過去2
「あら、可愛らしいお嬢さんね。初めまして」
「…………」
その笑顔はまるで暖かな日向のようだった。
固まってしまっているアイリスを見て首を傾げるその人は可愛らしく小首をかしげる。
「どうしたのですか?」
「あ……いえ、申し訳ありませんでした。その、余りにもお美しいので言葉を失っておりました……妃殿下」
「まぁ」と言って頬を染める王妃は年齢を感じさせず、少女のようだ。
後ろに控える古参の侍女はアイリスを痛ましげに見つめている。
アイリスがアイリーンだと知る数少ない人物。
名を、リリアと言う。
王妃のお気に入りの侍女のため、王妃と同じくなかなか会うことは出来ない、見目麗しい侍女。
年はアイリスよりも十は上で、いつも落ち着いていてアイリスを気遣う優しいお姉さん、と言う感じだった。
アイリスが目指している人でもある。
綺麗で落ち着いていて優しくて……王妃のお気に入り。
時間があるときにはアイリスの部屋まで来て話をしていく。
話には聞いていた。
王妃がアイリーンの存在を自分の中から消し去ってしまったと。
つまり、忘れてしまったのだ。
表向き流産とされているが、王妃の中では子供が出来てという事実さえない。
だから、アイリスを見ても何も感じない、思わない。
分かっていたはずなのに、「初めまして」と言われて傷ついている自分がいることにアイリスは驚いてしまう。
言い聞かせたし、言い聞かされもした。
『アイリーンは死んだ』
と。
美しくない娘は要らないのだと。
「褒めてくれてありがとう。あなただって可愛らしいわ。あと二、三年もすれば立派なレディになれるわよ」
「……勿体無いお言葉です」
「妃殿下……」とリリアが促し、アイリスは下がって頭を下げる。
頭を下げたアイリスの前を王妃が過ぎ去って行く。
その時、薔薇の香りがアイリスの鼻腔を擽った。
王妃が亡くなった、と聞いた時、アイリスは王妃のお気に入りだった薔薇園に蹲ってそんな事を思い出していた。
薔薇園、と言っても王妃のサロンの窓から見える視界を覆う程度の小規模なもの。
その手前で蹲ってただ、ぼーっとしていた。
今頃葬儀が盛大に行われていることだろう。
王族の墓に護送され埋められる。
護衛はジルが率いる一軍。
陛下も、ジルもリリアもいない。
静かだった。
「何をしているんです?」
「…………」
膝に顔を埋めていたから誰かはわからない。
蕩けそうな美声に背筋がぞわぞわした。
返事をしないのは失礼だと分かってはいたが、今だけはそっとしておいて欲しかった。
無視し続けるアイリスの隣にその美声の主が座り何をするでもなく、空気のように当たり前にそこにいるだけ。
でも、何故か先ほどまでよりも温かかった。
だからか。
ぽつり、と言葉を零してしまった。
「……お母様が死んだの」
返事はない。感じるのは相手の体温だけ。
「でも、悲しくないの。嬉しいわけでもないの。ただ、空っぽになってしまった」
心が。
枷が無くなった気がした。
良くも悪くも、アイリスの全てだった人。
諦めたはずなのに、いつも母を心の中で求めていた。
いつか、名前を呼んで抱きしめてくれることを夢見ていた。
「どんなにお母様が私のことを嫌っていたとしても、私は、嫌いになれなかった」
だから、なのかな。
「私、安心してる」
もう、名前を呼んでくれる可能性はなくなったけど。
抱きしめてくれる腕もないけれど。
拒絶されることも、もう二度とない。
拒絶され、否定されることが怖かった。
そっと頭に温もりを感じた。
大きな手が優しく頭を撫でてくれる。
「……私、一度もお母様に触れることすら出来なかった」
何も言わず、何も聞かず、ただ、優しく頭を撫でてくれる。
涙が、零れた。
「私……お母様が好きだったの」
薔薇園に居るのに、森のような澄んだ香りがした。
そのことを不思議に思って顔を上げれば、その人も涙を流していた。
その涙が余りにも綺麗で、もっと涙が出た。
ぎゅと抱きしめられ、薔薇の香りが消え、大樹を連想させる森の香りが広がった。
この人の匂いだったのか。
……とても温かい。
「……愛して、欲しかったなぁ」
苦しいほど抱きしめられて、初めて会った人なのに今まで会った人のなかで一番安心することが出来た。
しばらくそうしていて段々落ち着きを取り戻したアイリスは、急激に恥ずかしくなってどうして良いかわからなくて硬直した。
おろおろと手を彷徨わせ離れた方がいいのだろうかと悩む。
すると頭上でくすり、と笑い声が漏れた。
「申し訳ありません。年頃の女性に対して失礼でしたね」
「! め、めめめっそうもございませんっ!」
今まで涙で滲んではっきり見えなかったがアイリスの頬が一気に真っ赤に染まる。
その人の蕩けるような微笑と美声で。
白く、緩く編まれている長い髪は角度によって金にも見える。
同じ色を湛えた口元の長い顎髭も上品で汚いところなど1つもない。寧ろ清潔感がある。
微笑むと出来る目じりの皺が人の良さを滲み出しているようだ。
グレン・グレニー。
首長国たるブロレジナ国の公爵閣下であることをアイリスはこのときはまだ知らなかった。
それから程なくしてアイリスは子爵邸に移ることとなる。
グレンが養女に、と申し出てくれたらしいが首長国とはいえ、他国に王女を取られるわけにはいかなかった。
……それ以前の問題なのだが。
アイリスはもう王女ではない。子爵令嬢。
このころ、すっかりグレンのファンになっていたアイリスが少し未練がましく思ってしまったのは内緒だ。
初めての舞踏会。
アイリスは壁の花を決め込んでいた。
始めこそ’陛下の慰めに捧げられた子爵令嬢’として注目はされたが「あれが噂の子爵令嬢か」、と皆がアイリスを見るがその平凡な容姿に直ぐに興味を失って目を逸らしていく。
どうでもよかった。
しかし、久しぶり……と言っても半年もたってはいないが、久しぶりに会ったジルが以前のように微笑みを讃え壁で暇そうにぼんやりと皆が踊るのを眺めていたアイリスをダンスに誘う。
世間ではジルとアイリスが親しくしていることは知られていない。
馴れ馴れしくしては迷惑だろう、となるべく初めて会うかのように振舞った。
途中、ジルが何か言いたそうにしていたが微笑んでそれに気づかないフリをした。
ジルの手が離れ、やっと壁に戻れる、と思ったのもつかの間、その手が信じられないほどの美貌の主に取られる。
ゼノ・ロペス。
昔、一度だけ垣間見た二軍の隊長だった人。
美しすぎて、言葉もでない。
良く出来た顔だな、と思う。
儚げだった母とは違い、居るだけで人を圧倒してしまうほどの美貌。
繊細で弱弱しい風貌の母と違い、繊細なのに力強いその存在。
美しすぎるゼノを、どうしても母と比べてしまうことに自嘲する。
引きずっている。忘れられない。
にこりと微笑まれて、にこりと微笑み返す。
ゼノはそれを驚いたように見ていたが、どうしてなのかさっぱりわからなかった。
どうでもよかったのもあったが。
この後、アイリスに嫉妬した令嬢に、子爵に貰った今は亡き、子爵夫人のドレスを汚されてしまう。
今まで、誰にも嫌われないように無難な態度を取ってきたアイリスにとってそれは衝撃とも言えた。
目立ちたくなかった……その出生から。
嫌われたくなかった……傷つきたくないから。
好かれなくてもかまわなかった。ただ、拒絶の言葉を聞くのが怖かった。
だから、アイリスにとってゼノの求婚は迷惑でしかなかったのだ。
あああ・・・締めくくりのゼノが可哀想・・・ぷぷぷ
過去、あと1話続きます
あのときのアイリスの本心的な?
あと連れて行かれて、が書けたらいいな、と