行かないと駄目
「頭の中で声がするんですよー。こっちに来いって」
……こっちってどっちだと思わないでもなかったが、今はそんな冗談を言える感じではなかった。カリンの言葉には、冗談の雰囲気など微塵もない。
「こっちに来いって、どういうことだ?」
カリンが頭を左右に振った。
「分からないんですよー。でも、ぼくはそこに行かないと駄目な気がするんですよー。ぼくはそこから来た気がするんですよー」
カリンの瞳に涙が浮かんできた。カリンはさらに言葉を続けた。
「ぼくはそこに行かないと駄目なのです。だからきっと、ぼくはファジルとお別れなんですよー」
何だ。そんなことを不安に思っていたのか、とファジルは思った。そして、ファジルは片手をカリンの頭にそっと置く。
「頭の中で聞こえる声が何だか分からないけど、カリンがそこに行かないと駄目なら、皆で行けばいいだけだろう」
「ほえーっ? だって、それが何かも、どこかも分からないんですよー」
「だったら、それを皆で探せばいい。俺なんかとは違ってエクセラもエディも、色々なことを知っているんだ。エクセラたちに訊けば、カリンが行かなければならないところ。それが何なのか分かるかもしれないぞ」
カリンの顔を覗き込むようにして、ファジルはさらに言葉を続ける。
「だから、そんな顔をするな。可愛い顔が台無しだ」
えへへっ。
ファジルの言葉にカリンが笑って瞳に浮かんでいた涙を拭った時だった。
左手の何もない空間が揺らぎ始めた。それと同時に出現する紫色の魔法陣。
空間転移。
間違いなかった。ファジルは立ち上がって背後でカリンを庇う。すでに腰にある獅子王の剣をファジルは抜き払っていた。
誰が現れるかは分からない。ただ、敵である確率は限りなく高い。今の自分たちは、王国からも勇者からも追われる身なのだから。
現れた人物は予想外と言えるほどの者ではなかった。最悪、勇者一行の勇者ロイドが現れる可能性もあるとファジルは思っていた。
しかし、姿を現したのは白く長い髭を蓄えた老人、王立魔法学院の講師、マウリカだった。
「おやおや、やはりここにおったようじゃな」
呟くようにそう言ったマウリカにファジルは剣の切先を向けた。
「爺さん、一人か?」
「ふぉふぉふぉ、答える義務はないじゃろうな。はて? エクセラともう一人の姿が見えぬようじゃが?」
もう一人とはエディのことなのだろう。マウリカの言葉ではないが、ファジルにもそれに答える義務はなかった。
「まあよい。後で探せばよいことじゃ。とりあえず、お主には死んでもらうぞ?」
「おいおい、こっちは二人。しかも、剣と魔法の連携ができる状態だ。魔導士の年寄りが一人だけで勝てると思っているのか?」
一般的に考えれば、剣士と魔導士の二人を相手にして、魔導士ひとりではかなり分が悪い。たとえ魔法の実力がどれだけ突出しているとしても。
「ふぉふぉ……いや、もう芝居をする理由もないようじゃ……さてと、貴様は頭が悪いのか?」
不意にマウリカの口調が変わる。物語に出てくる老魔導士を気取るつもりは、最早どこにもないようだった。
そして頭が悪いと真正面から言われて、ファジルの両頬が膨らむ。
「別に悪くはない。考えるのが少し苦手なだけだ」
「ならば、考えろ。苦手ならば一生懸命に考えろ。そもそも年長者に対して、貴様は口のききかたがなってない」
強くなった語調にファジルは思わず、カリンと顔を見合わせる。カリンもほえーっといった顔をしている。
「おじーさん、怒ってるのですー」
カリンが両手を上下にばたばたと振った。
「おじーさん? 口のきき方が分かっとらんようだな。貴様が呼びかけに応えないという天使か? 役目はどうした。貴様は因子を持つ者を監視していたはず……」
「ほえー?」
カリンが小首を傾げている。
呼びかけに応えない?
因子を持つ者を監視?
それになぜカリンが天使だと分かったのか。
天使の証でもあるカリンの翼は、折りたたまれて服の中にあるのだ。それに役目とは何なのか、とファジルは思う。
小首を傾げたままで何も答えないカリンを見て、マウリカが渋い顔となった。
「記憶ごと壊れているようだな。どれ……直接、試してみるか」
マウリカがカリンに向かって片手を翳す。空間が一瞬、粘りつくように歪んで濃い緑の魔法陣が浮かび上がった。