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第113話 新たな人生のプロローグ

 すごく幸せな夢を見た。

 いや、あれは夢じゃない。もう一つの現実だった。

 薄く差し込む朝の光が、レースのカーテン越しに部屋を優しく包み込んでいる。目覚めた瞬間、ふわりと漂ってきたのは、焼きたてのパンの香ばしい匂い。

 ふと横を見れば、隣のベッドはすでに空で、掛け布団がきれいに整えられていた。


「おはよう、愛夏。もうすぐ朝ご飯できるからね」


 リビングに降りると、キッチンから届いた優しい声。

 騎志さんがエプロン姿でキッチンに立っていた。

 シャツの袖を肘までまくり、手際よくフライパンを操っている姿が朝の光に照らされてやけに眩しく見える。


 今日は土曜日だ。

 平日は専業主婦である私が家事全般を引き受けているけれど、土曜日と日曜日は騎志さんが朝食を作ってくれる。それが、いつの間にか私たち夫婦の習慣になっていた。

 仕事で疲れているんだからゆっくりしていていいのに、と何度も言ったことがあるが、毎回笑ってかわされてしまう。


 本当、昔からそういうところが変わらない。

 きっと、学生時代にモテていたのも、こういうところなんだと思う。


 騎志さんと出会ったのは大学生のときだった。

 出会ったときは同じサークルの先輩という関係だったけど、メンヘラ幼馴染に粘着されていた彼を助けてから私たちの関係は変わり、恋人同士となった。

 結婚した今ではすっかりあのストーカー女もおとなしくなって幸せな毎日を送ることができている。


「おはよう、騎志さん。いつもありがとね」


 私はゆっくりとダイニングへ向かい、椅子に腰を下ろす。

 朝食のテーブルには、ふっくらと焼き上がったスクランブルエッグと、香ばしいトースト、フルーツヨーグルトに、丁寧に入れられた紅茶の湯気が立ち上っていた。


「ははっ、いつも作ってくれてるのは愛夏のほうだろ」


 彼は照れたように笑いながら、マグカップを二つ並べて席に着いた。

 こういう何気ない時間が、とても愛おしい。

 結婚してから数年が経った今でも、私たちはこうして静かで穏やかな日々を送っている。

 喧嘩も、すれ違いも、なかったわけじゃない。けれど、何より大切なのは、互いに寄り添い続けようとする気持ちだ。

 ふと、騎志さんがコトリとマグカップを置いた。


「それにしても……お義兄さんとまた話せるとは思わなかったよ」


 その言葉に、私は食事の手を止めた。


「私もビックリしたよ。まさかお兄ちゃんが行った世界の自分に憑依するなんて」


 そう、あれは夢ではなかった。

 突然訪れた《《存在しない夏の思い出》》。

 最初は夢かと思ったがそれは違った。


 ちゃんと、もしもの世界の学生時代の中にこっちのお兄ちゃんの意識があった。

 わずかな時間だったけど、私も確かに、あの時間を生きていた。

 騎志さんは、静かに笑って紅茶を一口すする。


「泣いている君を慰めている内に盛り上がっていろいろやっちゃったけど……あれ、大丈夫かな?」

「誘ったのは私からだから気にしないで。行くとこまで行ってないし、さすがにバレてないでしょ」

「バレたらあっちの僕の評価が終わるんだけどね……」


 お互いに微笑み合う。

 世界を超えて交差した、たった数時間の出来事。

 だけど、それは今の私たちの心の一部になっている。


「お義兄さん、本当にすごい人だよね」

「まさか、もうあっちで小説家デビューに手がかかるなんて……自慢のお兄ちゃんだよ」


 お兄ちゃんは言っていた。

 編集部の人から電話があった、と。

 それはこっちの私が体験した、お兄ちゃんの死を知るきっかけとなる辛い思い出だった。

 でも、今回のことでその辛さは上書きされることになったのだ。


「本当に、すごいよ……」


 騎志さんは、コーヒーを一口すすって、遠くを見るように言った。


「夢に向かって真っ直ぐで、眩しいくらいに僕とは正反対だ。それに、君にもそっくりだ」

「やめてよ、もう……私はあんな執筆マシーンじゃないって」


 死ぬまで執筆するなんて私にはできない。できてもやらない。

 だって、そんなことをしたら騎志さんが悲しんじゃうから。


「いただきます」


 私は手を合わせて、騎志さんの作ってくれた朝食に箸を伸ばした。


「そうだ、騎志さん。私、小説書こうと思うんだ」

「もしかして?」

「うん、ネット投稿になるけど、また世界を繋げられるかもしれないからね」


 お兄ちゃんが書いた小説は、現実をベースにした〝もしもの世界〟を作り上げた。

 だからこそ、私も挑戦してみたくなったのだ。

 こう見えて、お兄ちゃんの読んだ本は全部読破しているし、インプットには自信がある。


「ペンネームは田中カナタでいこうと思うんだ」

「ははっ、ぴったりなペンネームだと思うよ」


 たったひとつの、ささやかで確かな幸せ。

 あの夏の記憶が、今も静かに背中を押してくれている。


 それはきっと、私にとって色褪せない、新たな人生のプロローグだった。


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