第106話 あのときは、ごめん
女子部屋の前に立つと、扉は少しだけ開いていた。
鍵はかかっていない。ノックするべきか迷ったが、意を決してそっと扉を押す。
静かに開いた扉の向こうに、ベッドに腰掛けたヨシノリの姿があった。
常夜灯の淡い光が彼女の横顔をぼんやりと照らしている。長い髪が影を作り、寝静まった部屋の中で静かに揺れる。彼女はどこか遠い世界を見つめるような瞳をしていた。
俺の気配に気づいたのか、ヨシノリはゆっくりとこちらを向く。
「久しぶりだね、カナタ」
「成人式のとき以来か?」
そう口にした瞬間、ヨシノリは微笑んだ。
「そうだね。まさか、こういう形でまた会うことになるとは思わなかったよ」
その笑顔には懐かしさと、少しの切なさが滲んでいた。
彼女はどういうわけか未来からやってきたヨシノリだ。
さっきのみんなの反応から察するに、時間軸で言えば俺が一周目で死んだ後の未来。本来ならば、二度と言葉を交わすことができなくなった存在なのだ。
話したいことが山ほどある。
それでも、俺にはまず最初に言わなければいけないことがあった。
「成人式のときは、無神経なこと言ってごめん」
俺は素直に頭を下げた。
成人式の日、俺は久しぶりにヨシノリと再会した。
ヨシノリがどんな気持ちで俺に話しかけてきたのかも知らず、俺は最低な言葉を吐いた。
それは勇気を出してくれた幼馴染には、決して言ってはいけない言葉だった。
「ホントだよ。あれ、マジでショックだったんだからね」
「返す言葉もないよ。その、今更だけど、苦手だったとは言ったけど、本当は俺……ヨシノリのことが――……あれ?」
まただ。また高ぶった気持ちが泡のように消えていく。
確かに胸の内にあった想いの消滅。まるで感情のメーターを強制的にゼロにされたような感覚が俺を襲う。
「あー、こりゃ重傷ね……」
俺の様子を見たヨシノリは原因がわかっているのか、深いため息をついた。
「何か、知ってるのか?」
「まあね。ただ、これに関してはあたしじゃどうにもできないかな。呪いみたいなもんだし」
申し訳なさそうな表情を浮かべるとヨシノリは続ける。
「そんなに気にしなくていいよ。カナタはカナタらしく、この世界で生きていればきっと答えは見つかるから」
ヨシノリは静かに笑い、ゆっくりと髪をかき上げた。
「そんなことよりさ。せっかくできた奇跡の時間なんだし、昔話でもしない?」
俺は彼女の言葉を聞きながら、過去の記憶を掘り起こす。
そうだ。一つだけ気になっていたことがあったんだ。
「なんで前から俺が小説書いてること知ってたんだよ。ヨシノリには言ってなかっただろ。母さん、紀香さん経由か?」
「あんた、覚えてないの?」
ヨシノリは目を細めながら、懐かしそうに息をついた。
「幼稚園のときにやった劇。カナタが考えた脚本でやって、みんなにベタ褒めされたのがきっかけで小説家になるって言ってたじゃない」
確かにそんなことがあった気がする。それはきっと俺が初めて〝物語を作ること〟の楽しさを知った瞬間だったのだろう。
「小説とは違うかもだけど、カナタの最初の作品は今でも覚えてるわ」
「〝オヒメジャクシ〟」
自然と口をついて作品名が出てきた。
「思い出した? 同じ池に住んでいるカエルのお姫様と金魚のお話よ」
俺は思い出しながら、思わず苦笑する。
「確かそんな話だったな……本当に、よく覚えてるよな」
それからヨシノリと昔話に花を咲かせた。
一緒に秘密基地を作ったこと。
団地の祭りでヨシノリが的屋荒しと呼ばれていたこと。
給食の牛乳じゃんけんで俺が勝ったのに、ヨシノリに牛乳をぶんどられたこと。
エレベーターアクションをして紀香さんに怒られたこと。
「昔話ばっかりしてると、歳取った気分になるな」
「まあ、実際歳は取ってるからね」
二人で苦笑する。
「あーあ、お酒があればなぁ」
「この状態じゃお互い飲めないだろ。ちなみに、普段は何飲んでるんだ?」
「基本缶チューハイよ。乳酸菌系のやつ」
「女子だなぁ……俺はシンプルにビールばっかだったな」
ふと、沈黙が落ちる。
「それにしても、どうしてこんなことが起きてるんだ?」
「あたしが聞きたいくらいよ」
ヨシノリは深いため息をつく。どうやら本当に俺のタイムリープに巻き込まれてしまったようだ。
「でも、きっと今回限りのボーナスタイムなんじゃないかなとは思うわ」
それは、この懐かしい時間にもうすぐ終わりが来るということだ。
「そっか」
「そんな顔しないでよ。あんたにはこっちのあたしたちがいるんだし」
「でも、そっちの俺はもういないんだろ?」
「バカねぇ。男は名前を付けて保存。女は上書き保存って言うでしょ。あたしはあんたのことなんてとっくに吹っ切れてるの」
ヨシノリは少し目を伏せてから笑顔を浮かべて告げる。
「こっちにカナタがいたとしても、昔の友達ってだけでどうにもならないわよ。そりゃ、幼稚園くらいのときはカナタのこと好きだったけどさ」
「はえ?」
思わず間の抜けた声が出た。
「女の子がいつまでも自分を好きでいてくれるなんて思わないことね」
「ははは……肝に銘じておくよ」
ヨシノリは俺を見つめ、ふっと微笑む。
「よろしい」
その表情はどこか穏やかで、けれど少しだけ寂しそうにも見えた。
「ふぅあぁぁぁ……もう時間みたいね」
「行くのか」
「ええ。たぶん、こっちであたしが眠ったら戻るんだと思う」
俺の言葉に、彼女は静かに頷く。これでお別れ、か。
「こっちのあたしのこと幸せにしてよね」
「善処する」
「約束をしなさい。あと、あんたも……ちゃんと幸せに、なりな……さいよ。あと、パパとは仲良く、ね……」
そのまま糸が切れた人形のようにヨシノリは眠りにつく。きっと未来に帰ったのだろう。
「ありがとう……さようなら」
夜の静寂の中、俺の呟きは誰にも届くことなく消えた。