第110話 兄妹の時間
騒がしくも楽しかった旅行が終わった夜。
俺は自室で〝オークは語らず、エルフを騙る〟の仕上げにかかっていた。
行き着く結末はもう決まった。
魔法を使って騙った見た目をきっかけに、主人公とヒロインは心を通わせ、内面に惹かれていく。
そして、最後は見た目も内面も良いヒロインと結ばれる。それでいいのだ。
あくまでも物語の中では〝人は見た目じゃない〟という綺麗事を述べつつ、物語を通して〝中身が綺麗な人は見た目も綺麗〟ということを意図的に出して行く。
少し皮肉が効きすぎた気もするが、伝わらない人は綺麗事を楽しめるし、捻くれ者は考察をしてニチャニチャできるし、いろんな楽しみ方ができると思う。
「ふぅ……できた」
また一作品書き終えた俺は満足感に浸る間もなく、大賞応募用の梗概の作成とネット投稿の準備に取り掛かる。
この物語のマーケティング対象は学生よりも社会人。
そうなると、投稿時間も夜の方がいいだろう。
「あとは宣伝をどうするか……」
思考に没頭していると、ノックの音がしてからドアが静かに開いた。
「……入っていい?」
顔を覗かせたのは、パジャマ姿の愛夏だった。
「いいぞ」
ポメラを閉じて俺がそう言うと、愛夏は少し気まずそうに部屋へ入ってくる。
彼女は俺のベッドの端に腰を下ろし、膝を抱え込むように座った。
「なんか、変な感じだよね」
「旅行の後だからか?」
「うん。まだみんなと一緒にいるみたいな気がして。……夢だったんじゃないかって思うくらい、楽しかった」
愛夏の声は、どこか遠くを見るような響きを持っていた。
彼女の横顔を見つめながら、俺は頷く。
「楽しかったけど、ちょっと考えさせられることもあったな」
俺は少しだけ目を細めて、天井から視線を落とした。
「結局、俺はナイトのことを表面上でしか見てなかったんだなってな」
「そんなこと、ないと思う」
愛夏がぽつりと呟いた。
「お兄ちゃんがちゃんと向き合ったから、ナイト先輩も前に進めたんだよ。姫乃さんにああやって言えるようになったの、お兄ちゃんのおかげだと思う」
俺は何も言えずに、黙って愛夏の横顔を見つめる。
彼女の言葉は、真っ直ぐで、痛いくらいに優しかった。
「……俺は姫乃さんの気持ち、ちょっとだけわかる気がした」
「え?」
「幼馴染って、便利なんだよ。どんなに冷たくしても、どんなにわがまま言っても、ずっとそばにいてくれる。俺の場合は周囲とのコミュニケーションをヨシノリに依存してたからな」
「お兄ちゃん……」
それがきっかけでヨシノリとの関係は拗れた。ヨシノリが受け入れてくれたから何とかなったようなものだ。
「きっと、あのまま関係が崩壊してもおかしくはなかった」
「でも、そうはならなかったでしょ」
「今はな。けど、俺の本質は変わらないし、変えられない」
どんなに小手先の技術を取り繕ったところで、俺にとって一番大切なことは執筆活動だ。
周囲と合わせられるようになったところで、いつか歪みが生まれるのだ。
「しょうがないなぁ……」
愛夏はため息をつくと小さく笑って告げる。
「私は妹だからね。何があっても、どうしょうもない社会不適合者のお兄ちゃんの傍にいてあげるよ」
「お前も、いつか結婚して家出るだろうが」
「そのときは旦那もセットで傍にいてあげるよ」
「相当条件が限られるな」
まあ、その条件に該当する人間はいるのだが。
「ありがとな、愛夏」
俺の胸に、じわっと温かいものが広がっていく。
一周目では、愛夏のことなんて気にも留めていなかった。
ただの血縁関係。戸籍上妹という続柄に当たる。それだけの存在だった。
でも、今は違う。
こいつは世話焼きで、素直じゃない――実は寂しがり屋の俺の大切な妹だ。
「……どういたしまして」
少しだけ沈黙が落ちた。
けれど、その静けさは不思議と心地よくて、俺たちはそのまましばらく、並んで座っていた。
やがて、愛夏が小さく伸びをして立ち上がる。
「じゃあ、もう寝るね。おやすみ、お兄ちゃん」
「おやすみ、愛夏」
部屋の扉が閉じられたあとも、俺はしばらくその余韻に浸っていた。
優しくて、まっすぐなあいつの言葉。
この二周目の人生で、俺の周りから友人たちが離れていったとしても、あいつは傍にいてくれる。
そんな気がした。