第108話 編集部の佐藤さん
砂に塗れて髪がぐしゃぐしゃになったアミを連れ帰ってくると、コテージの中にはふんわりとした香ばしい匂いが漂っていた。
リビングへ向かうと、そこにはエプロン姿の愛夏がいた。手際よくフライパンを操り、焼かれた食材がジュワッと音を立てている。
「お兄ちゃん、おかえり。アフロディーテさんいた?」
「この通り」
「ご心配をおかけしました……」
アミが申し訳なさそうに頭を下げる。砂が散るからあまり動かないでほしい。
「朝ごはん。できるまで、もうちょっと待ってて」
振り返りもせず、淡々と言う愛夏。節約のために素泊まりにしたけど、なんで自然に全員分の朝食を作っているのだろうか。
「それじゃ、アミはさっさとシャワー浴びてこい」
「はい……なんで何も覚えてないんでしょう」
アミはトボトボと風呂場へと向かう。
「愛夏。俺ちょっと電話してくるから、飯できてたら先に食っちゃってていいぞ」
「うん、ごゆっくりー」
愛夏に見送られてコテージの庭に出る。
俺はスマホを手に取り、着信履歴から昨日の夜に連絡があった編集部の佐藤さんへ折り返しの電話をかけた。
コール音が数回鳴ったあと、相手が応答する。
『はい、株式会社丸川シンフォニア文庫編集部の佐藤です』
「ご連絡が遅くなり、申し訳ございません。昨日お電話いただいた田中カナタです」
『田中先生、おはようございます。お忙しいところ折り返しのお電話ありがとうございます。早速ですが、現在大賞へ応募されている作品についてお話しさせていただければと思います』
佐藤さんの落ち着いた声がスマホ越しに響く。
『まず、田中先生の作品ですが、第三次選考を通過しました。おめでとうございます』
「ありがとうございます」
知っていることとはいえ、思わず拳を握りしめる。今までの努力が形になり始めていることを実感し、胸が高鳴った。
『最終選考を進めていくにあたって、いくつか確認させていただきたいことがございます』
「はい、お願いします」
『まず、入選した場合の受賞意思についてですが、田中さんとしては受けるおつもりで間違いないでしょうか?』
「もちろんです」
『ありがとうございます。それでは、選考が進んだ場合、改めて詳しいお話をさせていただきますね』
佐藤さんが少し間を置き、次の確認に入る。
『次に、盗作や著作権に関わる問題がないかの確認です。応募作は完全オリジナルで間違いないでしょうか?』
「はい。すべて自分で考えたものです」
『承知しました。それでは、応募作のアピールポイントについてお伺いできますか? 田中先生ご自身が考える、この作品の売りや特徴を教えてください』
「高校時代に戻った主人公が青春と創作活動を両立しながら成長していく物語で、幼馴染との関係性が軸になっている王道ラブコメ――という皮を被りつつ、ラストではタイムリープではなく、実は主人公が書いた現実をベースにした作品世界への異世界転生だったというところですね」
こんなものは考えなくても自然と出てくる。特に手癖で書いた作品だからな。
『なるほど、確かにそこは私も驚かされました。どんなご都合展開も〝主人公が書いた世界への転生〟という伏線になるのは予想できませんでしたよ』
「ありがとうございます。王道であり、邪道でもある。そんな作品になったと思います」
佐藤さんは電話口の向こうで満足そうに頷く気配を見せた。
『私もそう思います。最後に、田中さんの好きな小説や作家についてお聞かせいただけますか?』
「そうですね……好きな作品で言うと、一番影響を受けたのは小学校の頃に読んだ赤い鳥文庫の〝名探偵夢水木喜郎事件ノート〟と〝キーワードシリーズ〟ですね。そこからはミステリー小説を中心に読んでいて、西野圭二先生の作品で〝容疑者Yの献身〟は今でも読み返すほどに好きです。それから、尾道先生の作品も好きで、特に叙述トリックの巧みさに憧れています。ライトノベルではキャラ同士の掛け合いが面白い作品が好きで、作家読みより気になった作品を読むことが多いです。中でも〝アホと試験と使い魔ちゃん〟が一番好きですね。あの作品は会話のテンポやキャラクター同士の掛け合いが素晴らしいですから。あっ、漫画なら〝名探偵ドイル〟が一番好きです。でも、やっぱり全体的に一番好きなのはミステリーですかね」
『なるほど。ミステリーが好きだからこそ、あのラストなのですね』
ひと通りの質問が終わり、佐藤さんは優しく言葉を続けた。
『それでは、最終選考の結果が出次第、またご連絡させていただきます。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました』
「こちらこそ、ありがとうございました」
電話を切り、しばらくその場に立ち尽くす。
ついに未知の領域にやってきた。
これがどれほどの意味を持つのか、自分自身が一番よくわかっている。
「……よし」
気を引き締め、深呼吸をする。
ここまできたら、あとは結果を待つのみだ。