砂の城
我々は砂の城を築く。それが100人中100人に認められようが、100人中1人だけに認められようが、誰にも認められなかろうが、それでも一本の筋が通ってなくてはならない。不定形の。それでいて誰がいつどこでどのように見ようが、そうであるとぼんやりと分かるような筋が。核があっちこっちに奔走してはならない。それに核があるとすればだが。観測されることによって変貌するものが何だ。たとえ万人に共通するような普遍の意味を持ち得なかったとしても、それでもなお無様に足掻くのだ。足掻くことそれ自体が有象無象の確固たる表徴となるのだから。そうであるが為に、我々は今ここに立っているのである。そうでなければ果たして一体何になろう。あの無数に積み重なった屍は。あの辟易するほど見上げた壁の染みは。あの波打ち際に拵えた砂の城は。証明するのだ。生きる為に。いや、ただこの瞬間を生き延びる為に。もがくのだ。例えそれが何ともないようにしか思えなかったとしても。何か意味があるようには思えなかったとしても。何かがある、ないの区別は本来我々の領分ではないのだ。だから目に焼き付けるのだ。散りゆく花を。暮れゆく夕空を。とめどない侵食に抗わねばならない。輝かしい栄華に手が届かなかったとしても。夜という夜が無数の星を呑み込んだとしても。まっさらな大地に何も残らなかったとしても。ここに刻むのだ。生きた証を。死せる灯を。
Sandcastles...というアプリの無學という方のレビューより引用
『
「わたしたちは浮かび上がり、まわりを見まわし、そして何かに気がつく前にふたたび消える」
ーーーエルンスト・H・ゴンブリッチ
生きることに意味はあるのだろうか?
厳然たる事実として、人の命はいずれ尽きる。
もし死後の世界を信じないのなら、死んだ後には自分の意識・自我と呼べるものは何もなくなってしまうということになる。
自我が残らないのなら、終わってしまったものは何も意味をなさないのではないか?
あるいは、たとえ自分が生きていたことで他の人物になんらかの影響が残ったとしても、その人物でさえいずれこの世を去り、自我を失う。
したがって、我々の生きることの意味はない。
これはある点で筋が通っているようにも思える。
このアプリはどうだろうか。
我々は砂の城を築く。
それはいずれ波にさらわれ、何も残りはしない。
それなら、我々の城には何の意味もないのだろうか。
あるいは、
』