第31話 気になるもどかしい二人
私の名前は田中愛夏。
地元の公立中学、大島中学校に通うどこにでもいる普通の中学二年生だ。
家族構成は、共働きであまり家にいない両親と、部屋に引き籠りがちな兄が一人。
こちらも普通の家庭と言えるだろう。都内の実家住みは勝ち組だとお兄ちゃんは言っていたけど、そういうものなのだろうか。
「ただいまー」
日曜日。朝のランニングを終えて帰ると、玄関に見慣れたスニーカーが揃えて置かれているのに気がつく。また由紀ちゃんが来ているらしい。
佐藤由紀。近所の団地に住んでいる幼稚園の頃から付き合いがある二個上の先輩だ。
小学校の頃は、本に齧り付いてばかりのお兄ちゃんを外に連れ出して遊び回っていた。
その頃の由紀ちゃんは男子みたいな見た目をしていた。実際、私も男子だと思っていた時期があるくらいだ。
由紀ちゃんには、感謝している。
外で遊ぶのが好きな私と、引き籠りがちなお兄ちゃんとでは一緒に遊ぶ機会が少なく、それを寂しいと思っていた。そんな私たちを一緒に外に連れ出してくれたのは、由紀ちゃんだったのだ。お兄ちゃんも由紀ちゃんに誘われたら、喜んで外で遊んでくれた。
由紀ちゃんも中学ではすっかりスポーティーな女の子になり、いつの間にかお兄ちゃんとは疎遠になっていた。
詳しいことは知らないけど、由紀ちゃんが女の子っぽくなっていくにつれて二人は遊ぶ頻度が下がっていた。まあ、きっと思春期特有のあれこれがあったのだろう。
そんな二人だけど、いつの間にかまた昔のように仲良しに戻っていた。
特に最近は、お兄ちゃんの高校デビューに協力するという建前で一緒にいることが増えたから、もうすっかりこの家の準レギュラーだ。
お風呂で汗を流してから適当にテレビを付けてリビングでのんびり過ごしていると、階段を下りる音が聞こえた。
視線を向けると、由紀ちゃんがキッチンへ向かっているところだった。
「ふっ、んぅー……麦茶麦茶っと」
彼女は大きく伸びをすると、勝手知ったる様子で冷蔵庫を開けて麦茶を取り出した。
「由紀ちゃん。来てたんだね」
「愛夏ちゃん、よっすー。お邪魔してまーす」
声をかけると、由紀ちゃんはコップを手に持ってカラカラと氷を鳴らしながら緩い笑顔を浮かべた。
「またお兄ちゃん、執筆してるの?」
「声かけても気づかないくらいには集中してるみたい」
何気なくそう問いかけると、由紀ちゃんは麦茶を注ぎながら苦笑する。
「よく我慢できるなぁ」
「いいの。あたしも自由に部屋使わせてもらってるし」
どうやら、ずっとお兄ちゃんの部屋で漫画を読んでいたらしい。
こんなに可愛い幼馴染が自分の部屋にいるのに、黙々と執筆しているなんてやっぱりお兄ちゃんは頭がおかしいんじゃないだろうか。
お兄ちゃんは高校入学前から少し変わった。
以前も小説を書いているようだったが、本格的に小説家を目指すことにしたらしい。
新人賞に応募すると言ったときのお兄ちゃんの顔は今でも覚えている。
あの執念の塊のような目つき。あんなお兄ちゃんは初めて見た。
狂ったようにパソコンに向き合い、食事を全部ミキサーでドロドロにして胃に流し込んでいる姿には恐怖さえ覚えた。
そんな狂った執筆マシーンと化したお兄ちゃんは、高校デビューして眩しい青春を送ろうと頑張っているようだ。理由は小説のためらしいけど。
「学校でのお兄ちゃんはどうなの?」
何となく気になっていため、協力者である由紀ちゃんに最近の学校でのお兄ちゃんの様子を聞いてみることにした。
「相変わらず小説ばっかりだけど、クラスじゃすっかり馴染んでるよ」
興味本位で聞いてみると、由紀ちゃんは少し考え込むようにしてから答えた。
「どうせ由紀ちゃんがフォローしてくれてるんでしょ?」
「そんな大したことはしてないけどね」
嘘だ。コミュニケーションの大半を由紀ちゃんに依存しているお兄ちゃんが由紀ちゃんなしにクラスに馴染めるとは思えない。
「いやいや、お兄ちゃんの高校デビューの最大の功労者でしょ? だって由紀ちゃんちゃんがいなかったら、絶対に陰キャ一直線だったし」
どうせ空気の読めないノンデリ執筆マシーンが、幼馴染を振り回す天然君に見えるように由紀ちゃんが頑張っているのだろう。愚兄の介護を任せてしまって申し訳ない限りだ。
「それは……まあ、そうかもしれないけど……」
由紀ちゃんは少し視線を逸らしながらグラスを傾ける。その様子に、私はニヤリと笑って核心へと切り込んだ。
「由紀ちゃんって、お兄ちゃんのこと好きでしょ」