人として許せない。
「あー、もう!」
リリエッタはまた唸るような声を上げた。
すると、部屋をひょいっと覗いた者がいた。
「リリエッタ、アーゼル殿の家から帰ってきたんだね」
リリエッタの昔からの友人のヘルベルト・ベズリー伯爵令息だ。
リリエッタが婚約破棄されてから、心配してちょくちょく遊びに来てくれるのだった。今日も訪問してくれたのはいいが、リリエッタがアーゼルの邸に行っていたことを執事にでも聞いて心配してくれているのだろう。
荒れている様子のリリエッタをちらりっと見て、ヘルベルトは急に、
「うーん。橋でも見に行こうか」
と提案した。
「なんで橋?」
リリエッタがヘルベルトの唐突な提案に疑問を投げかけると、ヘルベルトの方はいつもの明るい調子で、
「俺めっちゃ見たい橋があるんだよね」
と理由も述べずにあっけらかんと言う。
こうやってヘルベルトが適当に誘ってくれるのはいつものこと。リリエッタに嫌なことがあるとこうやって軽く連れ出そうとしてくれるというのが何となく分かっているので、リリエッタもとりあえず「うん」と頷いた。
ヘルベルトの馬車で訪れた先は、海岸線の見える小高い丘だった。帆船が数隻、沖を走っているのが見える。
海岸線は岩場だったが、海岸線から少し離れた海の中に大きな奇岩があって、その奇岩に一本だけ松が生えている。そして、その奇岩に向けて、海岸線から小さな木製の橋が架かっているのだった。
丸太の柱が海中に規則正しく埋められて、大きさの揃った木で組み合わされた橋桁が、さりげなく反り返った美しいカーブを描いていた。
「キレイな景色ね。ここ何?」
リリエッタは、なぜヘルベルトがこの光景を見たくなったのか聞いてみた。
「うーん、可愛い橋が架かってるって聞いたから見てみたくてね。でも、思ってたより、普通の橋だったねえ」
ヘルベルトは「ははは」と笑いながら照れたように言った。
確かに橋は年季の入った木製で、柱と橋桁で素朴に作られており、取り立てて壮麗に着飾ったところはなかった。
「可愛いって小さいっていう意味なんじゃないかな」
「あーそういうことかあ」
ヘルベルトは納得の声を上げた。
リリエッタはそっと言う。
「……ヘルベルトは何も聞かないんだね。今日アーゼル様と何を話したかとか。婚約破棄されて今更とか変だなとか思ってる……?」
「別にー」
ヘルベルトがわざと興味なさそうにすっとぼけるので、リリエッタは感謝の目を向けた。
「ヘルベルトはいつも何も聞かずに連れ出してくれる……」
「忘れ、あ、間違えた。気分転換になればいいと思ってるだけ。あんまそんな風に言わないでよ」
ヘルベルトはにっこりする。
「……」
「いい景色じゃないかー」
とヘルベルトが少し芝居がかった様子で深呼吸をしてみせた。
リリエッタはヘルベルトの素っ気ない優しさを感じた。そして同時に、今日アーゼルの態度にモヤモヤしていたのが湧き上がってくる。
「うん、心配してくれた通り。アーゼル様は最悪だった。昔はアーゼル様のこと好きだったんだよ、でも今はもうそんな気持ちは全くないから、心配させてごめんね……」
そう。
リリエッタは、アーゼルのことを最初は好きだったのだ。
アーゼルは金髪で背も高くてイケメンで雰囲気があった。
だから、リリエッタはアーゼルと話すときとても緊張した。こんな彼と婚約できたことがとても嬉しかったし、彼に釣り合うような令嬢でなくちゃいけないような気がした。
彼に気に入られたい。彼に好きになってもらいたい。彼に幸せを与えられる人間になれるかしら。
しかしすぐに、そう半年ぐらいで、気づいた。
ああこの人、私に対して婚約者として歩み寄る気は全くないんだってこと。私と信頼ある夫婦関係を築く気は全くないんだってこと……。
アーゼルは公の場でいやいやエスコートしてくれることはあったが、決して自らリリエッタを誘うようなことはなかった。それどころか極力リリエッタを避けるような態度を取り続けた。
だから、アーゼルがリリエッタを婚約者として認めていないような気がずっとしていた。
そして、リリエッタはいつしか諦めた。
そのうちアーゼルが別の女性と仲良くしてるという噂を聞いた。
その女性はエミリー・スピンク男爵令嬢。リリエッタとは真反対の風貌を持つ令嬢だった。
リリエッタはまっすぐな黒髪に黒い瞳なのに対し、エミリーはアーゼルとお揃いの金髪碧眼で、ふわふわヘアなのだ。顔立ちも小さく整っていて、まるでお人形さんみたいだった。
リリエッタは遠目にエミリーを見たとき、「ああ、アーゼル様ったら、こーゆー人が好きなんじゃあ私に興味出るはずないかあ」と思った。
見た目が全くタイプじゃないなら私には勝ち目ないよね。はじめっから負け戦だったってわけ。
それで、アーゼルから「好きな人ができたので、申し訳ないが婚約を破棄させてもらえないか。慰謝料は言い値で払う」と一方的に婚約破棄を申し出られたとき、リリエッタは哀しく思ったが拒否する気力は残っていなかった。
さすがに家同士で結婚の約束をしておいて「別の女性が好きになったから」というのは筋が通らない気がしたので、慰謝料はたっぷりもうらうことにした。その慰謝料は行方不明だけど……。
リベルがははあっと大きなため息をついたので、ヘルベルトが「お?」といった顔をした。
「この景色があんまりキレイすぎて人生の儚さでも感じちゃった?」
リリエッタは、隣にヘルベルトがいることを思い出してハッとした。ヘルベルトを慌てて振り返ると、穏やかな微笑の陰にリリエッタを心配しているのが見え隠れする。
「! そんなことないよ! 違うの、こっちの話。アーゼル様からもらうはずだった慰謝料が消えたのよ……」
ヘルベルトはそれを聞いて驚き、少し言葉が詰まった。しかし、すぐに飄々とした口調になって、
「すごいね、消えたって何かのマジック? それとも散財しちゃったって話?」
と聞いた。
「あはは、それならいいんだけど。ちょっと違ってね。アーゼル様から送られてきた慰謝料の木箱開けたら石ころしか入ってなかったんだよね。どういうことかって、それを今日聞きに行ったの。でもアーゼル様には身に覚えがないみたいだった。払ったって言い張るんだよね。なんならこっちが『まだもらってない』って嘘をついてるんじゃないかとまで言われちゃって。アーゼル様が知らないなら執事かその下の出納係かなんだろうけど、アーゼル様が庇うなら今のところちょっと訴えられないし……。慰謝料はもらえないかもしれないなー」
「……」
ヘルベルトは何か思うところがあるらしく、しばらく黙って考えていた。
「にしても、ほんっとストレスだった! 膝にエミリーを乗っけて、エミリーの方もアーゼル様の首に腕を回して。お客がいても改めようともしないのよ。私のこと舐めてるよね?」
リリエッタがアーゼルとエミリーの様子を思い出してぷりぷり腹立たしそうに言うと、ヘルベルトは同情するようにリリエッタの背を撫でた。
それから、ほんの少しいつもより低い声で、
「そういえばワートン公爵夫人のところに用事があったのを急に思い出した。ちょっと明日あたり行って来るよ」
ときっぱりと言った。
いつものおちゃらけた様子がないのでリリエッタは焦る。
「え? あ、いやいや、いいのよ、ヘルベルト。そんな私のためにワートン公爵夫人のところに行かなくても! これは私の問題だし、ワートン公爵夫人に言いつけたところで証拠も何もなければ判断のしようがないし。――というか、ワートン公爵夫人は普通にいい人なので、石ころの話聞いたら『私の方から慰謝料払う』なんて言い出しそう……」
ワートン公爵は大病を患っているので、今ワートン公爵夫妻は王都を離れて領地の方で療養しているのだった。リリエッタの婚約破棄も夫妻が領地で忙しいゴタゴタに合わせて行われたもので、王都での任務や生活についてはワートン公爵から裁量を任されたアーゼルが、ほぼ独断で決めたことなのだった。
ヘルベルトは小さく首を横に振った。
「いやいや、俺の都合だって。ワートン公爵夫人にこの橋の絵ハガキを届けるって約束してるんでね。なんでこんな重要な用事を忘れてたのかな。止めないで、リリエッタ」
「もー! また適当なことを言って! 届けるって言うけど、誰が絵ハガキを直接手渡すのよ。ってゆか、ここの絵ハガキ? ここ別に特別な景勝地ってわけじゃないよね? 景色はいいけど、フツーの田舎だよね?」
「いやいや、ワートン公爵夫人はお目が高いから、ここの絵ハガキ見たら感動して涙流して額に入れて飾るかもね。こればっかりは重要任務なので、他人の手に委ねられないな」
「もー! ほんっとに適当なことばっかり言うんだから! そんなこと言って、本当はアーゼルの件でしょ? じゃあ、ヘルベルトが行くなら私も行くわ」
「あ、いや、これは一人で行かないと目が飛び出て死んじゃう案件なんだよね。リリエッタは王都で待ってて」
「もう、なにアホなこと言ってんのよ、だから――」
「なんだよ、そんなに旅行行きたいの? そんなに旅行好きだったっけか? 今度誘うから。慰謝料のこと解決したら一緒に行こ」
「もう、今そんな話してないでしょ、違うでしょ!」
「よしアーゼル殿の慰謝料で旅行しよ。祝勝会ってことで」
「もうー」
ヘルベルトがどこまでも適当なことを言ってはぐらかそうとするので、リリエッタはほんの少しイライラしながら言うと、ヘルベルトはまた目の奥に真面目な光を宿しながら低い声で言った。
「……俺ならうまくできるから」
リリエッタはそんな風に言われてしまうとヘルベルトに反論できなくなって、口を噤んでしまう。
ヘルベルトは口ではアホなことばっかり言うけど、やることはいつもしっかりしているのだった。
いつもリリエッタにとって一番いいようにしてくれるのだ。
私のために何かしてくれようとするヘルベルト――。
リリエッタはこないだのことを思い出した。
それは初めてリリエッタが王宮の庭園で仲睦まじく寄り添いキスをしているアーゼルとエミリーを見てしまったときのことだった。ショックで血の気が引き逃げるようにその場を離れたが、結局王宮のエントランスに辿り着く頃には足もフラフラで壁際にへたり込んでしまった。
リリエッタの様子を聞きつけたヘルベルトが飛んで駆け付け、リリエッタを優しく介抱すると、王宮の外へ連れ出してくれた。
泣きわめいてその場の人に迷惑をかけないで済んだのはヘルベルトのおかげだ。
そして翌日、リリエッタが体の調子だけは取り戻すと、ヘルベルトは何も聞かずに遠乗りに付き合ってくれた。
ヘルベルトは遠乗りだって言ってるのにチョコレートをポケットに忍ばせてきて、いざ一休みしようというときとり出したら、チョコレートはべちゃべちゃに溶けてしまっていた。
リリエッタはその日一日泣きたい気分だったけれど、情けない顔をしたヘルベルトを見たら思わず笑ってしまった。
「何やってんの」
とリリエッタが吹き出しながら言うと、ヘルベルトは、
「泣きかけの女にはチョコレート食わせとけって弟が言ってた」
なんて言う。
まだ10歳にもならないヘルベルトの弟のおすまし顔を思い浮かべて、リリエッタはまた少し笑った。
それから、見晴らしのいい人気のない丘に着いたとき、
「耳ふさいどくから気持ち叫ぶといいよ」
とヘルベルトが言ってくれたので、リリエッタがその言葉に甘えて、
「アーゼル様、好きだったよ! バーカ!!!」
って叫んだら、リリエッタの大声に馬の方がビクッとなって体を捩り、ヘルベルトは馬から落ちかけた。
しかし、ヘルベルトは必死に聞かない振りを続けて、明後日の方向を見ながら何食わぬ顔で体勢を整えようとしていた。その律義さにリリエッタは泣けてきた。
「アーゼル様がヘルベルトくらい誠実だったら良かったのにな……」
そんなことをぼんやり思い出しながら、リリエッタは今もヘルベルトのことを考える。
ヘルベルトは根はいいヤツ。皆に優しいけど、私には特に優しい。
その意味を考えなくはないけど、今更友達ってどーやって辞めるんだっけ?
友達やめて恋人なんてなれるもの?
考えてみたら恋なんてまともにやったことなかったと、リリエッタは戸惑いで胸がいっぱいになっているのだった。
あのときも、今も――。
【3.落ち度はないと言い張るアーゼル】
それからしばらくして、リリエッタの邸をアーゼルが訪れた。
アーゼルはおよそ謝罪などとは程遠いラフな格好をしており、もうその姿を見ただけでリリエッタはアーゼルの目的が「自分とこに落ち度はないから」と伝えるだけのものだということが分かった。
リリエッタは顔を曇らせる。
しかし、アーゼルはお構いなしだった。
そしてリリエッタにとっては衝撃の言葉を言った。
「リリエッタ。おまえは嘘をついているね。おまえの家に使者として行ったジャンに確認を取ったのだが、『慰謝料の木箱を開ける場に確かに立ち会ったが、中にはお金がちゃんと入っていた』と言っていたぞ」
「え? そんなバカな! 一緒に見ましたけど! 石ころの詰められた木箱を……」
リリエッタが目を見開いて抗議をすると、アーゼルの方がうんざりした顔をした。
「だからそれは嘘だ。うちの者は金が入っているのを見ている。つまり受け取っていないというのはおまえの嘘。本当あんまり変な言いがかりをつけてくれるなよ」
「言いがかり? 嘘じゃないんですけど!」
「そうは言われてもね。ジャンが金を見たと言っている以上……。ま、そーゆーことだから」
「帳簿は払ったことになっているんすか?」
「払ったと執事は言っている」
「帳簿は? 執事が管理していますよね? 帳簿はどうなっているんです?」
リリエッタが食い下がって具体的に聞くと、アーゼルは少し気まずそうな顔をした。
「……」
なんか変だなと思ったリリエッタは詰め寄った。
「ちゃんと答えてください」
するとアーゼルは額に手をやり困惑の表情で一言答えた。
「燃えた。だから手元にない」
「は? え? ええっと、燃えた? それってどういうことですか?」
リリエッタは驚いて聞き返した。
「まあ大騒ぎではあったが、大きな火事じゃなかったから大丈夫だ」
「火事!? ……あの、大丈夫でしたか?」
大きな火事ではないとはいえ、家で火事が起こったというのは大事件に違いない。
リリエッタは思わず心配になって聞いた。
すると、リリエッタに心配されて、アーゼルが少し居心地悪そうな顔で答えた。
「あ、いや、本当にたいした火事ではなかったんだ。一部屋……というか、部屋の一区画が燃えただけだ。そんなに大事ではない。すぐに片付いた」
一区画?
リリエッタはその言い方に含みを感じてハッとした。
「え、ちょっと。それって。一区画ですって?」
「ああ。……棚がね」
「まさか、帳簿のあった棚が、とかですか?」
「そう」
「それって! その火事、慰謝料を盗んだ犯人が何か隠蔽しようとしてません?」
リリエッタは思わず叫んでしまった。
憶測で物を言うのは危険だ。しかし、こんな偶然は疑っても仕方がない。慰謝料が消え、慰謝料が入っていないのを見たはずの使者は「慰謝料は入っていた」と嘘を言い、帳簿を調べろと言ったとたんに帳簿が燃える――。それって……!
しかし、アーゼルはその考えには賛成しなかった。
「犯人って何のことだ! 慰謝料はうちは確かにおまえに届けた。だから犯罪ではないわけで」
「いやいや怪しすぎますよ! 帳簿の棚だけってそんなの誰かがわざと燃やしたんでしょう? そんな都合よく帳簿だけ燃えます? で、どうして帳簿を燃やすんです? それってやましいことがあるからですよね?」
「何の言いがかりだ!」
アーゼルが苦虫を嚙み潰したような顔で腕組みした。
「今回の慰謝料の件だけではなく、帳簿は他にもいろいろ改竄されていたかもしれませんよ、資産はすぐにお調べになった方がいいのでは!?」
「まあ、それはさせている。帳簿は新しく作り直す必要があるし、いったん整理しようと」
「それから、怖いのは身内にお金をちょろまかしていた人がいるかもってところですよ。もちろん資産が全てちゃんとしているなら問題ありません。でも、もし、資産が大きく減っていた場合。犯人はあなたの身近にいるかもってことですよね。それは恐ろしいことです……。一番怪しいのは執事ですし、彼がどこまで把握していたか……」
そう言いながら、リリエッタは「それに、まずはあの使者だわ」と心の中で思った。
リリエッタやリリエッタの父も同席する中で、石ころを詰められた木箱を見ているのに、それなのにちゃんとお金が入っていたというなんてどう考えてもおかしい!
そんな嘘を言う必要はどこにあるの?
使者が木箱をすり替えるなどして盗んだのか。それとも、犯行はもっと前に起こっていて使者はただ犯人を庇っているのか――それなら使者は犯人の仲間ということになる。それとも、犯人に脅されたか……。考えられる選択肢は色々ある。
どちらにせよ、使者は犯人への手がかりになるはずだった。だからリリエッタは「彼の口を割らすのが近道かもしれないな」と思った。
リリエッタはすぐさま人を呼び、アーゼルに気づかれないように、こっそりワートン公爵家のジャン・ワートンを連れてくるように命じた。
【4.嘘をついた使者】
その日の夕刻、ジャン・ワートンは仕事で出先から帰ってきたときを狙われ、リリエッタの手の者によってリリエッタの邸に連れてこられていた。
「ジャン・ワートンさん。今日はどうして呼んだかお判りでしょう」
「え、ええ、まあ……」
ジャン・ワートンは青い顔に汗を浮かべて、項垂れながら突っ立っている。
ワートン公爵家の傍流ということでそれなりの恰好はしていたが、ワートン公爵家に仕える身として人間的な自信のなさがうっすらと漂っていた。
「なぜあの木箱にお金が入っていたなどと嘘をついたの?」
とリリエッタが聞くと、ジャン・ワートンは蚊の鳴くような声で答えた。
「そう言えと言われたからです」
「やっぱりね。でも、それをこんな素直に私に言うというのは……」
「ええ。私は奴らの仲間じゃないのでね。でも奴らは私の妻をいつでも殺められると言っているんです、これ以上は私も口を割るわけにはいきません……」
ジャン・ワートンは情けない顔をしながらもそこだけはきっぱりと言った。
リリエッタはぎょっとした。
「あなたの奥さんを殺める? そんなことまで犯人は言っているの?」
「はい……。まあ顔見知り同士ですから不憫に思って実際は命までは取らないかもしれませんが、しかし何か大きな危害を加えられるのは確かだと思うので……彼の性格上……」
「ちょっとちょっとちょっと! 顔見知りって言った? あなたや奥さんの同僚ってこと?」
リリエッタが思わず割って入ると、ジャン・ワートンは「しまった」といった顔をした。
「あ、何も答えられません! あなたも私の妻が不憫と思うなら深くは聞かないでください、お願いします! 妻は何も知らないんです! 何も関係ないんです!」
「奥様は何も知らずにアーゼル様のお城で働いているのね。あなたが脅されているということも知らず……。奥様が人質のようになっているというのなら、奥様に正直に言って一緒に逃げればよかったのに」
「言えませんし逃げられません! 妻は今の環境に満足しているのでね。私の話だって信じたとしても大事には思わないかもしれません。それどころか、逆に私が正義漢ぶっていると詰るかもしれません。逃げても他所の土地で暮らしのアテなどあるわけじゃありませんからね。正義を求めて貧しく怯えた逃亡生活を送るより、多少の罪悪感には目を瞑っても、安定しそこそこ裕福な暮らしをする方を望むでしょう。そんな女です。それでも彼女は私にとっては妻なのでね……」
小物な男にとっては安定した生活を守ることがまず重要で、正義を貫くことは選択肢に上ったとしても二の次のようだった。
「あなたは仮にもワートン公爵家に連なる者じゃない! 再従兄弟でしょ? 身内より犯人に味方するの!?」
とリリエッタは詰ったが、ジャン・ワートンはのろのろと首を横に振った。
「あのアーゼル様には俺なんてただの使い捨ての従者の一人としか見えてませんよ。一族皆で力を合わせて家を守っていくという姿勢はあの人には皆無だから。そんなアーゼル様のために危険を冒してまで何かする気にはなれませんね」
ああアーゼルはそういう人だな、とリリエッタは思った。
「じゃあ、あなたはお金を盗んだ犯人が誰かとか誰に脅されているかとか、絶対に言わないの?」
「言えません、すみません。……あなたはたぶん私に拷問などしないでしょう? 妻を脅かすとは言わないでしょう? 私のような吹いて飛ぶような立場の人間に理解を示してくださるでしょう?」
ジャン・ワートンはいかにもというように身を縮こませて、懇願するようにリリエッタをちらっと見た。
リリエッタは少し黙ってから、やがて小さくため息をついた。
「……。あなたにそれだけのことを言わせるなんて、その犯人ってのはよっぽど凶暴で無法者なのね。ただの雇われ人ってわけじゃなさそうだわ。なんだか裏社会と繋がっていそう……」
「……」
「そうね、あなたの言う通り、ムカつく男の慰謝料くらいであなたを拷問する気にはならないわ。それに、別にワートン公爵家の財産なんて裏で盗まれてようが知ったこっちゃないし。でも、あなたを帰すわけにもいかないわね。消えた慰謝料の件じゃ重要参考人なんだし」
「!」
ジャン・ワートンは嫌そうな顔でリリエッタを見た。
しかしリリエッタは首を小さく横に振った。
「あなたの身柄は念のためうちで預かる。拷問とかをするつもりはないけど、証言になりそうなものは欲しいもの。話は根気よく聞かせてもらうわ」
「そんな! 私の姿が見えなきゃ奴らに裏切ったと思われる! そうしたら妻に危害が!」
ジャン・ワートンは悲痛な声で叫んだ。
そして、ジャン・ワートンはいきなり蝋燭が10本くらいささった大きな燭台を引っ掴み、リリエッタに振り下ろそうとした。火のついた蝋燭が熱い飛沫をまき散らしながら勢いよく飛んできた。
「きゃっ!」
リリエッタが叫ぶと、少し離れたところにいたリリエッタの侍従が驚き、ジャン・ワートンを取り押さえようと大慌てで駆け寄ってきた。
ジャン・ワートンの方は、椅子を蹴ったりテーブルを引き倒したり、侍従たちを邪魔してなんとか外へ逃げようとする。
そこへ、なんというタイミングだろう! ヘルベルトが来た。
ヘルベルトは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷静に戻り、逞しい体躯で迷いなく真っすぐにジャン・ワートンに歩み寄る。投げつけられた物や振り下ろされた拳を難なく体で受け止めながら、ヘルベルトはジャン・ワートンを取り押さえるべく彼の手首をガシっとつかんだ。
「静かに。もう首謀者は捕まるからおまえも心配はいらない」
ヘルベルトは落ち着いた声でジャン・ワートンを諭した。
「ヘルベルト!」
心配で声をあげたリリエッタに、ヘルベルトはにっこり笑顔を向けた。
「大丈夫だった? 遅くなってごめん」
【5.犯罪者たち】
ヘルベルトは捕まえたジャン・ワートンを拘束しながら、リリエッタに言った。
「ワートン公爵夫人に絵ハガキ渡してきたよー。そしたら絵ハガキの景色が気になっちゃったみたいで、ワートン公爵夫人がさ、超特急で王都に行くって言い出したんだよね。それで来てみたら、なんかアーゼル殿の邸で火事があったんだって? もう皆でびっくりしたよ」
ヘルベルトが世間一般とはかなりズレた独特な言い回しをすることを知らないジャン・ワートンは、「絵ハガキ?」と首を傾げている。
とはいえ、ワートン公爵夫人が領地から飛んで帰って来たというのは、きっと今回の行方不明な慰謝料や帳簿の焼失に関係しているということは想像できた。
ヘルベルトの言った『もう首謀者は捕まる』という言葉はあながち方便ではないと、ジャン・ワートンはほっとした気分になった。
「ワートン公爵夫人はどちらに?」
とリリエッタが聞くと、ヘルベルトは
「火事を調べてる」
と答えた。
それから、ヘルベルトはポリポリと頭を掻いた。
「ワートン公爵夫人はとりあえず関係者に話を聞いて回ろうとしたんだけど、リリエッタへの慰謝料を持って行った使者はリリエッタの家の者に連れ去られちゃったっていうから、俺が慌ててこっちに来てみたってわけ。ワートン公爵夫人が関係者の話を聞きたがってるから、この使者殿もリリエッタもアーゼル殿の邸の方へご足労願えますかね?」
「もちろんお話しするわ。だって慰謝料はまだしも帳簿の棚が燃えるなんて、ねえ?」
とリリエッタは放っておいてはいけないことだと思い小さく頷いた。
ヘルベルトも頷き返す。
リリエッタとヘルベルトは、何人もの腕が立ちそうな従者を連れ、ジャン・ワートンを引っ立てながらアーゼルの邸へ向かった。
案内された大応接室は空気がピンと張りつめていた。
それもそのはず。アーゼルとエミリーがワートン公爵夫人の足元にひれ伏していた。
「何この場面」
思わずリリエッタが呟くと、ヘルベルトは苦笑した。
ワートン公爵夫人は目を吊り上げて怒っている。
「アーゼルには任せておけないわね! ルイスの方がよっぽどマシだわ。ルイスには領地経営の補佐をさせるんじゃなくて、アーゼルの補佐を頼んだ方がよかったようね。あなたはいったい王都で何をしているの。ワートン公爵家としての王都での仕事はちゃんと全うしているのかしら!」
すると、アーゼルは母の足元に縋りついた。
「そんな! 母上、仕方がないのです。火事はちょっとした不用心で起こり得るもの。今回も家来のほんの不始末です。ちょっと帳簿は燃えてしまいましたが、ちゃんと整理してお見せできる形まで復旧しますから!」
アーゼルはなんとか挽回のチャンスをもらおうと必死で訴えていた。
それをワートン公爵夫人が冷たい目で見下ろした。
「ちゃんと整理してって言うけど、あなたに任せた分の財産がどうなっているか、ちゃんと把握できているの?」
「それは今確認している最中ですが、別に帳簿が燃えただけで、財産には間違いはないかと……」
「間違いはないとどうして言い切れるの!」
「いや、家の者がちゃんとやっていたはずなので……」
「まったくアーゼルは! どれだけ能天気なの! 帳簿を燃やされたのに、それでもまだ家中の者を信じているというのだから! 帳簿を燃やすだなんて、誰かが悪事を隠蔽したいからだと普通はピンときますよ。財産は盗まれているとわたくしは思うけど、どうかしら?」
ワートン公爵夫人は鋭い声でアーゼルに詰め寄った。
「そんな!」
「まったく管理ができてなかったのね……情けない」
そう言いながらワートン公爵夫人はぶ厚い紙束をアーゼルに投げてよこした。
「アーゼルに管理を任せたうちの王都関連の財産の目録よ。直ちに無事か調べなさい」
「は、はい……!」
アーゼルはやることが明確化されてほっとしたが、同時に、『財産が盗まれている』『管理ができてなかった』などという不穏な言葉に、自分への処分がどのようなものになるか心配していた。
それを敏感に察したワートン公爵夫人は、
「管理は人にやらせっぱなしだったの? 自分で確認することはなかったわけ? 管理を怠ったというのならそれなりの処分は下しますよ」
とピシッと言う。
「はあ……あ、いや、信用できるものを雇っていたはずなので、任せて大丈夫なものとばかり……」
アーゼルが首を縮こませて小声で答えると、ワートン公爵夫人はふうーっと大きく息を吐いた。
「最近ちょっとした工場用地を探していたときに、あなたに管理を任せていた土地の一部がどうも売られて現金化されているようだ、というのを知ったのだけど。それはあなたの指示?」
ワートン公爵夫人は冷静な態度だったが、口調には明らかに呆れ返っている様子が滲み出ていた。
アーゼルはぎょっとする。
「え? 土地を売る指示は出したことがありませんが……。まさか!」
「じゃあ、その『まさか』でしょうねえ。まったく、勝手に土地が売られているなんてどんな体たらくかしら。それに土地を売ったお金はどこにいってしまったのでしょうね?」
「ああ、母上……」
アーゼルは真っ青になって震えている。
「その土地の売買のことを知ったとき、わたくしはこちらのヘルベルトに相談したんです。ヘルベルトは王都に蔓延る地下犯罪組織のことに詳しかったから」
ワートン公爵夫人がそう言うので、リリエッタは驚いた。
ワートン公爵夫人とヘルベルトは以前から付き合いがあったのか! ワートン公爵夫人はヘルベルトに犯罪被害の可能性の相談をしていたという。なるほど、だから私の慰謝料が消えたという話を聞いたとき、すぐにヘルベルトはワートン公爵夫人に連絡を取ろうとしたのだ。
同じ犯人による犯行だと思ったから――。
確かに、ヘルベルトは王都の地下犯罪組織について他の人よりは知識があった。
以前国王が購入した装飾品が店から王宮に運ばれる途中で盗まれたという事件が起こったときに、ヘルベルトは国王から調査し取り戻すように頼まれたことがあったからだった。
その事件には王都の地下犯罪組織が関与していたのだ。
しかし、そういった犯罪に疎いアーゼルは、「地下犯罪組織!?」と言ったっきり絶句した。
「ここの執事が犯罪組織と繋がっていると調べがついていますよ」
とワートン公爵夫人が低い声でゆっくりと言った。
「な……! 母上……!」
「ちょうど土地売買の件を調べてもらっていたところで、リリエッタ嬢の慰謝料のゴタゴタを聞いたものだから、これはよっぽどまずいことになっていると確信してすぐに来たのです。婚約破棄ですら領地で聞いて何をやっているのと情けなく思っていたのに、慰謝料も犯罪組織にだまし取られ……。もう悲しいですよ、わたくしは」
「母上……」
アーゼルは母に叱られ肩身狭そうに小さくなった。
ワートン公爵夫人の方は申し訳なさそうにリリエッタの方を向いた。
「リリエッタ嬢、本当に申し訳ないわ。慰謝料はわたくしが立て替えてもよろしい?」
リリエッタは恐縮して答えた。
「ワートン公爵夫人、私はそんな慰謝料には固執していたわけではないのです。ただ石ころで済ませばいいと慰謝料をまともに払う気がない姿勢の方が嫌だっただけで……。まあでも、アーゼル様は払えと命じたと言っていたので、払う気があったのはよかったです。逆に、払う気があって払われていないのは、アーゼルの邸でよくないことが起こっているのではないかと思いましたが……」
「ええ。慰謝料のこと、わたくしに知らせてくれてありがとう。おかげですぐに動けたわ」
「あ、それはヘルベルトのおかげなのですが……」
すると、リリエッタの従者と一緒にしばらく席を外していたヘルベルトが、数人の男を引き連れて戻って来た。
「ワートン公爵夫人。一先ず執事と出納係を捕まえてきました。逃げようとしていましたよ、まったく」
それから、ヘルベルトはリリエッタの家で捕まえた使者ジャン・ワートンをずいっと押し出した。
ワートン公爵夫人は、身内のくせに家を裏切ったジャン・ワートンをじっと見つめた。
慰謝料が消えた件について、どのときの状況がどのようなものだったのか、ジャン・ワートンからしっかり話を聞こうと思っていた。
しかし、その前にリリエッタが申し訳なさそうに口を開いた。
「すみません、ジャン・ワートンさんを拘束していることなんですけど。以前慰謝料がアーゼル様から送られてきたとき、こちらのジャン・ワートンさんも使者として木箱を開けるのに同席していたんですね。それで私と一緒に木箱には石ころしか入ってなかったのを見ているんですけど……。でも、ジャン・ワートンさんは、アーゼル様には木箱にはお金がちゃんと入っていたと嘘をついたので、どういうことかと思って捕まえたんです。そうしたら、脅されていると白状しましたので、こうして拘束を……」
それを聞くとワートン公爵夫人は眉を顰めた。
「まあ。脅すことまでやるの、こいつらは……」
「ジャン・ワートンさん。あなたを脅したのはこちらの執事さんですか?」
リリエッタは聞いた。
「あ……」
気弱なジャン・ワートンはかなり怯えた様子でちらりと執事を見た。
犯人が誰か言ってはいけないとジャン・ワートンは強く思っていたが、目は口ほどにものを言う。ジャン・ワートンの怯えた目は執事が犯人だと語っているようなものだった。
その視線の意味に気づいたリリエッタは、
「ああ、この執事なのね。分かりました。では、あとはこの出納係たちが仲間かどうかですね。それは一人一人取り調べさせていただきましょう。そうしたら執事の手口や犯罪の証拠も出てくるかもしれませんね」
と言った。
執事は逃げ遅れたことを悔やみ、悔しそうに唇を噛んでいた。
ヘルベルトはうまいこと隠れながら捜査していたのだろう、アーゼルの執事には気付かれていなかったとみえる。
執事は、まさか捕まるようなへまを犯すなんてと心の中で嘆いていた。
ワートン公爵夫人は領地から連れてきた従者たちに大きく頷いて見せた。
執事や出納係の身柄を拘束し、取り調べが全て終わるまで厳重に管理せよとの意味だった。
ワートン公爵夫人の信頼の厚い従者たちは、その指示をよく理解し、執事や出納係たちを連れて部屋から出て行った。
アーゼルは真っ青な顔をしていた。自分の至らなさがよくよく分かったようだ。
横では、エミリーが存在感を極力消そうと努めている。
ワートン公爵夫人は息子の情けなさにため息をつきながら、
「アーゼル。あなたは怠慢だったわね。あなたには家は任せられない。分かったわね」
と言った。
「はい……」
「それからエミリー嬢。こんな体たらくの息子にしっかりしていない嫁はいりません。結婚は認めませんから。お家へお帰りなさい」
ワートン公爵夫人の言葉に、エミリーはぱあっと顔を明るくした。
「あ、ああ、そうですよね!」
アーゼルが家を継げないと分かり、エミリーは手のひらを返したようにアーゼルを斬り捨てることにしたらしい。
そんな浅ましい様子のエミリーを見て、ワートン公爵夫人はうんざりした顔になった。
「ですけどね、エミリー嬢。リリエッタとの婚約中にあなたがアーゼルと付き合っていたという噂もわたくしのところまで届いていますよ。ですから、リリエッタ嬢はあなたからも慰謝料を取れると思うわ。しっかり払っていただくようにお願いしますね」
「えええ~!? なんで私が慰謝料なんて払うんですか? 屈辱です! 私、女なんですけど!」
あまり事の重大さが分かっていないエミリーが唇を尖らせた。
地味女からイケメン公爵令息を奪ってやったとほくそ笑んでいたというのに、なんで逆に私が地味女にお金を払うことになるわけ? 悔しい!
せっかく捕まえたと思ったイケメン公爵令息も家を継げないというんじゃお役御免よ、婚活やり直しだし、ホント最悪!
ワートン公爵夫人はもうまともにエミリーと話す気は失せていた。眉を顰め顔を背けると、
「浮気が原因の婚約破棄は女性側も慰謝料を払って当然です。払わないというのであれば、わたくしからも然るべきところに訴えます」
と冷たく言い放った。
それから不快な者と距離を置きたいというように、しっしっとエミリーを部屋から追い出したのだった。
【6.告白】
アーゼルの執事は、実はあちらこちらで似たような金銭問題を引き起こしており、波紋を広げていた。
アーゼルの管理する財産も大きく減っており、この問題は著しくアーゼルの評価を下げた。
当然のようにアーゼルは廃嫡され、弟のルイスが嗣子に立てられることになった。
アーゼルの執事は、王都の地下犯罪組織の全容に迫るべく、その素性や普段の交友関係、お金の流れなど徹底的に取り調べを受けていると聞く。
リリエッタのところには、謝罪の気持ちでいっぱいのワートン公爵夫人からきっちり慰謝料相当分の金銭が送られてきた。
エミリーの実家のスピンク男爵家も、エミリーが王都の地下犯罪組織の問題に間接的に関与してしまっていることを問題視し、これ以上巻き込まれるのを避けるため、速やかに多額の慰謝料を寄越してきた。これでアーゼル・ワートンや消えたリリエッタの慰謝料、王都の地下犯罪組織の問題とは手を切らせてもらいたいというのがありありと伝わって来た。
また、エミリーを好き勝手にやらせているとどんな事件に巻き込まれるか分からないし、名門ワートン公爵家にも睨まれるかもしれないということで、スピンク男爵家はエミリーを田舎の堅実な領主の後妻にやってしまうことにした。
エミリーは泣いて嫌がったが、保身一辺倒のスピンク男爵はエミリーには厳しい態度を取ると心に決めていた。
よってエミリーの結婚は、彼女が望む華やかな結婚とは程遠いものとなったのだった。
さて一方で、慰謝料の謎が解けたリリエッタの方は、これでアーゼルとのことは完全に整理がついたと嬉しく思っていた。
リリエッタは、今日もなんだかんだ心配して邸まで様子を見に来てくれたヘルベルトに優しい笑顔を向ける。
「ありがとうヘルベルト」
「どういたしまして」
「……」
リリエッタは胸がいっぱいになっていた。
ヘルベルトを見ると湧き上がるこの気持ちは――?
ヘルベルトは変な人だからとこれまで自分を騙してきたけど……。
リリエッタが何も言わずにヘルベルトをじーっと見つめているので、ヘルベルトは「何か様子が変だ」と思ったようだった。しかし相変わらずのヘルベルトは、決してそうとは聞いてこない。
「えーっと。その顔は何かな。俺と旅行行きたい感じかな? それともケーキバイキングに行きたい感じかな? よし、ケーキバイキングなら今すぐ連れて行ってあげれるよ、今から行こうかー」
「なんで急にケーキバイキングなのよ! もう。本当何でも唐突なんだから」
「でもケーキバイキング好きだよね? 寝言でもケーキバイキングって言ってた」
「言ってないし。ヘルベルトの前で寝たことないし! ダイエットしてるし!」
寝言とか言われてリリエッタが赤くなり慌てて全否定すると、ヘルベルトは「ははは」と笑った。
「ダイエット中なんだ、じゃあなおのこと祝勝会にぴったり。背徳感に勝るスパイスはないからね、最高のケーキになると思う。ドーパミンめっちゃ出るって」
「ドーパミン……?」
「で、その後はめっちゃ後悔して、ピタッと甘いものやめれるってうちの弟が言ってた」
「もー。そんなこと言わないでしょ、10歳の男の子が」
リリエッタが呆れてツッコむと、ヘルベルトはツッコまれたことが嬉しいらしくにこっとした。
「じゃ、おからクッキーにシュガーレスティーで乾杯する? 付き合うよ、シュガーレス。なんとなく物足りない祝勝会になるかもしれないけど」
「もう、どうせこの会話、ケーキバイキング行くまで続くんでしょ? 行くわよ、ケーキバイキング。正直言うと、最初っから行きたい気分でした!」
「ははは、ほらみろ。問題解決した時のケーキは格別。大丈夫、今日一日くらいダイエットは気にするな。パーッと行こうよ」
ヘルベルトが、さあ行くぞとばかりに、部屋の出入り口の方へくるりと体を向けたとき。
「ヘルベルト……」
リリエッタはいきなりぎゅっとヘルベルトの背に抱きついた
「おおう!? どーしたリリエッタ。鼻水とか俺の背中で拭きたくなった? いーよ貸してやる、俺の背中は広いから拭きがいがあるぞ。頼りがいあるだろ?」
「ばか……」
「……」
ヘルベルトはリリエッタの腕に手を重ね、そっと体をずらすとリリエッタに真正面に向き合った。
リリエッタは恥ずかしくなってヘルベルトの胸に顔を埋めた。
もう、いきなり何やってんだ私!
こんな私のことヘルベルトはどう思うだろう? 優しいヘルベルトのことだから「キモい」とかは思わないだろうけど、でも「何だ? らしくないな」とかは思うかも。
私もこんな抱きつくつもりはなかったんだけど……でも、なんか体が勝手に。そう、勝手に……。
リリエッタは言葉にならない不思議な感情が胸に込み上げてきて、きゅっと背を丸めた。
すると、それに気付いたヘルベルトがそっとリリエッタの背を撫撫でてくれた。
「リリエッタ。いいよ、泣いても」
リリエッタはなぜ涙が出てくるのか分からなかった。
アーゼルとの関係の終わりにほっとした――。そして、ヘルベルトの優しさと献身が身近にある喜び――。
ヘルベルトはいつも。私に寄り添って付き合ってくれるのだ。何もはっきりとは言わないけど。
「ヘルベルト。私、いいんだ……」
「何が? ダイエットが?」
ヘルベルトがとぼけて言うので、リリエッタは泣きながら笑った。
すると、ヘルベルトがなんだか言葉に詰まりながら、
「しょ、正直、リリエッタはダイエットなんかいらないよ。もう十分、か、可愛いからさ。あ、可愛いって、小さいって意味じゃないよ」
と言った。
「うん」
リリエッタが心の底から満たされる気持ちでヘルベルトの言葉を聞いてると、ヘルベルトは少し緊張が和らいだようで、さっきよりは滑らかな口調で続けた。
「リリエッタは勇気もあるし、心もキレイ。自分に誇りをもって大丈夫」
「うん」
「アーゼル殿がリリエッタを拒否しても、リリエッタのこと好きな人はいっぱいいる。大丈夫。皆に愛されてる」
リリエッタは嬉しくてまた涙が出てきた。
「うん。ヘルベルトも?」
「うん。俺も愛されてる」
またヘルベルトがとぼけて言うので、リリエッタは泣きながら笑った。
「なんでそうなるの。ヘルベルトも私のこと好き?ってこと」
するとヘルベルトは、ほんの一瞬だけ間を空けてから、力強く肯いた。
「うん!」
それからヘルベルトはリリエッタの髪を撫でた。
「俺たち付き合う?」
リリエッタは今度こそ胸がいっぱいになって、ぎゅっとヘルベルトに抱きついた。
「うん。いつまでもそばにいてほしい」
※
ヘルベルトに無理矢理言わせちゃったかなと思わなくもないけど。
付き合うとなったらヘルベルトは毎日顔を見せてくれるようになった。私が会いたがるから時間を作ってくれる。
ヘルベルトはとてもセンスの良い指輪を真面目な顔でくれたが、私が「愛してる?」と聞くと真っ赤になって「アーイアイ」と鼻歌を歌った。
二人で言葉もなくゆっくり座っているときに、ふと指で掌にハートマークを描いてくれたりする。
喋らせるといつも適当でふざけたことばっかりの人だけど、私はとても幸せ。
今度婚約もしてもらおうと思っている。
(終わり)
最後までお読みくださいましてどうもありがとうございました\(^o^)/
とってもとってもとっても嬉しいです!!!
長めの短編、どうもすみません!<m(__)m>
突然ですが変なヒーローを書きたくなり、こんなお話になりました(笑)
たまにこういう人いますよね。私は嫌いじゃないんですが(むしろ好き)、恋人にはしたくないって人もいるかもですね。
分かってる! スパダリとは程遠いってこと……!笑
それでも、もし少しでも面白いと思ってくださったら、
ブックマークや感想、ご評価★★★★★の方いただけますと、
作者の励みになります(''◇'')ゞ
どうぞよろしくお願いいたします!