第64話 夏休みの宿題はお早目に
その日の夜、俺は家のリビングで晩酌中の母さんと向き合っていた。
「そういうわけで、夏休みに友達と旅行に行きたいんだけど」
俺がそう切り出すと、母さんは腕を組んでじっくりと俺を見つめてくる。その目はまるで取引相手を見定める交渉人のように鋭い。
「……ふぅん?」
「いや、その目やめて。普通に健全な旅行だから」
言い訳がましくそう言うと、母さんはわずかに目を細め、ハイボールの入ったタンブラーをくるりと回す。
「まさか、女の子も一緒なの?」
「いや、まあ、そうなるけど」
途端に母さんの口元がニヤリと釣り上がる。その表情はまさしく、面白いものを見つけた時のそれだった。
「由紀ちゃんも?」
「いるけど、何だよ」
「ううん、別にぃ?」
明らかに意味深な笑みを浮かべる母さん。そこに、ダイニングテーブルで携帯を弄っていた愛夏がバッと顔を上げた。
「何それ! 私も行きたい!」
「いや、高校の友達グループでの旅行だぞ」
「いいじゃん、お兄ちゃんばっかズルい!」
愛夏は子供みたいにジタバタと足をバタつかせる。その姿に母さんがクスクスと笑いながらハイボールを一口飲む。
「愛夏、宿題終わらせてからね」
「えぇ!? そんなん無理だよ!」
何せ夏休みは始まったばかり。一週間ちょっとで宿題を終わらせろなんて無茶もいいところである。
「だったら、行くの諦めなさい」
「ぐぬぬ……」
愛夏が悔し気な表情を浮かべているのを見て、母さんはいたずらっぽく微笑む。これは俺に気を使って愛夏を諫めてくれたのだろう。
「ほら、そんな顔してないで、ちゃんと宿題やりなさい」
「うぅ……」
愛夏は目を潤ませながら俺をチラチラと見てくる。
「お兄ちゃん、助けて……」
このパターンは小学校のときによくあったやつだ。三十二歳で死んで戻ってきた今となっては、もう懐かしさすら覚える。
俺はため息をつく。
「はぁ……仕方ない。手伝ってやる」
「えっ、いいの!」
愛夏の表情が一瞬にして明るくなる。さっきまでの涙目はどこへやら、まるで宝くじに当たったかのような勢いで俺の腕を掴んできた。
「奏太。高校の友達と行くんじゃなかったの?」
助け船からわざわざ降りた俺を見て、母さんは驚いたように眉を上げた。
「愛夏も初対面じゃないし、どうせ最終日に泣きつかれても、今回の夏休みは予定が埋まってるからな。先に終わらせたほうがいいと思ったんだよ」
その言葉に、愛夏は満面の笑みを浮かべる。
「やったぁ! お兄ちゃん大好き!」
ぱあっと笑顔を輝かせる愛夏。
「何でこういうときだけ素直なんだか……」
俺は肩をすくめながら、愛夏の宿題を手伝うことにした。
夕方のリビングには、シャーペンの走る音が響く。
「お兄ちゃん、今度の旅行ってどこ行くの?」
問題を解きながら、愛夏がふと尋ねてくる。
「鴨川だ。ほら、千葉で海と水族館があるとこ」
「へぇ、楽しみだなぁ!」
にこにことしながらノートに向かう愛夏を見て、俺はふと、小学校の頃の夏休みを思い出した。
夏休み最終日、泣きながら宿題をやる愛夏。それを半ば呆れながら手伝っていた俺。
「お前、昔から夏休みの宿題ギリギリにやってたよな」
「昔って、小学校のときの話でしょ」
愛夏は頬を膨らませる。
「毎年の恒例行事にしておいてよく言うよ」
「中学から手伝ってくれなかった癖に……」
愛夏は口を尖らせながら、ちょっと拗ねたような表情を浮かべる。
俺は苦笑しながら、愛夏の頭を軽くポンと叩いた。
「悪かった。でも、そろそろ自分でやる努力をしろよ」
「むぅ……努力はする。でも、もし間に合わなかったらまた手伝ってね?」
甘えるように笑う愛夏。
「はぁ……しょうがないな。今回と間に合わなかったときだけだぞ」
俺は仕方なく頷く。
「お兄ちゃん、ありがと!」
照れくさそうに笑う愛夏。
「そういえば、旅行のメンバーって誰?」
「この前、勉強会で家に来てたメンバーだぞ」
「だよね! ナイトさんも来るよね!?」
愛夏の目がキラキラと輝く。ナイトが来ると知って、一気にモチベーションが上がったらしい。
「絶対に行く! 宿題、全力で終わらせるから!」
急にやる気を出した愛夏を見て、俺は苦笑する。
結局、愛夏は死ぬ気で宿題に取り掛かり、夏休みの宿題を終わらせることに成功したのだった。




