第145話 最初のファン
ブースに戻る途中、ヨシノリはトイレに向かうことになり、俺は一人で先に戻ることにした。
何せ女子トイレは《《大人気サークル》》だからな。
人の波に逆らいながら通路を抜け、再び自分たちのスペースへと戻る。空気が少しだけ熱を帯びていた。
ブースに戻ると、相も変わらずトト先がひたすらにスケブの対応をしていた。
集中しているせいか、前髪の隙間から覗く目がやけに鋭く見える。
「戻りました」
「おかー」
トト先は視線を上げず、返事だけ返す。
変わらずブレない姿勢に、なんだかホッとする。
「東海林先輩とゴワスは?」
「二人共トイレ」
「そうですか。ヨシノリもトイレです」
それ以上の会話はなく、再び静かにペンの音が響く。
夏の午後、外の喧騒とは無縁な、この小さなスペースにだけ時間がゆっくり流れていた。
そんなときだった。
「失礼します。田中カナタ先生、いらっしゃいますか?」
声をかけてきたのは、涼しげなリネンシャツにベージュのスラックスを合わせた中年男性だった。
見覚えのあるその顔に、俺はすぐに立ち上がる。
「佐藤さん!」
「やっと辿り着けました。会場が広くて、回るだけでひと苦労ですよ」
佐藤由絃さん。俺の担当編集である。
「今日は挨拶回りなんですか?」
「ええ。お世話になってる作家さんが何人も参加されてるんで、そのご挨拶に」
それから、ちらりと横を見る。
「……とっととカク太郎先生、ですよね?」
スケブから目を離さずにいたトト先が、ようやく顔を上げる。
「いつもお世話になっております。とっととカク太郎です」
淡々と、それでいて礼儀正しく頭を下げる。
どうやら東海林先輩の教育が効いているようだ。
「こちらこそ。今回の部誌、拝見しましたよ。お二人の化学反応、素晴らしかったです」
佐藤さんは目尻を細めて笑う。
「こうして実際にお会いできて良かったです。電話越しではありましたが、いつも的確な対応ありがとうございます」
「先日は失礼いたしました。まだまだ未熟ですが、精進します」
トト先がそう言うと、佐藤さんは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それからふっと表情を緩めた。
「田中先生。カク太郎先生、何かあったんですか?」
「それはもう。彼女の手綱を握れる女子高生離れした教育係がいるので」
俺がそう返すと、トト先は無言でスケブに視線を戻した。
「それでは、私はこれで。次の挨拶に行かねばならないので。お二人とも、今後ともよろしくお願いします」
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
「では、失礼いたします」
佐藤さんは軽く会釈すると、人混みの向こうへと姿を消していった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息をついた。
トト先が失礼な対応をしなくて良かった。
それから佐藤さんと入れ替わるように、大学生くらいの女性がブースへやってきた。
帽子を目深に被っているが、興味津々といった様子でスペースを見渡している。
「すみません、新刊は完売してしまって」
「あはは……わかってます。大人気サークルですもんね」
彼女は残念そうに笑ったが、その目はどこか嬉しそうだった。
熱心なファン独特の、尊敬と喜びが入り混じったような眼差しだ。
「あの、カク太郎先生ですよね」
「はい、そうです」
トト先は手を止め、軽く会釈しようとして固まった。
「もしかして……みゃみゃさん?」
「わぁ、覚えていてくれたんですね!」
彼女は驚いたように目を丸くし、そしてすぐに満面の笑みを浮かべた。
その声には、長い時間を経て再会した喜びがにじんでいる。
「トト先。知ってる方ですか?」
「最初に自分たちの同人誌を買ってくれた人」
その言葉に、俺は思わず目を見張った。
売れる前、まだ誰にも知られていなかった頃から、応援してくれていたファン。
それは人間味の薄れた作画マシーンのトト先にとっても特別な存在だろう。
「ケイコ先生は元気ですか?」
その言葉に、トト先の肩が一瞬だけピクリと震えた。
表情は変えないまま、けれどその仕草が何かを物語っている。
「元気、です」
声は静かだったが、少しだけ震えている気がした。
「良かったぁ……最近作品出してないので心配していたんです!」
みゃみゃさんは胸に手を当てて、ほっと息をついた。
その様子を見て、トト先は目を伏せてから無理に笑って告げる。
「良かったら、サイン。書きます」
「ホントですか! 是非、お願いします」
彼女は感激したように、両手でスケブを差し出した。
その眼差しには、あの頃と変わらない憧れと信頼が宿っている。
「少し待っていてください」
「楽しみにしています」
それからみゃみゃさんは、頭を下げて、足取り軽くその場を離れていった。
彼女の背中を見送りながら、トト先はスケブを抱きしめるように持った。
「あの、ケイコ先生って……」
「みゃみゃさんには言わないで」
その声には、強くも弱くもない、ただ静かな願いが込められていた。
誰かの大切な物語を守るように。自分自身をどこかに留めておくように。
「わかりました」
俺もそれ以上は聞かなかった。
問い詰めることなんて、できるはずもなかった。
スケブを描くトト先の横顔が、寂しげに見えた気がしたから。




