ボスコニア獣人国(星暦1579-1629)
ボスコニア獣人国とは、大陸南西部のボスコニア地方に存在した獣人主体による国家。
ボスコニア地方に点在する獣人の部族を統一して建国された。
一部の獣人族を王族として崇拝し、実際の国家運営は各部族から選出された議員による議会政府が行うという統治であり、当時としては極めて近代的な国家であったと現代では評価されている。
ヴェルタ王宮事件を発端としたボスコニア解放戦争により国土は荒廃し、星暦1628年には事実上の滅亡を果たした。
<<ボスコニア地方の統一>>
オルティニア大陸南西部に位置するボスコニア地方は、大森林と草原地帯が広がる地方ではあるが、獣人の部族が少数に分かれて遊牧生活や定住生活を営んでおり、長らく統一国家と呼べる国が存在しなかった。
角鹿の部族出身である獣人ディアルト・パーガ(1531-1596)はこれを憂い、ボスコニア地方の獣人の部族を統一し、獣人による国家を建国する事を目的として動き出す事になった。
ディアルトは商人としてボスコニア地方の外へと旅立つことが多く、諸外国の見聞を重ねた結果として、強大化しつつある人類国家に対抗する術としてその結論に至ったとされるが、詳細は定かではない。
一説にはディアルトは旅の途中で“流浪の妖精王ルーケ”と出会った事で多大なる知見を得たとされる(要出典)。
1550年の中頃、ディアルトは角鹿の部族の集落の近くに定住する黒牛の部族との交渉に成功し、「牛鹿の盟約」を結ぶ。当時のボスコニア地方で布教活動を行っていた聖月教司祭ミヒャエル・ナルダによれば、これはボスコニア地方において初めて「正式に紙で記録された盟約」であったとされる。
盟約には角鹿の部族と黒牛の部族が力を合わせて互いの部族を発展させる事や、外敵には共同でそれに対抗する旨が明文化されている。
この盟約の成立を切っ掛けとして、各地の部族がその盟約に参加する事になり(※1 初めは兎や栗鼠等の草食系かつ小柄な獣人が中心であった)、1560年の中頃には盟約に参加する部族はボスコニア地方の3分の2に至った。この頃にはディアルトは盟約の名称を「ボスコニア諸部族の盟約」に改め、後のボスコニア獣人国の首都となるボースランドの建設が開始されている。
<<ボスコニア獣人国の建国>>
星暦1579年4月に、ディアルトはボースランドにてボスコニア諸部族の盟約を発展させる形でボスコニア獣人国の建国を宣言し、獣人国議会の初代議長に就任した。既にこの頃にはボスコニア地方のほぼ全ての部族が盟約に参加していた。
ここでディアルトが“獣人の王”を名乗らなかったのは、肉食系の獣人の対処に苦慮した為であった。
肉食系の獣人である獅子・虎・狼の部族は獣人の中でも特に膂力に優れ、盟約の成立に最後まで抵抗した部族である。
彼らは狩猟を主体とする部族であると同時に、他の獣人の部族の集落を略奪する事を生業とし、誇りとしていた。(※2 但し、全ての肉食系部族がそれを行っていたわけではない事は留意すべきである。例として森林地帯に住む白狼の一族は狼の獣人の中では比較的温和であり、草食系の部族との交流を欠かさなかった。)
幾度も交渉を重ねた結果、何とか彼らを盟約に参加させた後もディアルトの苦難は続いた。
多種多様な獣人が集まりつつあったボースランドにて、肉食系の部族と草食系の部族との争いや、「運命の番」による傷害・殺人事件が頻発した為である。
特に獅子と狼の獣人は盟約内での己の部族の権威を上げるべく、他の部族と小競り合いを起こしていた。このまま獣人国が建国されても、国内で獣人同士の権力闘争が悪化する事は避けられないという状況であった。
ディアルトがひらめいた妙案とは、獅子・虎・狼の獣人を「獣人国の王族」として祀り上げ、他の諸部族がそれを崇拝するというものであった。
彼らに権威のみを与える事で、実際の国家運営は別の組織に任せるという手法である。
獅子・虎・狼の獣人以外の諸部族からそれぞれ議員が選出され、ボスコニア獣人国議会が成立した。議員の中から財務大臣や軍務大臣が選ばれ、議長の指揮下で国家運営に臨んだ。
獅子・虎・狼の獣人からは議員が選出されることは無かった。代わりとして彼らは国家の顔となる「獣人王」を選出し、更に部族長の子女を「王子」や「王女」と名乗らせた。
獣人王は各部族の持ち回りで選出する事が決定され、初代王には黄金獅子部族の獣人であるガロード・ファン・ボスコニア(1520頃?-1608)が就任した。
王子や王女は年齢順に「第○王子」「第○王女」と名乗る事が決められたが、後には同時期に第一王子や第一王女が二人以上存在した事もあった為、大した意味は無かったとされている(要出典)。
王族を祀り上げる目的で彼ら王族には莫大な私有の財産を与えられていたが、ディアルトはいずれそれも国有の財産として返還してもらう事で、彼らを実質的な飼い殺しにする事を模索していたとされるが、その目論見はディアルトの急死により叶えられることは無かった。
<<ボスコニア獣人国の発展>>
ボスコニアでは各地の部族に伝わっていた文化を持ち寄り、それを発展させる事が奨励された。
青栗鼠の部族に伝わる織物「パルザ」や赤猿の部族の伝統的な果実酒「エンミ」はその代表的な物である。
こうして集められ洗練された工芸品はボスコニアの主要な特産物として人類国家へと輸出され、ボスコニアの経済的な発展に寄与する事になる。
ボスコニア獣人国時代の文化については別項を参照。
<<ボスコニア解放戦争と獣人国の滅亡>>
1620年2月10日、ボスコニアの友好大使であったレオル・ファン・ボスコニア第三王子がヴェルタ王国の王宮を襲撃し、同王国の第二王女を誘拐するという大事件が勃発する。(ヴェルタ王宮事件)
当時のボスコニア政府は偉大な指導者であったディアルトを失ってから久しく、跡を継いだ二代議長も急病により倒れた直後であり、政治が機能不全に陥りかけていた。
ボスコニアに帰ってきたレオル王子を速やかに捕らえて王女を奪還するのが最善の手であったにも関わらず、彼らは手をこまねいて事態を悪化させたばかりか、挙句に1621年には王女を死なせるという大失態を犯してしまう。
1622年6月にはボスコニア解放戦争(ボスコニアでは「アリス王女の復讐」とも呼ばれる)が勃発し、同年の10月には首都ボースランドは対ボスコニア同盟軍に包囲される。
ボスコニア軍の主力は9月に行われた「平原会戦」により壊滅しており、ボスコニア政府はボースランドでの籠城に徹するほか無かった。
包囲は半年間続き、1623年3月13日の同盟軍による総攻撃によりボースランドは陥落した。
政府の議員と王族の殆どは捕らえられるか死亡したが、一部は脱出に成功し、ボスコニア西部の大森林地帯にて抵抗を続けていく事になる。
陥落したボースランドでは同盟軍兵士による市民からの略奪が相次ぎ(※3 但しこれは各国の軍上層部により許可を得た例が殆どである)、中には獣人が家族ごと捕らえられ奴隷として人類国家の商人に売り飛ばされる事例も多発した。特に兎の獣人は人気であり、その多くがミトディアの商人や貴族向けに売られた。今もミトディアに兎獣人が多く暮らすのはそれが遠因である。
ボスコニア政府と王族のゲリラ活動による抵抗は1627年頃まで続いたが、同盟軍が政府軍の拠点であった森林地帯に大規模な焼き討ちを決行した事で、政府軍の動きは沈静化する。
1628年11月には議員と王族のほぼ全てが同盟軍に降伏し、事実上ここでボスコニア獣人国は滅亡する。残ったのは黒狼の一族の分派のみであり、彼らはボスコニア最後の王族を名乗り1629年まで抵抗を続けた。
彼らの最後の抵抗は、アーヴァの首都キナサで発生した魔術テロ事件「黒呪の火祭り」であり、首謀者が捕縛された事でボスコニア獣人国は正式に滅亡した。
<<その後のボスコニアについて>>
終戦の時点でボスコニアの国土は略奪と焼き討ちにより焦土と化していた。
首都ボースランドは徹底的に破壊され、森林地帯は焼き討ちとその後の開拓と伐採によりその規模を大幅に縮小した。
ボスコニア地方は対ボスコニア同盟の庇護下に入り、1868年のボスコニア民主国(後のボスコニア汎人類連邦)の成立までの間、実質的な人類国家の植民地として扱われる事になる。
ボスコニア民主国については別項に記載する。