第174話 最悪のシャル・ウィ・ダンス
ヨシノリに背中を押されたその日のうちに、俺は東海林先輩に連絡を取った。
[田中奏太:今日、少しだけお時間いただけませんか? 例の公園で、放課後。どうしてもお話したいことがあります]
返信はすぐに返ってきた。
[東海林美晴:わかった。聞くだけは聞くよ]
淡々とした文面。それでも来てくれるという一言に、安堵が広がった。
橙に染まった空の下、あの場所に立っていた。
先輩と向き合ったのは、あの日、筆を折った理由を聞かされた公園のベンチ。
今日も変わらず、風は優しく木々を揺らしていた。
先に着いていた俺に、東海林先輩がゆっくりと歩み寄ってきた。
「珍しいね。こんなに急に呼び出されるなんて」
「……今しかないって思ったんです」
心の中で何度も反芻した言葉を、俺は口にした。
「東海林先輩。お願いがあります。〝カミラの聖剣〟の作画、引き受けていただけませんか」
数秒の静寂ののち、東海林先輩は小さく息を吐いて、微笑んだ。
「冗談でしょ」
「本気です。東海林先輩しかいません。トト先ではダメだった。読者に届けたい形にするには、小池ケイコの力が必要なんです」
「都々ちゃんが意地でもやるって言ってるんでしょ。話題性だってある。何も私を巻き込む必要ないじゃない」
トト先は現状やりたがっているだけで正式に依頼したわけではない。
担当編集の根本さんだって、トト先にやらせたがっているだけ。
断っているのにやりたがっているトト先の申し出を断るのは申し訳ないが、不義理にはならない。
「話題性も大事です。でも、それ以上に大事なのは作品の本質です。俺の考えているキャラも世界観も、東海林先輩は――」
「やらないって言ったはずだけど」
その言葉には、思った以上に冷たい響きがあった。
「先輩はもう筆を折ったって、知ってます。でも、先輩があの時口にしていたイメージ……キュリアの解釈も、獣人の構造も、寸分違わず俺の考えていた通りだった」
「腐っても漫画家志望だったからね。獣人が得意なのは、動物図鑑を死ぬほど模写したおかげかな」
先輩の目が伏せられる。
「それでも何も掴めなかった。何者にもなれなかった。いくら描いても誰にも届かなくて、褒められるのは都々ちゃんばっかりで……わかる? 自分が全力で描いた漫画を、隣にいる子がささっと描いて、全部持ってっちゃうの」
「それでも、俺は東海林先輩に描いてほしいんです。描ける人が他にいないんです。先輩が一番、俺の物語を理解してくれてるから――」
「やめてよ!」
鋭い声が響いた。
「田中君にはわからないよ!」
東海林先輩の声が、鋭く部室に響く。
「賞も取って、コミカライズも決まって、小説家で漫画原作者になった君に……私の気持ちなんて、わかるわけない!」
その叫びには、怒りよりも、悲しみと悔しさの色が濃かった。
抑えてきた感情がついに溢れ出すように、先輩は肩を震わせる。
「……わかりますよ」
俺は静かに答えた。
「才能なんてない。努力したって報われない。それでも、全てを捨てて努力してしまった末路は、悲惨なものです」
視線を下げる。足元にあった、かつての自分の影を思い出す。
「誰にも認められず、何者にもなれず、何も成せないまま死んでいく。大抵の場合は、そんな未来にたどり着くでしょうね」
それが一周目の俺だった。
でも、それでも。
「それしかできないんですよ。俺たちは」
視線をあげる。目の前の先輩をまっすぐに見据える。
「俺の原点は、ヨシノリが初めて俺を〝すごい〟って褒めてくれたことだった」
幼稚園のときの小さな劇。
オヒメジャクシという子供が考えた稚拙な脚本だった。
それでも、自分の考えて生み出したものをすごいと言ってもらえた。感動してくれた。
その感覚を忘れられるはずもなかった。
「自分の作り出したもので、誰かの感情が動く……その瞬間が、たまらなく嬉しかった。何よりも生きてるって実感できたんです」
息を吸って、思いを吐き出す。
「俺は、執筆作業が大嫌いです」
「……え?」
思わず険しい表情を浮かべていた東海林先輩の表情が素に戻る。
「いやいやいや、嘘でしょ?」
「本当です。俺の考えてることを寸分違わず出力してくれる装置があれば、今すぐ欲しいくらいには嫌いです」
一日中、執筆作業なんてしていたら気が狂う。やらなくていいのなら、できるだけやりたくなんてない。
「俺が好きなのは読者が喜ぶ瞬間と、アイディアを思いついた瞬間だけ。形にする作業なんて、苦しくて面倒で、毎日投げ出したくなりますよ」
「そんなモチベーションで、あの速度で書けるの?」
「書くしかないから、書いてるだけです。書かなきゃ結果は得られない。努力は報われるなんて嘘です――報われた奴らが努力していただけです」
俺の拳が、膝の上でぎゅっと握られる。
「才能がないなんて言い訳、創作では通用しないんです。作りたい物語があるなら、やるしかないんです」
そこで言葉を区切ると、俺は東海林先輩の目を真っ直ぐに見据えて告げる。
「俺は小説家になりたくて、ここにオールインしました。先輩は、どうなんですか」
東海林先輩は目を伏せて、小さく肩を震わせた。
「私は、私は……!」
声が震えて、かすれた。
「私は……漫画家になりたかった!」
言葉が、ついに解き放たれた。
「でも、何も得られなかった! 隣には都々ちゃんがいて、自分の才能のなさを突きつけられて……周りの人たちにも、否定されて……!」
大粒の涙を零しながら、東海林先輩は感情をむき出しにして叫ぶ。
「どんなに努力したって、結果なんて出なかった!」
「結果が出るまでやるのが、努力です」
その言葉に、先輩が息を呑む。
それはきっと、あまりにも無責任で、あまりにも乱暴で、だけど創作者にとって逃れられない真理だろう。
言葉の重みは、皮肉にもそれを口にする俺自身が何年もかけて味わい尽くした地獄の実感に裏打ちされている。
「才能がないって言葉は正確じゃありません。東海林先輩は〝アナログ作画の才能〟と〝夢を追い続けるための環境〟が、たまたまトト先に劣っていただけです」
「……どういう、こと?」
「あなたは、僕の作品の深いところまで理解して、それを形にできた。トト先とは比べものにならないくらい、的確にです」
俺は、あの日の部室を思い出す。
誰よりも正確に、誰よりも繊細に、キャラクターの輪郭を言葉で掘り起こしてくれた彼女の横顔。
それは、俺が文章で紡いだものを、誰よりも深く汲み取ってくれていた者の顔だった。
「それに加えて、高校生離れしたマーケティング能力に、社会性。ほかの漫画家が持ってない武器を、あなたは持っている」
それは、誰にでもできることじゃない。少なくとも俺には、絶対に真似できない。
「冷静に考えてみてください。高校生のサークルが、コミケでこんな成果出せるわけないじゃないですか」
それを引っ張っているのは、他でもない東海林先輩だ。
無意識に、それを当然だと思ってしまうほど、彼女はすべてを自然にこなしていた。
「俺たちのような、センスがなくて、それでも何者かになりたくて苦しむクリエイターにとって……創作は地獄です」
他人には理解されず、自分ですら時には信じられないものに心血を注ぎ続ける行為。
うまくいかない日は、自分の価値を全否定されたような気持ちになる。
だけどそれでも、手を止められない。止まったら、自分が崩れてしまうから。
「でも地獄だって、住めば都ですよ」
俺はにやりと笑って言った。
「というか、先輩。ここから出られなくなったから、まだ漫研にいるんでしょう?」
「それは……」
先輩の表情が揺れる。
それでも、まだどこかで線を引こうとしている彼女に、俺ははっきりと言葉をぶつける。
「東海林先輩。編集さんを説得するための知名度なら、いくらでもなんとかなります。時間だってまだある。何者にもなれないって言うんなら、俺の作品の作画担当になってください」
俺は立ち上がり、軽く頭を下げて手を差し伸べた。
「創作の世界で、俺と一緒に踊ってくれませんか?」
数秒の沈黙の後、東海林先輩がふっと笑う。
「あはは……最悪のシャル・ウィ・ダンスだね、それ」
伸ばした手はしっかりと掴んでもらえた。