第30話 愛らしく、美しく、麗しい
それは昼休みに起こった。
食堂で昼食をとったあと、俺たちはいつものように教室へ戻って雑談を交わしていたそのときだった。
阿比留乃子が取り巻きを引き連れて、こちらへと歩いてきた。
阿比留と御手洗はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべており、喜屋武は今にも罪悪感に圧し潰されそうな表情を浮かべていた。
「ねえ、佐藤さん」
「ん、どしたの乃子?」
すぐに異変を察知したヨシノリは防波堤のようにアミの前に立ち塞がる。
「由紀じゃないほうだっての」
じゃないほう。明らかに悪意の籠った言葉に、ヨシノリの表情が凍り付く。
「のこち、やっぱりこういうのよくないんじゃない、かなぁ……」
喜屋武がたまらず口を挟む。すると、阿比留の眉がピクリと吊り上がった。
「へぇ、メイはそう思うんだ」
「っ! い、いやぁ、そんな気がするなぁってだけで、のこちが何を言うのも自由っていうか、さ」
慌てて弁解する喜屋武に対して、阿比留は冷たい視線を向けた。
周りで見ていた生徒たちは誰ひとりとして止めに入ろうとはしなかった。そんなことができる空気じゃなかったからだ。
ナイトでさえも下手な行動が取れずにたたらを踏んでしまっている。
「同中の友達がさぁ、高校で出来た友達から面白い話聞いたらしいんだよね」
そう言いながら、阿比留は無駄にデコられた携帯を取り出した。
「変な名前の佐藤って女子がいたって」
「っ!」
変な名前の佐藤。その単語を聞いた瞬間、アミの表情が恐怖に歪んだ。
「あんたの本名ってさ――」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら阿比留が口を開いた、その瞬間。
「愛美麗って書いてアフロディーテって読むんだろ?」
俺はそれに被せるように言った。
教室内が一瞬静まりかえる。
阿比留は言葉を詰まらせ、アミは驚愕の表情を浮かべた。
「ど、どうして?」
アミが戸惑いながら俺を見る。俺は肩をすくめて答えた。
「自己紹介のときフルネームを名乗らなかったのが気になってな。言い回しも微妙に引っかかったし。嘘はついてないけど、何かを隠そうとしてる感じだった」
アミは小さく息を飲む。
「あと、出席番号順なのに由紀の後ろの席にいるのも引っかかったんだ。大方、事前に学校側に相談して同じ佐藤の由紀の後に乗っかる形で自己紹介をして下の名前を誤魔化したいんじゃないか、ってな」
俺は探偵が推理を披露するようにわざとらしくアミの周囲を歩き回りながら話し続ける。
「あとは簡単だ。愛しく美しく麗しい、そんなイメージから連想できるキラキラネームは愛や美の女神だろうよ」
「いやいや、それであーちゃんの本名がわかるとかおかしいでしょ」
由紀が呆れたような顔をする。
「伏線管理は大事だからな。作者的には、あれはもうほぼほぼ答えだった」
「作家脳……」
ヨシノリは呆れたような表情を浮かべつつも、俺にアイコンタクトを送ってきた。
どうやら、彼女は察してくれたようだ――この茶番の意図を。
阿比留は意表を突かれたのか、少し口を開けたまま硬直していた。
「てか、親御さん芸術系の人?」
凍り付いた空気の中、俺だけが平然と聞く。
「は、はい。何でわかったのですか。お父さんは作曲家で、お母さんは彫刻家ですけど」
「だって、アフロディーテってギリシャ神話の女神の名前だし、芸術家って、そういう名前にこだわりありそうだなって」
アミの肩がほんのわずかに緩んだ。緊張が解けたのか、表情にも少し柔らかさが戻る。
「せめてヴィーナスだったら、もっと気が楽だったろうにな」
「ふぇ?」
想像だにしていなかった言葉だったのか、アミは目を丸くした。
「アフロディーテって〝アフロ〟って入ってるだろ。それで響きが面白くなって、揶揄われてたんだと思うぞ」
「違う、と思いますけど……」
即座にアミからツッコまれたが、俺は気にせず続ける。
「同じキラキラネームのナイトを見てみろ。この見た目の上に陽キャだから許されてるが、俺がナイトだったら『寝言は寝て言え、すっこんでろカス』って罵られて終わるだろ?」
「いや、終わらないでしょ」
今度はヨシノリがすかさずツッコミを入れる。
「でも、ナイトがそうならないのは、名前負けしないくらいに容姿も中身もイケてるからだ。名前負けしないのなら、キラキラネームも武器になる」
「武器に?」
アミは目を瞬かせながら俺を見る。
「人の記憶に残るっていうのは強みだ。たとえバカにされたとしても、責められるのは親だ。アミに責任は発生しないんだから、ノーリスクで使い放題ってわけだ」
その言葉に、アミの目が少しだけ輝いた。
「それに考えてもみろよ。アミは見た目からしてもアフロディーテって名前に負けてないと思わないか?」
俺はアミの顔をまじまじと見つめる。大きな瞳に、整った顔立ち。華やかさと柔らかさを兼ね備えた美貌は、確かにギリシャ神話の女神の名を冠しても違和感がない。
「ふふっ、そうね。何なら、あーちゃんはアフロディーテ超えてるかもね!」
「あっはは、確かに! 女神超えも夢じゃないね」
ヨシノリが冗談めかして笑うと、ナイトもつられるように口元をほころばせた。
少し前までの緊張した雰囲気が和らぎ、場の空気が柔らかくなる。
「名前といえば、さ」
ふと、ヨシノリが思い出したように口を開く。
「あたしも男子みたいな名前って笑われたことあったんだよね」
「えっ、由紀って普通に女の子の名前なのに?」
そんな彼女を見て、由紀がふっと笑い、自ら過去のあだ名をバラした。
「実はあたし、中学までのあだ名〝ヨシノリ〟だったんだよね」
「よ、ヨシノリ?」
「読書好きで人より早く漢字が読めたどこかの誰かさんが、由紀ってヨシノリって読めるんだって言ったせいで、そんなあだ名が付いちゃったの」
俺は苦笑しながら目をそらした。
やっべ、俺が付けたあだ名だったのかよ……すっかり、忘れてた。
「それが嫌で中学までの知り合いがいない学校に行こうって思ってさ」
「俺はいるけどな」
「カナタに呼ばれるのは嫌じゃないから」
俺の言葉に、由紀は屈託なく笑う。その表情に、俺も思わず口元を緩めた。
そして、俺たちは再びアミを見る。
「こういうのって、気にしたら負けなんだよ」
ヨシノリは笑ってアミの肩を叩く。
「あーちゃんがどんな名前でも、可愛くて素敵な女の子に変わりはなんだからさ」
「……由紀ちゃん」
アミの表情が少し和らぐ。
「それに、人の名前を笑うような性根の腐った奴はどうせ碌な人生を送らないんだ。気にせずアミは自分の人生を歩めばいいんだ」
俺がわざとらしく阿比留を睨んで告げると、教室中の視線が阿比留へと向く。
教室の空気は言外に「お前が悪い」と彼女の存在を吊し上げにしていた。
「な、何よ……何なのよ!?」
教室中から向けられる無言の圧に耐えきれなくなったのか、阿比留は視線を逸らして教室から出ていった。
「あっ、ちょっと、乃子!?」
それに続くように御手洗も教室を出る。
最後に残されたのは、取り巻きの一人である喜屋武だった。
喜屋武は俯いたままだったが、意を決したように顔を上げた。
「あ、あのさ!」
その目には涙が浮かんでいて、声も震えていた。
それでも、必死に言葉を紡ぐ。
「わっさー!」
勢いよく頭を下げて告げられた言葉に、その場にいた全員が言葉を失う。
確か〝わっさー〟は沖縄の方言で〝ごめんなさい〟という意味だったはずだ。
苗字から察するに沖縄出身なのだろうが、本人はそのことを隠したがっているようだった。
むしろ、沖縄出身とか個性の塊なんだから方言とかもどんどん出して行けばいいのにとは前から思っていた。
もし変わるなら今だ。今ここで変われば、まだお前は引き返せる。
「そういえば、喜屋武は沖縄出身だよな。確かごめんなさいって意味だったよな」
俺は方言が伝わっていない周囲に伝わるようにフォローを入れる。
「どーしがや……?」
どうして、と驚いている喜屋武はスルーして続ける。
「アミ。どうするよ?」
俺が視線をアミへと向けると、今度は教室中の視線がアミへと向く。
「私は気にしてないです。というよりも、喜屋武さんとは仲良くしたいと思っています」
アミがそう告げると、喜屋武は驚いたように目を見開いた。そして、彼女の目から涙が溢れてきた。
こうして昼休みのアフロディーテ事件は、逃げた阿比留と御手洗、勇気を出して謝罪した喜屋武、それを許した心優しいアミという形で幕を閉じた。
これによって、アフロディーテという名前を笑うのは悪という空気が教室に固定された。
となれば、阿比留たちも今後はアミに攻撃はしづらくなるはずだ。
「てかさぁ、カナタって鳴久と仲良かったっけ」
「いや、喜屋武って沖縄特有の苗字だし、しゃべっているときのイントネーションがちょっと変なときがあったからな。あと、沖縄出身って美人多いだろ? 喜屋武はかなり顔立ちが整ってるほうじゃん」
「最後のは偏見が過ぎるでしょ……」
ヨシノリが呆れたように深いため息をつく。教室内の空気も少しずつ和らぎ、さっきまでの張り詰めた雰囲気が嘘のように消えていく。
弛緩した空気の中、ナイトは教室の中心に立って教科書を軽く叩いた。
「さて、一件落着ってことでそろそろ授業の準備をしようか」
それを見た周囲の生徒たちも、それぞれの席に戻り始めた。
自分の目論見通りにことが進んだことで、俺は小さく息を吐いてアミに告げる。
「これで少しは気が楽になったか?」
アミは一瞬驚いたような顔をしたあと、静かに微笑んだ。
「はい……ありがとうございます、カナタ君」
俺の言葉に涙を浮かべながらも、アミは柔らかく笑う。
その笑顔は名前に負けず、愛らしく、美しく、麗しい笑顔だった。
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