第114話 プロとして
自分の名前は伊藤都々。
いや、今の自分は〝とっととカク太郎〟だ。
それ以外の何者でもない。
「だる……」
ふと、原稿を描く手が、止まった。
締切は明日。ペンは進んでいる。ページは埋まっていく。何も問題はない。
だけど、そのすべてが、どこか遠くの風景みたいだった。
同人作家としては、たぶん、成功している。
毎回コミケではシャッター前の配置をもらい、開始一時間ちょっとで段ボールが空になる。
イラストの仕事も絶えない。
依頼は来たものを片っ端から受けて、スプレッドシートにぶち込んでいる。
「はぁ……」
最近はスランプ気味で、納得のいく仕事ができていない。
だが、クライアントからは高評価をもらい、ファンも喜んでいる。
[カク太郎先生の絵柄ホントすき]
[高校生のときからのファンだけど、年々うまくなってると思う]
[やっぱり恋する女の子を描かせたら一番よね]
こいつらは何もわかっていない。
適当な落書きを出したところで、とっととカク太郎の名前さえあれば絶賛される。
そういうブランドを作ったのは自分自身だが、道標を失った自分がその評価を受けるのは空虚に思えることがある。
「もうイラストレーターやめようかな……」
合理的じゃないとわかっていても、そんな考えがふと頭をよぎる。
昔はそんな言葉が出ることすらなかった。
高校生のときは、もっとシンプルだった。
描く理由も、目標も、いまよりずっと明快で、衝動のままに毎日を積み上げていた。
「文句を言える立場じゃない、か」
成功している。結果も数字も、すべて出ている。
だけど、どこかで《《歯車がズレた感覚》》が抜けない。
人間関係で何か問題が起きたのだろう。もう原因は思い出せない。
気づいたときには距離ができていて、考えるのも面倒だったから、特に深追いはしなかった。
離れていく人間に興味はない。
自分にそんな人間らしい感情なんてないはずだ。
「こういうときは原点に返るものだけど……」
自分に漫画を描くきっかけをくれた人。
いつも前向きで、自分よりも周囲をよく見ていて、足りないところを補ってくれた。きっと、社会不適合者の自分が専業でプロのイラストレーターをやれているのは、あの教えがあったからだ。
その痕跡は、ネットにも、自分のスマホにも、もう何も残っていない。
戻ることも、進むこともできない。
高校二年生のあのときから、伊藤都々としての自分のときは止まったままなのだ。
「田中カナタ、か」
ふと、最近よく見る夢の内容が頭を過ぎる。
高校生のときに、漫研に入ってきた一個下の後輩。
ラノベ作家志望の彼を取り巻く人間関係は面白く、本当にあんな後輩がいてくれればもっと楽しかっただろう。
気になったので検索してみることにした。
案の定、大量にいろんな人物がヒットする。
「そりゃそっか」
スランプ気味のときは、こういう無意味な行動に走りがちだ。
とにかく、今は原稿だ。
それしか自分にはできないのだから。