ジエル修道院(ジエル島)
ジエル修道院は、12世紀から18世紀まで存在した聖月教の修道会麾下の独立修道院。
修道院とは名乗ってはいるが、その実態は大陸北部の北荒海に浮かぶ孤島である。
<<概要>>
12世紀の聖人マルクスが興したとされる修道院であり、島では原則として自給自足の生活が行われる。
14世紀に入ると、自国で面倒事を起こした王族や貴族の子女を受け入れ、彼ら彼女らを生涯島から出さない監獄のような役目を担う事になった。
18世紀の聖月教における宗教改革(第二次神権闘争)によってジエル修道院の実態も取り沙汰され、修道院の閉鎖が決定。島から修道士がいなくなり無人島となった。
<<歴史>>
ジエル修道院は、星暦1150年頃に聖月教の聖人であるマルクスが北荒海の孤島を訪れた事から始まる。
マルクスは島の厳しい環境を目にした上で、ここを修道士の絶好の修行の場とする事を定め、島をジエル島と名付けた。
彼は早速粗末な小屋を建て、そこで日夜聖書を読み、神に祈りを捧げたという。
聖月教の七聖人として列挙されながらも、「自らはまだ修行の最中である」として司祭となることを固辞し、終身修道士である事を誓ったマルクスはこの島で生涯を終えたとされる。
それから200年近くの間、ジエル修道院は20名程度の修道士及び修道女によって運営された。過酷な気候と地形により体調を崩して命を落とす者もいたが、不思議と入島を希望する修道士や修道女は絶えなかったという。
14世紀には修道会の要請により、大陸各国で看過できない問題を起こしたが、処刑するまではいかない王族や貴族の子女を受け入れるようになった。
その始まりは1332年にアーヴァ王国にて連続毒殺未遂事件を起こしたレブランカ公爵家の令嬢であるとされる。(※1 「毒蛇」と称されたアリシア・レブランカの生涯については別項に記載)
子女を受け入れる事で、修道会にはその国や貴族から莫大な「寄附金」が贈られ、その一部はジエル修道院の運営資金に充てられる事になっていた。
例として1477年から1478年に掛けて起きたラナ帝国の醜聞事件(※2 通称「七通の恋文事件」の詳細については別項に記載)では、当時の帝国宰相の元嫡男がジエル修道院に入ることになったが、その際の寄附金は帝国大金貨5千枚であり、その内の約1割が修道院の運営資金となったと記録がある。
ジエル修道院の終焉は、1719年から始まった司祭ロビオ(1676-1748)による第二次神権闘争が切っ掛けであった。ロビオは16世紀の第一次神権闘争の際には敢えて無視されたジエル修道院について言及し、今や大陸各国の王侯貴族の意図を汲む「監獄」と化したジエル修道院の実態について述べ、激しく抗議した。
事実として1700年から1720年までの記録によると、年間で10名から多い時には30名近くの貴族の子女を受け入れる事態となっており、修行どころか満足な食糧も用意できぬままに、1年以内に死亡するケースが増えていたという。
聖月教の神に仕える者を育てる、修道会としての意義を完全に踏み外したこの行為は問題視され、ジエル修道院は閉鎖が決定される。
ジエル島の僅かな建物は全て解体され焼却されるか島から持ち出された。ジエル修道院の修道士及び修道女が島を立ち去る際には、聖人マルクスを称えた石碑と、島で亡くなった者の慰霊碑が黒硬石によって作られた。修道院閉鎖から一世紀以上経った今となっては、それが唯一島に残った修道院の遺物である。
<<島の地形や気候及び生態>>
ジエル島は周辺に一切の島が無い完全な孤島であり、大陸と最も近い地点で約100キロメルタル離れている。島には岩が多いが、高い山は無く川も存在しない。
ジエル島の周囲の海には岩礁地帯が広がり、北荒海特有の気候により常に強風が吹き、島への往来は非常に困難である。
特に晩秋から冬にかけては季節風(ルーケの気まぐれ)が吹き荒れ、船で島に近づく事すら不可能となる。1501年に起きたアーヴァ王国の元王太子を、王妃の命で島から脱出させようとして起きた痛ましい遭難事故は、厳冬期である12月の事である。(※3 バルカン号遭難事故の詳細については別項を参照)
春から夏にかけても風は多少和らいでも変わらず吹き続ける土地柄であり、それが修道士たちの精神を鍛えたとされる。反面として年間降水量はそれ程多くなく、川も存在しない為、生活に必要な水についてはたまに降る雨を溜める必要があった。
島の植物は低木もしくは草、野生化したクロナガイモや黒麦、ソバのみである。動物はヤマネズミや兎の他に、島外から家畜として持ち込まれた山羊が野生化して生息している。
<<島での生活>>
ジエル修道院の修道士及び修道女は、自給自足と清貧の精神の下で生活していた。
島を訪れた者は、まずは礼拝堂(聖人マルクスの建てた小屋の跡地に建てられた)に案内される。そこで島での生活の心得と日々の修行の方法について学び、島で最低限生活できるだけの荷物を渡されることになる。
この際に渡される荷物の内訳は
・修道会発行の聖書
・一週間分の飲料水と山羊のミルクまたはチーズ
・一週間分の穀物(ソバまたは黒麦)と野菜
・穀物と野菜の種
・岩塩または海水塩
・蝋燭と火打石
であり、元王侯貴族等の魔法を使える者に対しては、魔力封じの処置が施された。
修道士達は島中を巡り、洞穴や低木の影に住処を定めて簡易的な住居と礼拝所を建築した。必要な資材については、礼拝堂に行けば支給された。修道士たちはそこで昼間は採集と農耕を行い(※4 畑を耕す為の鍬や鎌等も礼拝堂で貸し出される)、夜間は礼拝と聖書の探求を行った。
1ヶ月に一度、島中の修道士たちは礼拝堂に集まり、聖書の探求の成果を発表し議論しあった。その結果を元にして修道院長が修道士を評価し、評価点に応じて彼らに島外から持ち込まれた嗜好品である果実や砂糖、衣服を与えたという。
修道女については、当初は修道士と同じく島の何処かに住処を定めていたが、やがて礼拝堂の隣に寄り合いの宿泊施設を造り、そこで修道女同士で共同生活する事になった。
修道士と修道女の間で情を交わす事は無かったとされているが、王侯貴族の子女を受け入れるようになってからは、修道女を母親として父親不明の子が何名か生まれていたという。生まれた子は「神の子」としてそのままジエル島で育てられるか、もしくは島外の聖月教修道会の施設で育てられた。最も有名な聖堂騎士の一人であるルーネット・イラヴァはこの神の子であったとされる(要出典)。
修道士及び修道女は、一定の期間修行を終えると(※5 平均して3年とされる)、島外の修道院への異動が許可された。ただしここで異動を望む者は少なく、更に修行を重ねてその数年後に島を出るか、または生涯ここで暮らす事を選んだという。当然ながら、王侯貴族の子女には島外への異動は許可されず、僅かな特例を除けばこの島で生涯を終える事を余儀なくされた。
島で亡くなった修道士及び修道女は、島の一角にある共同墓地に埋葬された。彼らが亡くなる前に着ていた衣服や使用していた粗末な道具は、次にやって来る修道士や修道女の為に洗浄し、丁寧に補修を施されて受け継がれていく事になる。
<<現在のジエル島>>
現在はスラーデ共和国の領土であるジエル島は、今も船での往来が困難な絶海の孤島としてオルティニア大陸遺産及び世界遺産に登録されている。
島には誰も住むことが無く、ジエル修道院の石碑と無人の気象観測所が建つのみである。