第178話 佐藤
夕焼けに染まる空の下、部活を終えた漫研の部室から、俺は一人で廊下に出た。
すでに教室の明かりは落ちはじめ、部活動に勤しんでいた生徒の多くは帰宅準備をしている。
校門前で待っていると、鞄を肩にかけたヨシノリがのんびりと現れた。
「お待たせ、カナタ」
「部活お疲れさん。それじゃ、帰るか」
軽く言葉を交わし、並んで歩き出す。
道すがら、ヨシノリがつまらなそうに言った。
「今日カナタの家寄ってもいい?」
「紀香さんは仕事か」
「そこまで遅くはならないと思うけど、夕飯は田中さんの家でご馳走になりなさいってさ。若菜さんにはもう話通してあるって」
「相変わらず母親同士仲良いなぁ」
紀香さんと母さんは俺たちが幼稚園で仲良くなってからよく話すようになったらしい。
今でも交流は続いており、休みの日が被ったときは一緒にランチをしたりする仲である。
「そういえば、親父さんは?」
「あー、パパね……」
何だかんだでヨシノリの父親には会ったことがなかった。
基本的に家にいないし、一回も学校行事に来ていた記憶はない。
まあ、それはうちの父親も同じなのだが。
「パパは仕事人間だからね。なんか忙しいらしいんだけど、何してんのかよくわかんない。スーツ着てたからサラリーマンなのは間違いないけど」
「休日もいないのか?」
「四六時中仕事してるみたい」
大丈夫かよ。労基に行った方がいいのではないだろうか。
「……あれ?」
改札を出たところで、ふと、視界の端に見知った顔があった。
スーツ姿でネクタイを緩め、手にビジネスバッグを提げているサラリーマン。
俺の担当編集である佐藤さんだ。
「おや、田中先生」
気づいた佐藤さんが、柔らかい笑みを浮かべてこちらに歩いてきた。
「偶然ですね。部活の帰りですか?」
「はい。佐藤さんこそ、今日は仕事終わりですか」
「ええ。ちょうど打ち合わせのあと、直帰で。ここの駅、僕の最寄りなんですよ」
「俺もです。地元、同じだったんですね」
そんな他愛ない会話をしていると、隣のヨシノリが固まったようにピタリと足を止めた。
大きな目が佐藤さんをまっすぐ見つめた後、ヨシノリは大きな声で叫んだ。
「パパ!?」
その声に、俺は思わず振り返った。
佐藤さんもまた、まるで時が止まったようにヨシノリを見返していた。
「……由紀?」
そういえば、佐藤さんの下の名前って由弦だったよな。
由弦、紀香……なるほど、夫婦の名前からとって由紀か。
「まさか……佐藤さんってヨシノリの親父さん?」
「えっ、じゃあ田中先生って……田中さん家の奏太君なのかい!?」
そこまで認識していたなら気づけよ、と思ったが、まだ本名は教えていなかったから仕方ないか。
お互いよくある苗字だし、まさかそんな偶然あるわけないと可能性を排していたこともここまで気づかなかった理由なのだろう。
「ちょっと待って、なんか混乱してきた」
ヨシノリが宇宙猫のような表情になっていた。
無理もない。今日の今日まで〝ただの忙しいサラリーマン〟だと思っていた父親が、まさか幼馴染の担当編集だったなんて理解が追い付かないだろう。
「由紀、言ってなかったんだけど。パパ、出版社に勤めてるんだよ。ライトノベルの編集者をやっているんだ」
いつもの落ち着いた編集者の顔ではなく、どこか気まずそうで、肩をすぼめるような、弱い父親の表情だった。
「……知らなかった」
ヨシノリの声はかすれていた。目線は下に落ち、口元は震えていた。
「ずっと、ただのサラリーマンだと思ってた。朝も早いし、夜も帰ってこないし……仕事って言うから、そうなんだと思ってたのに」
唇を噛みしめる様子から、複雑な感情が渦巻いていることが伝わってくる。
「いや、その……聞かれなかったから。話すタイミングを逃してた、というか……言い出しづらくてね」
佐藤さんの言葉は、どこか自嘲気味だった。
俺は黙って二人のやり取りを見守るしかなかった。
佐藤さんは仕事熱心な反面、家庭を疎かにしがちだと言っていた。
その溝が少しでも埋まればいいと思う。
「でも、なんか、うん。ちょっとだけ、納得した」
ぽつりと、ヨシノリが言った。
それは怒りでも戸惑いでもない、少しだけ和らいだ声だった。
「お仕事、ちゃんとしてるんだね。小説家と一緒に頑張ってるって、カナタの話聞いていい仕事だなって……思った」
佐藤さんは驚いたように目を見開いたあと、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう、由紀」
そう言って、優しくヨシノリの頭に手を置いた。
ヨシノリは、くすぐったそうに少しだけ身を引きながら、それでも何も言わなかった。 夕暮れの空の下、ようやく父と娘が、同じ場所で少しだけ近づけた気がした。
「まあ、積る話もあるでしょうけど……一旦、うちに来ませんか?」
俺はせっかくなので、ヨシノリと一緒に彼を招待することにした。
「えっ、でも……」
「紀香さんからヨシノリを預かるよう言われてるんです。佐藤さん――由弦さんもどうですか?」
「ママ、たぶんパパがこの時間に帰ってくると思ってなかったみたいだしね」
ヨシノリが苦笑し、佐藤さんは申し訳なさそうに頭をかいた。
「……せっかくだし、お言葉に甘えさせていただこうかな」
俺の提案に、由弦さんはぎこちない笑顔を浮かべて頷くのであった。