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第196話 クズベーシスト

 軽音部の部室に向かう途中、廊下の先で男女が揉めているのが見えた。

 女子の方には見覚えがある。アミや喜屋武と同じバンドでドラムを担当している桃太郎だ。

 もう片方の男子生徒は誰だろうか。


「うげぇ……クズベーシスト」


 喜屋武が露骨に眉をひそめて小声で呟く。

 彼女のその反応に、俺は自然と足を止めた。

 喧嘩というほどではないが、あの距離感と緊張感はただの立ち話ではない。

 桃太郎は壁際に立ち、男子生徒の言葉を真正面から跳ね返している。


「クズベーシスト?」


 俺が尋ね返すと、喜屋武がため息をついて答えた。


「多田野遊。Tranquilizerのベースで二股してたクズさー」


 喜屋武の言葉に、俺は目を細めて二人の様子をよく見る。

 確かに、多田野遊と呼ばれた男子生徒は、チャラついた雰囲気を全身から漂わせていた。それ以上に、どこか他人を舐めているような軽薄さが、態度の節々ににじんでいる。


「桃……そろそろ返事がほしい。そもそも、あれは誤解だ」

「……知らない。帰って」


 桃太郎の声音は冷たかった。明らかに拒絶の意志が込められている。だが、男は諦める様子を見せない。

 確か桃太郎は元々Tranquilizerのドラムを担当していたと聞いた覚えがある。

 なるほど、解散した後にメンバーを補充して再結成したいから戻ってきてほしいという流れか。


 その場に割って入るべきか、少しだけ迷った。

 けれど、桃太郎の表情に浮かぶわずかな苛立ちと、言葉を返さず睨みつけるその無言の圧に、俺は自然と足が動いていた。


「よう、廊下で立ち話なんてしてどうしたんだ?」


 軽い口調で声をかける。

 俺に気づいた多田野が、振り返って目を細めた。


「確か……佐藤の取材してる小説家の田中?」


 その表情には敵意はなかった。

 むしろ懐っこさすらある笑顔で、彼はぐっと手を差し出してくる。


「一年A組の多田野遊。田中の話は桃から聞いてた。顔は初めて見るけど」


 その言い方に、桃太郎が顔を顰めるのが横目に入る。

 俺は表情を崩さないよう注意しながら、その手を一拍遅れて握った。


「一年B組の田中奏太だ。小説家で、今は漫画原作もしてる」

「へぇ、意外とイケてるじゃん」


 軽口の一つでも挟んでくるあたり、まったく悪気のなさそうな雰囲気を漂わせている。


「桃太郎。放課後に練習だったろ。そろそろ時間じゃないか?」


 俺はそう言って、さりげなく会話の方向を変える。


「そういうわけさー。わかったら、さっさと桃太郎を返して」


 俺の言葉に乗っかるように喜屋武が多田野を威嚇するように睨む。


「んー、そうか。じゃ、今日はこれで引き下がるよ」


 多田野は苦笑いを浮かべながら、手を軽く上げてその場を離れていった。

 去り際、俺の肩をぽんと軽く叩いてくる。


「またどっかでゆっくり話そ。クリエイター同士ってやつ?」

「ああ、気が向いたらな」


 それだけ返して見送る。

 多田野の背が完全に見えなくなってから、ようやく桃太郎が小さく息をついた。


「……ありがと。助かった」

「いや、礼を言うほどのことじゃない。あんなの相手にしてたら、時間がもったいないだろ」


 桃太郎は少しだけ口元を緩めたが、その目はまだどこか暗かった。

 あいつが何をしたかまでは知らないが、少なくとも簡単に水に流せるようなことではなさそうだ。


「大丈夫か?」


 俺がそう尋ねると、桃太郎はほんの一瞬だけ目を伏せて、そしてゆっくりと頷いた。


「うん……もう、大丈夫」


 あんまり大丈夫ではなさそうだ。

 うーん、これはトラブルの予感……。



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